春が恋しいと鳴く蛇
その日、冬夜の寒さが肌と心を凍てつかせるのに負けて、私は、自分の妻を買う決断をした。
まるで奴隷市に行くような怯えと背徳感は、宝石店のようなきらびやかな店の内装にものの数分で消し飛んでしまい、自分の財をすべて投げ捨てるいきおいで買い付けた彼女は、とても優しい目をして私を見つめてくれた。
ああ、彼女だ。
出会いが出会いであるが、彼女はとくに私になにかしてくれる、ということはない。断っておくが、買った際に財のほとんどを投げ打ったとしても、それは私の問題で彼女がそのために私に特別な何かをしてくれる、ということはないのだ。
彼の有名な詩人曰く、ただ魅了していてくれればいい、それだけだ。とはいえ、私に出来ることは国を滅ぼしたり、戦うといったことではなく、時間きっかりに食事を用意し、せこせこと働いて、頭をさげる、ぐらいだけど。
その日も食事――とはいえ、私の分はおうどんにしようと鍋につゆをつくって、それをことことと煮込んでいたときのことだ。ちなみに私のうどんのつゆは鶏肉でダシをとり、油揚げ、卵をいれる。卵はちょっとばかし半熟にしたものをかき混ぜ、最後にうどんをいれるのが大好きだ。ついでにネギも。ことことと、煮だって香ばしい匂いがたちこめてきた。深夜一時。仕事にかこつけて起きていたはいいが、そういえば今日は何も食べてないなぁと思い出さなくてもいいことを思い出してしまい、キッチンに足が向いてしまった。さぁ、食事をしようとうどんと卵をいれようとしたとき、あるべきところにあるべきものがない――あれ、と思って見て、ぎょっとした。
彼女が、卵を、飲み込んだ。
あああああ!
それ、半熟卵だよ!
声にならない悲鳴をあげて、じっと見つめた。彼女は満足そうな顔をしている。そりゃあ、卵は彼女の好物だろうが――しかし。彼女の顔が強張った。体の内側にとりこんだそれを割ろうとしているのだろう。だが、いくら彼女が力をいれてもなかなかに割れないらしい。だって、それ、半熟。
「半熟でも、蛇の胃で割れるのかな」
彼女のつぶらな瞳が見つめてくる。何で、どうして、と言う顔だ。どうして、と言われましても。
「えーと、吐き出したほうがいいと思います」
なんで。という目。だって、それ、半熟。
「たぶん、割れませんよ、それ」
なんで。というように首を傾げられる。だって、それ、何度も言いますが、半熟です。はい。
「返して」
私が手を差し出すと、彼女の何度目かのどうして、という疑問の瞳と態度。けれども、いくらがんばっても割れないことを悟ったのか、もぞもぞと体を動かす。長い――私の腕くらいの長さのある、その巨体を居心地悪そうにしている。蛇って飲み込んだものって、吐きだせる、のかな。私はものすごく不安と恐怖を覚えた。誤嚥した犬などは逆さにして吐き出させるというが、蛇もそれでいけるのだろうか。そもそも半熟卵って、消化できるのかな? え、わからない。
困ったときのスマホを取り出して検索。
蛇は消化に時間がかかる。だから、食事も、数日に一度で十分。消化中はただただ静かに眠っている――像も丸のみして、じっとしているのだから恐ろしい。たまに大きなものを飲み込んで胃を破裂させている蛇もいて、どうして丸のみする前にこれは食べても大丈夫かと思わないのかと呆れる。
蛇は自分の体で飲み込めるかはあらかじめ、はかるらしいが、どうも、飲み込めると判断するとがんばってしまうらしい。
ちなみに卵みたいなものは丸のみすると、胃のなかで割って、味わう。味があるのだろうかと疑問に思うが、卵を飲み込んだあとの、うっとりとした顔を見る限り、とっても良いものなのだろう。
五分の格闘。彼女の悲鳴と、反撃。手足に血が出て、うどんがものすごく伸びた。結果、なんとか卵を回収。いたた、と泣きながら半熟卵はもったいなくて、割ってうどんにいれた。どんぶりを両手に、彼女を首に置いて私は居間に移動して食べる。彼女はもくもくとした煙にむっとして去って行った。私の腕から、胴体、そして、床へ。あたかいホットカーペットに満足そうに泳ぐ彼女を私は横目に、さむ、さむ、と声を漏らして半纏をぎゅうと寄せる。
パソコンに向かい、ふらちな文字を叩きこむ。痛みと苦しみの果て、涙ながらに幸せになる男女のお話。うそつきめ。私が囁く言葉。白けた顔のまま画面を睨みつけていると、不意に足先になにかがあたった。こたつのなかをめくると、彼女がのびている。蛇は長いが、それはなんというか、横というよりも縦というよりも、なんだろう。全体的に伸びている気配がする。私はちょっとだけ呆れて、彼女を引っ張り出した。いやだ、いやだ、と体をくねらせるが私の膝の上に落ち着いた。
私は作家のくせして――それも、恋愛もの! 今の流行とブームにのっかってしまった。なんぞを書いてるくせに人間同士の恋愛というものが陳腐で阿呆らしく思える。だって言葉が通じたら、嫌なことも、愛もすべて、見とおせてしまうじゃないか。思い出すのも、うんざりなことばかり。恥じの多い人生を歩いてきました、とは太宰の言葉だったけ。本当に、恥の多い人生を歩いてまいりました。
腕に、不意に這い寄る気配がする。見ると、彼女が私を見ている。宝石の様な目、では陳腐。彼岸花、ガーネット、血、タンゴのような、暮れゆく太陽、海の果ての珊瑚、情熱、人の死……数限りない言葉を浮かべてはため息をつく。きっと、彼女の目以上にぴったりな、語るべき言葉はない。
屈みこむと、励ますように彼女の冷たい唇が私の唇にあたる。冷たい。口を開くと、そのまま食べてしまいそうになる。もしくは、私の体内にはいった彼女が内側から食べられてしまうのか。
大変、恥の多い人生を歩んで参りました。人生なんぞ、くそのようなもの。私は出来れば、このまま朽ちていきたい。けれどなにかに食べられてもみたい。そう、人嫌いのくせに、寂しさに勝てずに訪れたペットショップで、彼女を見たときに、食べられてもいいから、あなたがほしい。魅了されてしまった。
人間を嫌い、一人ぼっちで生きてきた私は、鬼畜道に落ちた。よりにもよって人間ではなく、蛇に恋をした。その白い鱗と赤い瞳、嘲笑うような金の肌に。恋をしたのだ。
店員の腕にいた彼女に怯えながら手を伸ばした。彼女がじっと見つめて、許すように、笑うように、私の腕に滑り込んでくる。人の腕を伝い、私を抱いた彼女。全身で、愛されると感じた。
知識なんぞ一つもないので店員にはあれこれと止められ、値段に怯え、用意するものの多さに眩暈を覚えながらもそろえた一式を両手に抱えて、寒空に震えながら、白い息を吐いて、私は一人を失くした。
這い寄る鱗の、なまあたたかい冷たさに、鳥肌をたてながら、見つめる瞳の孤独の色に酔っ払うみたいに、笑う。
「蛇は冬眠するらしいけど、したら、私はまた寂しさに飢えてしまうのかな。それとも、春に君が目覚めることをよすがに、喜ぶのかな」
彼女の瞳は花のよう、たとえたところでやはり陳腐でいやになる。寂しさに勝てない空想を片手間に揉みながら、食べるみたいにキスを落とす。生肉の味がする。それは彼女の味。
今日はここまでと切り上げて、私は彼女をケースのなかにいれると、それをお布団の横に置いて丸くなる。そのうち、彼女を抱いて眠りたいものだ。そんなことをしたら私は彼女の胃のなかに入れられてしまうかもしれない。そんな夢を弄びながら春には卵を片手に彼女と川辺にでもデェトとしゃれこもうと決めた。
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