5-5


 同日14時30分。菊間製作所はこの時間にしては珍しく、全員が作業場ではなく事務所にいた。


「いやぁ、これほんと美味しいなぁ、カフカさまさまだね」


 けい子はめったに食べられない焼き菓子を頬張りながら、小さな従業員を讃える。カフカ用に作った車いすが好評を呼び、その受注を受けたことで全員が忙しくなったことは、製作所の面々の記憶に新しい。その受注者の中に東京の大手菓子メーカーの家族の者がいたらしく、依頼報酬とは別に製作所の人と犬の両方に、感謝のしるしとして菓子折りが贈られたのだ。カフカへの菓子折りは勿論、犬用だった。


「先月はどうなることかと思いましたが、感謝されることは悪くないことです」


 門馬は穏やかな表情で茶をすする。


「どっかの誰かさんが、指すっとばしかけたけどな」


 荘田は焼き菓子をつまみながら、意地悪に礼人を見やった。


「その件はほんと、すみませんでした」


 礼人は事務所のソファに座り、膝の上にカフカを乗せ、もらったお菓子をカフカに与えていた。犬用パンを小さくちぎり、少しずつカフカの口元に持っていく。奪うようにそれを食べるカフカを見て、礼人の隣に座る猪野江も楽しそうだった。


「ヒヤリハットは誰にでもあることです、荘田さんも門馬さんも、あとけい子さんも気を付けてくださいね」

「まぁ作業機械じゃないけど、書類で一番ヒヤリハットしてるのは猪野江ちゃんだけどね」

「そ、それを言わないでくださいよ荘田さぁん」


 事務所の皆が微笑ましく談笑している様子を眺め、またもや礼人は自分の意識が変わったことに気づいた。以前であれば彼らの様子もどこか遠く、別の世界のことのように見ていた節があった。しかし今は自分もその世界の中にいるような気がした。檻の中から彼らを見ているのではなく、そこから出ているような気分だった。


『フェイスマン、自分赦してやれ』

『まず自分を赦して、そのあと償え』


 ひと月前の遠藤の言葉が反響する。自分の心境の変化は、自分を『赦し始めた』からなのだろうか。けれどもその後はどうすればよいのだろう。そのあとの償いはどうしていけばよいのか。自分を見つめるカフカを同じく見つめ返すが、答えは出なかった。


「蛮徒くん、犬の世界で目を見るのは、御法度ですよ」

「あ、すいません」

「あと待てできたら、ちゃんとすぐ褒めてあげてください」


 物思いにふけっていたところを猪野江に注意される。猪野江は名付けた責任感からか飼い方をよく調べ、今では事務所の誰よりも犬の飼い方に詳しかった。


「じゃあ、しっかり者の猪野江ちゃんに任せて、テレビでも見ちゃおっかなー」

「もう社長! 休憩時間ですけど一応勤務時間中ですよ!」


 猪野江の言葉も何のその、けい子は好みの俳優が出ている刑事ドラマを見るべく事務所のテレビを付けた。

 画面に写ったのは刑事ドラマではなかった。それは実際の事件現場のようで、画面の端に生中継を表す『LIVE』の文字がある。ドローンか何かで空撮された映像は仙台駅東口の全体を写し、徐々に駅と併設されたオフィスビルにクローズアップする。


<仙台市警の通報管制コールセンターが、拳銃のような物を持ったグループに占拠されたとの情報が入ってから30分。未だに立てこもり犯たちからの要求はありません>


「えっ、結構やばいニュースじゃん」

「というか、あんなところで通報受けてたのか」


 ドラマには興味のない荘田と門馬も、テレビの方を見る。けい子にいたってはあちゃーと呆れ顔だ。


<100名近い通報管制に従事している職員と、社会科見学に訪れた高校生数人が人質になっており、現場には緊張感が走っています>


「いや市警、流石に気ぃ抜き過ぎでしょ。ドラマより酷いことになってんじゃん。ねぇ、礼人……礼人?」


 けい子の呼びかけに、礼人は答えられない。視線がテレビに釘付けになると同時に、今朝の莉桜とのやり取りがフラッシュバックする。


『今日は私の分の晩御飯いらないです』

『今日は社会科見学で駅前にある警察のコールセンターに行くので』


 礼人は膝の上にいたカフカを猪野江に押し付けた。


「え、ちょ、蛮徒君?」

「れ、礼人どうした」


 礼人のただならぬ様子に、事務所の面々も動揺を隠せない。


「すいません、早退します」

「えっ、礼人ほんとにどうしたの」


 必要最小限の物を持って、事務所を出ようとする礼人を、けい子が手を伸ばして引き留めようとする。


「あの中に、ビルに莉桜がいます」


 けい子の表情と動きが、氷のように固まった。その隙を逃さず礼人は逃げるように事務所から走り去る。


「ちょっと、礼人あんた……」


 けい子もその後を追おうとするが、駆け出した礼人は既にけい子の追いつけないところまで行ってしまった。


「あんたが一人で行ってどうすんのよ……」


 けい子は遠ざかる背を、ただ眺めることしかできなかった。

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