5-12


 人質たちが捕らえられている、通報管理コールセンターのメインフロアでも異変が感じ取られていた。


「おいA1、B1応答しろ」

 犬マスクが非常階段と休憩室を見回りさせていたメンバーにトランシーバーに呼び掛けるが応答がない。現在メインフロアには犬マスクも含めグループのメンバーは6人しかいない。


「人質の見張りを最小にしろ、防備を固める」


 犬マスクが防衛体制を整えるべく指示を出す。警察に動きはなかった。しかし、メンバーが一人一人無力化されていることは間違いないと、犬マスクは確信した。もしこの状況で自分たちを阻止しようとするのであれば、この街では『奴』しかいない。リーダー格である犬マスクの神経が張り詰めるが、犬マスクを除いたメンバーたちはそれとは真逆の反応を見せた。


「……なんか、さっきから旨そうな匂いしないですか」

「確かに、なんだっけこれ。嗅いだことはあるけど、忘れちゃったな」


 フロア内に『何か』の匂いが充満し始める。長時間緊張状態にあったメンバーたちは次々とその匂いに集中力を削がれる。


「全員集中しろ! 敵が来る!」


 犬マスクはメンバーに叫び掛ける。だがその時、犬マスクは狭いマスクの視界が更に悪くなっていることに気づいた。

 

(しまった!)


 犬マスクの男は自身の対応の遅さを呪った。メインフロアに煙幕が満ちていたのだ。この謎の匂いは集中力を削ぎ、煙幕を広げるまでの間の時間稼ぎをするためのもの。訓練された人間ならともかく、素人の集まりの彼らは緊張感が途切れた瞬間、冷静な判断と状況把握できなくなってしまっていた。


「窓の近くにいるやつは、すぐ窓を開けろ! エアコンもフル稼働させて煙幕を取り払え!」


 犬マスクがそう命じた刹那、煙幕の中から「ぎゃぅ」という、入り口に近いところにいた仲間がが発した、短い悲鳴が聞こえた。


 ◆


「あと5人」


 煙幕の中、立てこもり犯の内の一人を警棒で倒した礼人は、フロア内の残敵数を数えながら、次の標的に狙いを定める。アメリアに調達を依頼した、紐を引いて温めるタイプの牛タン弁当の香りは、煙幕が十分張られるまで立てこもり犯たちの気を引く、良い囮になってくれた。

 だが誰かが煙幕を払うよう命じている。頭の回るやつが一人いるようだ。長期戦は礼人にとって――フェイスマンにとって不利になる。人質たちは悲鳴を上げ、メインフロアはパニック状態だった。

 半ば考えることをやめ、礼人は一番近くにいる立てこもり犯へ駆け出す。


「く、来るなぁ!」


 直前で気づいた標的が、フェイスマンに向かって拳銃を発砲する。銃口から発せられる鈍い光に一瞬体が止まりそうになるが、自身が無事であるかも確認せず、発砲してきた立てこもり犯に肉薄する。相手は防御の体制をとるが無意味だ。ガードした腕の隙間から喉目掛け警棒を突き出す。「ぐえっ」という声の後、ガードが崩れた。その隙に標的の頭に警棒を素早く何度も叩きつける。気絶こそしなかったが、戦意を完全に削いだ。


「あと4人」


 複数の銃口が自分に向く中、礼人は止まらない。こんな緊迫した状況で、礼人の脳裏にはいつも見る夢が浮かぶ。


『これ、お母さんが昔好きだった俳優さんが出てる映画なの』


 母が見たがっていた映画。ハドソン川で起こった奇跡の話。

 この状況で立てこもり犯全員を倒すには、奇跡を起こすしかなかった。


(自分だって奇跡を起こしてやる)


 莉桜を助けるためであれば、礼人は映画の中の男たちと同じように、奇跡を起こすつもりだった。それと引きかえに命燃え尽きても構わない。何度でも、何回でも奇跡を起こしてやると決意していたから、立てこもり犯の怒号と殺意が向けられる中でも、礼人は足を止めなかった。

 混乱した立てこもり犯が一人、フェイスマンと誤認して人質たちの方向へ銃を撃とうとする。礼人はデスクに置いてあったセロハンテープ台を掴むと、向かってきた立てこもり犯に投げつけた。セロハンテープ台が相手のこめかみに当たり、昏倒する。


「あと3人」


 エイリアンのマスクと、ホッケーマスクを被った男が二人。音を頼りにフェイスマンを拘束しようと間髪入れずに襲い掛かってくる。同士討ちを恐れ銃は使ってこない。

 礼人は侵入に使ったワイヤーガンを構えて撃つ。ワイヤーは向かってきた二人の後ろにあるオフィスチェアへ飛んでいき、背もたれにかぎ爪が食い込む。礼人が勢いよくワイヤーを引くと椅子は二人の男の背中に直撃し転倒させた。


「あと……!」


 倒れた二人の内、一人の頭を蹴り上げる。生死の確認をしている時間はない。


「1人……!」


 起き上がろうとした一人の頭を踏みつけて失神させる。フロアに残る立てこもり犯はあと一人のはずだった。


「動くなフェイスマン。ゆっくり振り返れ」


 人質たちの短い悲鳴が聞こえる。礼人はその声に従い振り返った。

 そこには犬のマスクを被った立てこもり犯が、女子高生を――莉桜を盾にし、フェイスマンに相対していた。犬マスクの持つ銃口は莉桜のこめかみに当てられている。フェイスマンのマスク越しの視界でも、莉桜の怯え切った表情がよく見えた。

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