パデュウ

 君を食べたい。

 石みたいな言葉は、空腹とかじかむ手足にはなんの感慨も抱かせなかった。

 自分に差し出せるものがあって、代償として手に入るものがあるなら、それは安いものだと思えた。



 甘い紅茶だ。時間と量をしっかりと測ったウィスキー色の液体は白く、澄んだカップに溶けて、舌を蕩かせたくなる。そっと口つけると、やっぱり甘い。鼻の奥につんとした味がする。

 礼儀作法は、それを味わうものの価値になる。

 スノビズムの典型的な思考を彼は少年に植え付けてきた。質のよい調度品が並ぶ部屋は、しかし、気まぐれに色を変えた。屋敷の持ち主の美意識からしょっちゅう色彩は狂った。

 今は赤。極上のワインをたらしたような赤の部屋は、目に優しくない凶暴さをたたえて少年をときどき胸の奥で耐えられないほどの孤独に追い立てる。

 けれど、胸の痛みで腹は膨れないことを少年は心得ていた。

 自分の感情に意味を見いだせない少年は美術的なものに感心を寄せる術を持っていなかった、けれど彼がキャンバスに向かう時間だけは神聖なものとして邪魔をしてはいけないと心得ていた。ただ単純に彼がキャンバスに向かうとき、それは仕事で、それがないと自分が飢えるということを知識として知っていたからだ。


 寒い冬の日、雪は降っていなかったが、ろくでなしの父親が母親を殴り飛ばして、わずかな金を奪い取って出ていった。いつもの風景に飽き飽きして空腹の憐みを携えていたときに、じっと視線を受けた。冬そのもののような瞳にまず声をかけたのは少年だった。その問いに彼はきっちりと答えてくれた。食べたい、と、囁かれる掠れた言葉の意味をはっきりと理解した時、彼もまた自分と同じなのだと思った。だから、少年は何のためらいもなく、いいよ、と答えた。空腹の辛さは誰よりも知っているつもりだ。だから、いいよ、そのかわり、自分にも同じだけをほしいと取引をした。

 彼は少年を連れていくと、その願いをいともたやすく叶えるだけの財力を持ち合わせていた。すばらしい食事とあたたかい部屋とベッド。それさえあれば少年は満たされた。それ以外のものが必要な彼を心から憐れにすら思ったほどだ。


 彼の一日は色ではじまり、それを塗り潰し、叩き付け、砕き、溶かし、さらに味わうことで完結していた。

 贋作師というものを少年は彼の元で知った。他人の売れない絵を叩き壊して、砕いて、食べるようにして新しい絵を作り出す。それも有名な絵を真似たり、ときには直したり、彼の仕事はひどく他人行儀で、遠慮深く、ときとして凶暴だった。他人の人生を食べている、と言ってもよかった。人が血を流し、狂うほどの情熱を過去の産物として破壊してしまう。なんの罪悪感も、一切の躊躇もない。

 頭のいい、冬に生きる狼のような生き方だ。


 彼はいつも空腹に嘆いているようだった。それでも辛抱強く、美味しくなるまで待つ程度の知恵と忍耐は持ち合わせていた。彼の差し出した取引に応じた。二人の取引の言葉は紙の上に踊り、大切に仕舞われている。なにもかも破壊するからこそ、目に見えるもの以外を彼は信用しないらしい。そんなものより、首輪やら足枷やらすればいいのに、それもしない。のびのびと春風が吹くように自由のなかで少年は満たれるだけ、満たされた。


 少年が気まぐれに彼の元を立ち去って、家に帰った日、運悪く、母の元に父が来ていた。少年にとっては、ただの男で、父親ではない、そいつと母はよくある痴情の縺れと別れの話をしていた。少年は自分の不運を呪った。男にとっては都合のいい女がいなくなることは避けたく、優しい声を出していた。少年は逃げようとして、捕まった。甘いキャンディのような声に怖気にも似た納得をした。この男は自分に似ていて、いれば憎しみあうしかない。それに親子や血といったものは関係ない。母親が告げる、かわいそうな人という同情も、自分のせいだという呪詛じみた言葉も、自分がどうして弱いのかと震えるほどに思う。自分のせいにされてはたまったものではない。慌てて伸ばされた手を叩き落とした。それに男が侮べつの目を向けた。奇跡も信じられないのか。お前は。人の愛も受け取れないのか、永遠に受け取れないのだな。狼が笑っている。その瞬間、牙を剥きだした。自分はこの男と同じ血が流れているのだと直感する。まさに獣のように喰らいあう。男の首を噛み千切るようにして、殴りあった。ぎりぎりのところで少年は勝った。年老いた狼は唸り散らし、牙を吐き捨てるだけだ。自分で選ぶと決めたのだ。弱いことを言い訳にはしない。空腹は満たされた。

 誰にもよりかからない、しゃんと背筋を伸ばして、歩いて戻ると彼が待っていた。痣だらけの顔で、血を地面に吐いて捨てた。彼は少年を招いて、手当をした。怪我については何も言われなかった。少年はそれでも詫びを口にした。あなたのものを傷つけてごめんなさい、と。


 絵が完成していた。美術的な価値やら貴重さはわからないが、きれいな絵、と少年は口にする。けれどサインは出来ないと彼が返した。何も残せない哀愁をたたえた掠れた声に少年は痛みを我慢して笑い、食べていいよ、と口にした。彼はもうすぐ春が来ると告げた。そうしたら、夏が来る、また。そうしたら、と囁く。冬が来る。二人が出会った冬が

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