「それじゃあね」

 笑顔に仄かな甘い花の香りをさせて僕に背を向けた。僕は、そのとき君に言いたいことを言えずに、じっと君の背を見ているしかできなかった。

 ドラマみたいに、マンガみたいに、小説みたいに、君を呼び止めて一言だけでも声を発する、そんな事も出来なかった。勇気がなかったんだ。

 中学の卒業式、僕は君の背を見ていた。

 桜がちらちらと散っている中で騒ぐクラスメイトたちのなかにいる、今からの未来に眼を輝かせている君にまるで置いていかれてしまった子供のように、見ているしか出来なかった。


 僕はその頃、君の名前を呼びたかった。

 苗字じゃなくて名前を。人前で君の名前を口に出してみたかった。けど、一度も出来なかった。


 高校になって、大学へ……そうしているうちに君のことは記憶の中に、ゆっくりとゆっくりと埋もれて甘酸っぱさすら忘れてしまったはずなのに、同窓会のお知らせのはがきに一気に全てを思い出した。

 僕は今年で四十になる。君のことを記憶にしてしまってもいいはずの年齢だ。

 僕は冴えないおじさんになった。妻と娘たちに冷たい眼で見つめられる。リストラ寸前の、どうしようもないおじさんだ。

 おなかだって出てきた。髪の毛だって抜けてつるつるってわけではないけれど、白いものが混じって、てっぺんが見えている程度に禿げた。

 たぶん、君も、歳をとっている。

 同窓会のハガキを受け取って、僕は第一に君のことを必死で思い出そうすると桜の中での別れが蘇る。といっても僕も君も言葉なんて殆ど交わしていない。君は僕のことを覚えてはいないだろう。

 言葉を交わしたのは一度きり。

 君が机から消しゴムを落としたのに僕が拾い上げて渡した。

「ありがとう」

 君は、とってもふっくらした頬、笑った唇が優しげだった。

 僕は、その日、君を抱く夢を見た。

 思春期の少年にありがちな、気持ちの昂ぶり。あのときの甘酸っぱくて、どうしようもない衝動をよく覚えている。


 僕は、君に恋していたんだ。


 出ようか出るまいかと悩んで、僕は出席に丸をしてポストに投函して、小心者らしく後悔してうじうじと悩んだ。


 当日になって、僕は行くのをやめようかと考えた。けれど、気がつくと電車に乗って同窓会の会場に来ていた。

 門の前で僕は足を止めてしまった。やっぱり帰ろうか。そう思っていた。

「あら」

 声がして、振り返った。

 君は、あの頃と変わりない笑みを僕に向けてくれた。一目で君だとわかった。君はなにも変わっていなかったから、本当に。

「こんにちは」


 君に出会えてよかった。

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