5-3


「あ、お兄ちゃん。今日は私の分の晩御飯いらないです」


 6月16日7時30分。朝食の席で、莉桜は楽しそうに礼人に夜の不在を告げた。朝食の席には白米とインスタントのみそ汁、今日のお弁当用に作られた卵焼きとソーセージの残り。昨日の夕食の残りの小松菜のおひたしが並べられている。


「今日は高校の社会科見学で、駅前にある警察のコールセンター? に行くので。せっかくですし、帰りは友達とご飯を食べてきます」


 フェイスマンの妹が警察施設へ見学に行くのは何とも皮肉ではあるが、そんなことは莉桜には知る由もなかった。純粋に社会科見学の後に友達と遊ぶことが楽しみなようだ。


「分かった。食事代、出すよ」

「いえ大丈夫です。友達もお金はないので、安いお店でドリンクバーとピザでぐうたら過ごしてきたら帰ります」


 莉桜はこういうときの兄の申し出はいつも断っていた。礼人としてはもっと年頃の妹にいろんなものを買ってやりたい、何かしてやりたいと考えてはいたが、莉桜にできていることはあまり多くなかった。


「お兄ちゃん、今日もファッションデザイナーさんのところでバイトですか?」


 対アキモノ戦の一件以降、フェイスマンとしての活動時の莉桜への言い訳は『仙台在住のファッションデザイナーのアシスタント』としていた。


「新しいバイクが欲しいので、金を貯めるために副業をしている。けい子叔母さんには黙っていてほしい」という礼人の嘘は、アメリアが渡してくれた名刺もあり、あっさりと莉桜に受け入れられた。嘘をついているという罪悪感を拭い去ることはできない。だが莉桜が心配した表情で、深夜まで礼人の帰りを待つこともなくなった。


「うん、アメリアさんのところで荷物運びのバイト。俺もご飯は食べて帰ってくるよ」

「わかりました、でも無理しちゃダメですからね」


 しっかり者の妹は兄に釘を刺すことを忘れない。そんな妹の行く末が明るい未来になればいいと、礼人は心の中で願う。


「お兄ちゃん大丈夫ですか? ご飯、美味しくありません?」

「んあ、いや、大丈夫。納豆欲しかったなと思って」


 つい最近までは、その未来図の中に礼人自身はいなかった。今はしっかりと家族の行く末を見届けたいと思っている。そんな気持ちに気が向いていたのか、すっかり箸の動きが止まっていたのだ。


「もーファッションデザイナーさんのところでバイトするのに臭くなってどうするんですか」

「あの人の工房、昨日は牛タン臭かったぞ」

「あ、もしかして昨日の夕飯牛タンだったんですか? お兄ちゃんずるいですよ!」


 莉桜はころころ表情を変える。自分と真逆のその豊かな表情は、6月の太陽に負けず劣らず眩しい。


「でもよかったです。お兄ちゃん、ファッションデザイナーさんのところでバイトし始めてから毎日楽しそうですよ」

「楽しそう?」

「はい! 昔は気難しそうなお顔が多かったですが、最近はそんなことはなくなりました」


 今も自分の顔はあまり見たくなかった。だから変わらず、鏡の前に立つのは極力短い時間を心掛けていた。かつては罪人としての悍ましい顔が、今は空っぽの自分の顔を見るのが怖かった。

 だが人の目というは、特に家族の目は消し去れるようなものではない。そんなある種の鏡が映した今の礼人の顔は、自分で予想していたものと違っていた。


「お兄ちゃん、今も素敵な笑顔でらっしゃいますよ」


 礼人は自分の口元を撫でる。ご飯粒がついている。そして確かに笑っているのだった。

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