5-13

「武器を捨てろ。腰のポーチも床に置くんだ」


 煙幕は完全に晴れていて、不意打ちは不可能だった。礼人は犬マスクの指示に従い、ゆっくりと警棒とワイヤーガン、ポーチを床に置き両手を上げる。


「見事だよ、フェイスマン。本当に見事だ」


 犬マスクの声に嘘偽りはないように聞こえる。本当にフェイスマンの活躍を讃えているようだった。


「君さえ良ければ、今からでも構わない。我々の仲間にならないか」

「人質を盾にしながら言うことか」

「必要な犠牲だよ」


 犬マスクが見下すように鼻で笑う。莉桜は必死に逃れようとするが、銃口を向けられている恐怖で力が入らない。


「フェイスマン、私と君は本質的な目的は同じだと考えている」

「同じ?」


 犬マスクは頷く。


「見てみろ、この有様を。愚か市民たちによって選ばれた、愚かな政治家たちによって民営化された市警のせいで、どれほどの犠牲があった?」


 犬マスクは窓から差し込む夕日に照らされながら雄弁に語る。


「君も街で犯罪と戦ってきたのなら見てきただろう、この街の惨状は。私たちはそれを良い方向へ変えたいだけなのだよ」


 礼人の目には犬マスクの顔が、かつて手にかけた野良犬と重なった。


「君もそうなのだろう、フェイスマン」


 犬マスクの言葉を、礼人を否定しなかった。それどころか自分の中の引っ掛かりが消える感触すらした。


「君もこの街を変えたくないのか」


 長い沈黙。礼人は上げていた両手をゆっくりと下ろす。


「俺もこの街を変えたい」


 犬マスクの男はマスク越しに鼻で笑う。所詮はこいつもこの程度だ。心の弱い部分を突き、望む答えを与えれば自分に付き従う存在だと嘲笑った。犬マスクの腕に囚われている莉桜もフェイスマンが犬マスクに屈した言葉で絶望したのか、抵抗をやめ俯く。しかし、犬マスクの嘲笑はすぐ消え去った。


「だがお前のやり方では街は変わらない」


 フェイスマンは――礼人はヘルメットの奥からでもはっきり聞こえる声で犬マスクを否定した。


「世界は、街はこんなことでは変わらない」


 莉桜の表情が絶望から引き戻される。


「街を変えるのは、お前のようなテロリストではない。お前が盾にしている少女や、お前が『愚かな』と蔑んだ人たちが変えていくんだ」


 仙台は底知れない街だ。礼人が、フェイスマンがいくら犯罪者を打ち倒しても、すぐ新たな犯罪者が沸いて出てくる。それでも彼女は、師匠は言っていた。


『この町に力を還元しろ』と。


 フェイスマンがいくら拳を振るっても、助けられるものは多くない。街は何も変わらない。でも、フェイスマンが助けたものは確実に世界を変えている。

 救いの手を差しのべられた野良犬は今、町工場の人たちの忙しさで擦りきれた心をを癒している。その人たちが作ったものが、世の中で役に立っていく。

 悪意あるクレーマーから守られたイントネーションに癖のある、でも安心感のある接客をするカフェレストランの素敵な店員は、今日も変わらぬ笑顔で、一日を頑張った誰かにパスタとコーヒーを運ぶ。

 大怪我を負わずにすんだホームレスのお爺さんが売った雑誌が、デザイナーの心を揺さぶって新しいアイデアを生み出し、作られた服が誰かの明日を彩る。

 そして今、莉桜を助ければ、優しいこの妹は世界を、このどうしようもない街を変えていくだろう。そういった一人一人の積み重ねこそが街を変えていくのだと、礼人はこの三ヶ月で、思い、感じることができた。


『あんたはなんでこんなことやってるの?』


 礼人は今ならアメリアの言葉にはっきりと答えられると確信した。

 

 自分はこの街を変えたかった。だからフェイスマンになり続けたのだ。


 この街は天国なんかじゃない。礼人はそんな街を変えるべく、顔を消し戦っていたのだ。両親を殺した街を、妹を悲しませた街を、ただ変えたかったのだ。それが途方もない道のりであろうとも。

 かつての幼い頃の礼人は、自分を悪人に変えてしまって、心をこの街に適応させ、痛みから逃げようとしていた。この街が天国と嘯いて、現実から目を逸らしたのだ。


『そもそもお前は自分が何をしたいのかすら、まだ分かっちゃいないさ』


 師匠はそれに気づいていたのだろう。だから自分に力とルールを与えたのだ。自分を変えるのではなく、痛みに耐えながらも街に力を還元し、地道に世界の方を変えていけるようにと。本当に悪人になってしまう前に、自分が奪った命への贖罪の機会が訪れるようにと。

 気づくまでに、本当に長い時間がかかった。その答えに辿り着いたきっかけが荒唐無稽なテロリストの問いかけだったのは、礼人自身でも予想できなかった。少なくとも、今の礼人の感情にネガティブなものはなく、張り詰めた状況とは裏腹に晴れやかだった。礼人は妹を、莉桜を助けるべく一歩踏み出す。


「何度だって言う、お前のやり方では街は――」


 乾いた発砲音がして、言葉が途切れる。


 犬マスクが銃口を莉桜の頭から離し、フェイスマンに向け撃った。

 フェイスマンのコートの左胸に、小さな穴が開く。そして少しの静寂の後、フェイスマンは斃れた。


 ◆


 犬マスクは人質にしていた莉桜を離す。弾丸の再装填には両手を使う必要があるためだ。解放された莉桜は涙を浮かべながら、フェイスマンに四つん這いで近づく。


「フェイスマンさん? フェイスマンさん?」


 莉桜はフェイスマンの体を掴んで揺らすが反応はない。

 当然だ。小口径の手製弾薬と言えど、心臓部に当たれば即死は免れない。犬マスクは自分に従わなかった愚かなヒーローもどきよりも、これからのことを考えた。仲間の大半がやられた以上、籠城はできない。人質たちもざわめき始めている。起き上がれる仲間を連れて脱出し、次の機会を伺う他ない。

 犬マスクは助け起こそうと、倒れている仲間に近づくが――


「動くな! 武器を捨て、その男から直ちに離れろ!」


 通報管制コールセンターの入り口から身を乗り出した、『SCPD』と書かれた防弾ジャケットを纏った人物――遠藤が拳銃を犬マスクへ向けていた。


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