4-7


 光延は肌寒さで目が覚めた。周囲の景色は気を失った時から一変して屋外になっていた。気を失ってからそう時間は立っていないのか、夜の闇が辺りを包んでいる。

 光延は固いコンクリートの上に下着姿で寝かせられており、手は後ろで結束バンドか何かで拘束されており自由が利かない。足もロープで縛られており、動こうとするたびに芋虫のように体がくねるばかりだった。


「起きたか」


 光延の全身から冷や汗が流れ出す。自分が狩りたてたはずが、逆に追い詰められた相手。フェイスマンが光延のすぐ目の前に立っていた。つま先に鉄板が張り付けてあるフェイスマンのブーツが見える。蹴られたら顔はぐちゃぐちゃになるだろう。しかし、フェイスマンはそのような凶行には走らなかった。


「まわりを見てみろ」


 光延はさらに背筋を凍らせた。よく見ると彼らがいる場所は橋だった。

 八木山橋。そこは仙台市民ならだれでも知る、それどころかアニメの舞台にもなり全国的に有名になった自殺の名所だった。あまりにも自殺者が相次ぐため、それを阻むための3メートル程の高さのフェンスを設置する計画があったが、市警すら民営化しなければならないほどの財政の仙台に、それを実行する余裕はなかった。今は腰上ぐらいの高さしかない柵があるのみだった。


「や、やっやややぎや……」

「よく考えて回答しろ」


 フェイスマンの手には光延の愛用しているスマートフォンが握られている。自分の命と同じくらい大切なスマートフォンと、自分の命そのものが握られていることに、光延は悔しさに顔をくしゃくしゃに歪めた。


「金輪際、動画の撮影と投稿をするな。今まで投稿したものも削除し、広告なしで謝罪動画をアップし引退しろ」


 そんな! できっこない!

 光延にとって投稿してきた動画は財産そのものだった。それを作り上げるために費やした時間と労力、そこからもたらされる広告収入をあっさり捨てたくはない。何とか誤魔化しがきかないか、譲歩の線がないか思考を巡らせる。


「市民に迷惑をかけず、俺のことも追うな」

「な、なぁフェイスマン。襲って悪かったよ、広告収入の30%は君に……」

「そうか」


 フェイスマンは光延が言い終わる前に彼を掴み上げ、橋から放り投げた。


 死ぬ! こんなにあっさりと! 


 光延は絶叫するが途中で強い力により遮られる。足のロープは橋の鉄骨に括り付けられており、光延は橋から吊るされる形となった。


「ひぃっ! わかった! 半分! 半分ならどうだ!」

「金はいらない」


 フェイスマンは宙吊りになった光延に見えるように、安物の包丁を取り出す。


「お前への命令を追加する。スマートフォンのパスコードを教えろ。そうすれば、警察に通報してやる」


 こいつは何を言ってるんだ? 警察を呼んだら立場が悪くなるのではないのか?


「自白しろ。今までの行いと、俺を襲うために凶器の準備をしたこと」


 つまりこいつは、自分では手を下さず警察に全てを投げやろうとしているのだ。これは占めた。奴は確か凶悪な犯罪者だが、やはり殺しはしない。奇妙な恰好と強い言葉で脅すことしかできない腰抜けなのだ。


「はっ! 誰が言うか! てめぇがとっ捕まれや!」

「よく考えろ、と忠告はしたぞ」


 フェイスマンは包丁を取り出す。安物の刃が、街灯の明かりを反射し煌めく。刃は光延と橋を繋ぐ蜘蛛の糸のようなロープにあてがわれ、ゆっくりと引かれ始めた。


「下手な脅しだなぁ! お前は人を殺せない! そうだろ?!」


 内心に少し焦りが出る。自分の調べではフェイスマンは殺人はしないはずだった。これも脅しの延長だ。どうってことないと自分に言い聞かせる。


「遺憾ながら」


 しかしナイフより冷たい一言が、光延を絶望に叩き落とした。


「命を奪うのは、これが初めてじゃない」


 ロープを切ろうとするフェイスマンの手が早まる。切られてしまえば光延は70メートル下に落下することになる。待ち受けるのは確定的な死だ。


「わかった! 言う、言うから! パスコードは1549、1549だ!」

「確かめる」


 フェイスマンの手が止まる。光延は自らの鼻水で窒息しそうだった。今、フェイスマンが自分の歴史を消している。自分の実績を消している。悔しくて悔しくて仕方なかった。


「お前のチャンネルを削除した。謝罪動画は新しいアカウントで行え」

「もういいだろぉ、助けてくれよぉ」


 ロープがミシミシと音を立て、今にも切れそうに感じる。自分の体重がとにかく恨めしかった。


「それもお前次第だ」


 フェイスマンはスピーカーフォンにしたスマートフォンを、光延の声が届くよう橋の外に掲げる。何度かのコール音の後に、女性の声が出る。


<はい、こちら仙台市警。いかがなさいましたか?>

「悪かった! 俺が全部悪かった!」


 光延は力の限り叫んだ。


「俺が仙台のいろんなお店に迷惑をかけた! フェイスマンをぶっ潰すために色々やった! いまあいつに橋の上から吊るされてる。助けてくれ!」


 矢継ぎ早に出てくる言葉とは対象に、電話の向こうにいるオペレーターはため息をつく。


<また悪戯ですか? いい加減にしてください、こちらはただでさえ忙しいのに>


『すぐパトカーを向かわせます』も『大丈夫ですか?』という心配の声もなかった。ただ一蹴された。


「悪戯じゃないっての! 助けろ! 俺を助けろ!」

<まず周囲の人に助けを求めてみてください。それでもダメなら再度通報を>

「待って! お願い、切らないで!」

<本日はお電話ありがとうございました>


 通常の市警の通報フロー通りに、電話が切られた。光延は泣き叫ぶ。この世の理不尽が全て自分に降りかかったようだった。


「残念だったな」


 冷たい言葉を置いて、フェイスマンの姿が橋から消える。


「お、おい! 待て! 置いていくな! 引き上げてくれ! 頼む、なんでもするから!」


 光延は姿の見えなくなったフェイスマンに叫ぶ。だがその応答は、先ほどのオペレーターと変わらぬ残酷さだった。


「なんでもというなら、そこでぶら下がってろ」


 それきり、橋の上からフェイスマンの声がすることはなかった。


 ◆


 礼人は光延のスマートフォンを、画面が割れないよう静かに地面に置くと、その場を離れた。橋から少し離れたところでは、光延とフェイスマンをこの橋まで送り出した人物が待っていた。


「終わったか」


 そこには私用車で彼らを送り届けた遠藤の姿があった。


『そいつを、光延を傷つけないかわりに、人目のつかないところに連れってやる。そこで好きなだけ懲らしめろ』


 遠藤は焼き肉店でフェイスマンにそう持ち掛けた。そしてパトカーではなく、遠藤の私用車でここまで連れてこられたのだった。


「今夜は一雨降るって知ってたか? フェイスマン」

「いや、知らなかった」


 互いに顔を合わさず、というよりもフェイスマンに至っては合わせているのか分からないが、二人は光延の今夜の行く末について思いを巡らせた。


「それにしても、よくついてきたな。そのまま警察署へ直行だったかもしれないんだぞ」


 遠藤は自分が持ちかけた取引であるにも関わらず、フェイスマンが誘いに乗るとは思えなかった。光延ともども、フェイスマンに半殺しにされることも覚悟したが、彼は即決で取引に応じてくれた。


「あなたがいい警官だから」


 信じられない言葉だ。マスクで声はくぐもっているが、遠藤の聞き違いではないようだ。


「あなたは俺と初めて会ったとき、警察手帳を取り出して身分を明らかにした誠実な人だ。普通はあなたの相棒のように、問答無用で武器を向ける」


 そんなこともあったな、遠藤は苦笑したことを隠さなかった。


「そんなあなたが、警官としての身分を提示せず、取引を持ち掛けた。信頼に足ると感じた」

「お前、いつか足をすくわれるぞ」


 柄にもない忠告が出たことに、遠藤自身も驚く。


「逆に聞くが遠藤刑事、あなたはなんで俺と取引をしようと思った?」


 フェイスマンは遠藤をまっすぐ見る。遠藤はあまり星の見えない夜空を見上げた。


「そうだな……自分の『責務』を思い出したからだよ」


 日々の忙しさに忙殺され、自分が忘れかけていたこと。遠藤はそれを礼人との会話で思い出していた。

 フェイスマンから光延を守るのであれば、例え本人の希望であっても彼を守れる位置にいなければならない。遠藤は意図的にそれを放棄した。

 逃げ延びたフェイスマンが、いわば犯罪者の光延を放置するはずがない。そう確信してあえて警備に隙を作ったのだ。予想通りフェイスマンは現れ光延への報復を行った。遠藤はフェイスマンが必要以上に残虐な手段をとらないよう間に入り、こうやって尋問している間も見張る。そうやって市警の誰もがなしえなかった、光延の市警からの排除を実現したのだった。


「世界を変えるには、自分が変わるのが手っ取り早い」


 市警を変えるには時間がかかる。だが自分を変えるのは一瞬だ。目的のために自分が変わらなければならないのであれば、何も躊躇いはなかった。


「あいつが市警に関わってると面倒でな。お前を利用させてもらった」


 しかし自己嫌悪感は絶え間なく遠藤を襲う。自分の我を通すために、捕まえようとしていた相手を利用したのだから、刑事失格だ。


「遠藤刑事」


 フェイスマンは何かを手に握り、遠藤に投げつけた。遠藤の額に当たる。


「なにしやがんだ!」

「俺はあなたに暴行を振るった」


 遠藤の怒声にフェイスマンは臆さない。


「あなたは俺の脅しに致し方なく、従った」

「お前まさか」


 遠藤は気づく。今回この場で起こったことは全て自分の責任だと、遠藤の罪も自分が背負うと言っているのだ。


「あなたはいい警官でいてください。あなたのような人がこの街には、仙台には必要だ」


 フェイスマンはその場から去ろうと、遠藤から背を向ける。


「まだ聞きたいことがある」


 強く一歩踏み出す。警察官として、刑事として聞かねばならないことがある。


「さっきの光延に言った言葉、命を奪ったことがあるってのは本当か」

「本当です」

「それは人間か、人間以外か」

「両方です」


 長い静寂が訪れる。


「人間は、お前が手を下したのか」


 フェイスマンの背が震えている。


「いえ、でも俺が殺したようなものです。それに、人じゃない方は俺が直接手を下しました」


 遠藤は息を吞む。

 フェイスマンは誰かに命じられているわけではない。本田が指摘した通り、単独でこの自警活動に身を投じているのだとフェイスマンの態度で遠藤は確信した。この男は誰にも責められない、そして赦しを与えられることのない罪を抱えている。それは自首して誰かに許されるようなものではないのだ。だから自分を偽り、そして自らを傷つけるしかない。なんと哀れな存在だろうか。


「フェイスマン、自分を赦してやれ」


 遠藤はかつて自分がよくないことをしたときの、恩師の言葉を引用した。


「まず自分を赦して、そのあと償え。でないと償いが終わる前にお前が壊れてしまう」


 フェイスマンは歩み始める。街までは距離がある。どう帰るつもりなのだろうか。


「遠藤刑事、それで帰りに飲み物でも買ってください」


 遠藤は地面に落ちた、自分に投げつけられたものを拾い上げる。小銭だった。100円玉と50円玉が一枚ずつ。


「おい、フェイスマン……」


 遠藤が顔を上げたときには、フェイスマンの姿はなかった。まるで夜の闇に溶けたように消えた。取り残された遠藤の体を、5月の生温い風が包む。


「……コーヒーでも飲むか」


 遠藤は遠くに聞こえる光延の声を無視し車に体を押し込むと、夜更けにも関わらず明かりの灯る仙台の街に向け、車を走らせた。

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