E-2

「ただいま」


 アパートの玄関をくぐると、カレーの香ばしい匂いが礼人の鼻腔を刺激した。部屋着にエプロン姿の莉桜が、台所から礼人を迎える。


「おかえりなさいお兄ちゃん! 今日も早かったですね」

「うん。でも明日はちょっと遅くなる。ボランティア募集の面談があるから」


 無趣味だった兄の私生活に変化があることに、莉桜は文句は言わず、逆に表情は晴れやかになる。


「構いません、構いません。地域に奉仕するお兄ちゃんは、私の自慢ですよ」

「ありがとう。でも鍋はちゃんと見てね」

「あわわ、いけないいけない。もう出来ますから、お兄ちゃんも着替えてくださいね」


 慌ててキッチンに戻る莉桜。礼人は自室に向かい部屋着に着替えつつ、コゲを取るための重曹はまだあったか、頭の中の記憶を掘り起こそうとしたが、空腹の前にいったん考えることを止めた。

 二人で配膳し、食卓に並んだ料理を前にする。カレーライス、出来合いの福神漬け。そして莉桜が当番なので、彼女の嫌いなミニトマト抜きのサラダ。豪勢ではないが、平日の夕飯としては文句の付けようのない献立だ。


「いただきます」

「いただきます」


 二人で手を合わせ、スプーンを握る。夏野菜が入ったカレーを口に流し込むと、世辞ではなく、本心からぽろりと「うまい」という言葉が礼人の口からこぼれる。


「そうでしょう、そうでしょう。今日はいつもより高いルウにしましたので」

 えへんと莉桜が胸を張る。一か月前の事件が彼女の心に大きな傷を残さないか、礼人はずっと気がかりだったが、莉桜は礼人が見る限りはいつもと変わりなかった。


「ニュース見てもいいか?」

「どうぞどうぞ、社会人の務めとしてしっかり見てください」


 騎士に剣を授けるような、大仰な仕草で渡されたリモコンを礼人は受け取る。テレビの電源を入れる前に時刻を確認する。19時過ぎ、問題ない。可能であれば『あれ』の話題が出る地域のニュースは見たくないし、莉桜にも見せたくなかった。しかし、礼人の期待は裏切られる。


<宮城県仙台市で先月発生した、仙台市警の通報管制コールセンター立てこもり事件の発生から一か月あまり。フェイスマンと呼ばれる犯罪と戦う男の存在を、同市警は未だに認めていません>


 画面にオフィスビルの監視カメラに写ったフェイスマンの姿が写る。礼人は付けたばかりのテレビを即座にリモコンで黙らせた。莉桜が不思議そうに首を傾げる。


「ニュース、見ないんですか?」

「いや、やめよう」


 まさか、まだ全国区のニュースでも流れるとは。自身の思慮の無さに礼人は自分で腹を立てる。

 礼人は家で先月のニュースや『フェイスマン』について話題に触れることを避けた。莉桜はあの日、拳銃を頭に突きつけられていた。怖くなかったはずはない。その時の恐怖を思い出してほしくなかった。


「気にしないでいいんですよ! 製作所の人たちとの話題作りに見ないと」


 礼人の気持ちをよそに、今度は莉桜に乱暴にリモコンを奪われテレビが点けられてしまう。


「……嫌じゃないか。怖かった時のニュース見るの」


 半分は礼人自身の気持ちの吐露だ。

 今回は、いやそれ以前も、自分の活動のせいで莉桜の生活は台無しになってしまうところだった。今回も一歩間違えれば莉桜は死んでいたかもしれない。いくら自分が傷つき、生きる道を見失っていたからと言って、度を越している。自分の顔を見ることに抵抗はなくなったが、逆にフェイスマンであった時の自分の姿見るたび、己の浅はかさを見せつけられているようで、心中穏やかではなかった。


「いえ? 全然」


 しかし莉桜はあっけらかんとしている。ニュースキャスターがフェイスマンが一ヶ月近く姿を見せていないことを報じる中、食事を中断してニュースに見入っていた。


「もう会えないんですかね、フェイスマン」

「いなくていい、フェイスマンなんて」


 莉桜の寂しそうな声とは反対に、礼人の語気は強くなる。


「いろんな人を危険に晒したし、自警行為なんて身勝手で傲慢だ」


 フェイスマンの装備はアメリアに返却したコートを除いて、全て段ボール箱に詰めてキャンピングカーの傍に埋めた。もう二度と使うつもりもない。


「顔を隠してこんなことするなんて、フェイスマンは卑怯者だ」


 礼人はうつ向いて、ニュースからも、莉桜からも目を逸らす。罪の告解でもしているような気分だったし、許されるつもりも礼人にはなかった。


「そんなことはありませんよ」


 けれども莉桜は優しく否定した。まるで神が罪人を赦すように。


「私はそうは思いません、お兄ちゃん」


 礼人のスプーンを持つ手が止まる。


「きっと、フェイスマンはいろんな辛いことがあって、悩んで、迷って、苦しみ抜いて、ああやって誰かを守ることを選んだはずです。きっとそうです」


 自分の意見が絶対間違いないと言わんばかりに、莉桜は頷く。


「だって、そういう人じゃないと、ああいうことはできませんから。辛いことを知ってるから、それを別の誰かに味合わせたくないと、戦ったに違いありません。フェイスマンは絶対に良い人ですよ」


 自分がどんな顔をしてるのか、礼人は見当がつかなかった。泣きそうなのか、怯えてるのか、誤解に怒りを覚えたのか。様々な感情がまぜこぜになる。


「犬を殺したら」

「え?」


 突拍子もない言葉に、莉桜は虚を突かれたようで眉を顰めた。


「フェイスマンが野良の子犬を殺してたらどうする。いい人じゃないだろう」

「うーん、それは許せませんね」

「そうだろう」


 しかし莉桜は納得がいかないようにうーんうーんと少し唸って、改めて判決を下した。


「それでも、フェイスマンには生きていてほしいです」


 莉桜の言葉に、思わず礼人は顔を上げた。


「もし、そのことを悔いているなら、贖罪のために、最後の最後まで生きていてほしいです。ご飯をしっかり食べて、どう償えるか安易に答えを出さずに、人生を歩んで欲しいです。それが一番の贖罪になるはずですから」


 莉桜はテレビも、スマートフォンも、亡くなった両親の写真も見ていない。優しい眼差しで礼人をまっすぐ見つめていた。


「お兄ちゃん、晩御飯。残さずしっかり食べましょう。 明日もちゃんと生きるために」

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