4章 その贖罪に低評価を

4-1


 礼人は夢を見ていた。


 それが夢と分かるのは、何度も見た夢だからだ。両親が死んだ日から、繰り返し何度も見た古い記憶の夢だった。

 夢の中では礼人は小学生だった。4年生になったばかりで、成長痛が酷かったことを今でも思い出せる。両親の声も朧げにしか覚えていないのに、そんなくだらないことを覚えているのかと、夢を見るたびに自己嫌悪に陥る。

 小学生の礼人は両親と、そして妹と暮らすファミリー向けマンションの一室のドアをくぐる。


「おにいちゃん! おかえり!」


 玄関で靴を脱ぐと、その年に小学生になったばかりの莉桜が、乳歯が抜け始めた歯を見せながら礼人に近づいてくる。


「ねね、きのうのつづき、あそんでくれる?」


 莉桜は叔母のけい子から買ってもらった、シルバニアファミリーの人形を持って礼人を上目遣いで見る。


「うん、宿題やってからね。部屋で待ってて」

 礼人は莉桜に優しいまなざしを向け、頭を撫でてやる。兄が期待通りの答えを返してくれたことで、莉桜は上機嫌ににっこりと笑った。

 莉桜とリビングに向かうと、礼人と莉桜の母がそこで洗濯物を畳んでいた。テレビがついており、午後のワイドショーが流れている。


「おかえりなさい、莉桜ずっと待ってたよ」


 母はちょっと困った顔で礼人を見る。恐らく礼人が帰ってくるまで『おにいちゃんまだかな』攻撃を莉桜から受けていたのだろう。


「宿題、すぐに終わらせるよ」


 母の家事をこれ以上妨害されてはたまらない。礼人は極めて重大な任務を帯びたような、真剣な面持ちで返事をし、手洗いに洗面所に向かう。洗面所から戻った時、母のシャツを畳む手が止まっていた。妹の邪魔が入ったわけではないようだったことは、母がテレビにくぎ付けになっていたことから、すぐに分かった。

 母の視線を占有したのは、ワイドショーの騒がしいキャスターの声ではなく、合間に流れるコマーシャルの一つだった。それは西部劇で有名な映画監督の最新作の予告編だった。トラブルが起きた旅客機を、パイロットの男たちが必死に奇跡を引き寄せ、ハドソン川に着陸させるという、実話を元にした映画だった。母はてきぱきとした人物だったので、手を止めている姿が印象的で、礼人はもの珍しく感じた。


「お母さん、その映画みたいの?」


 コマーシャルが終わった頃合いを見て発せられた礼人の言葉に、母ははっとしてテレビから視線を外す。


「え、うん……さっきの映画に出てる俳優さんがね、お母さん昔好きだった俳優さんなの」


 母はそういった後「まっ、今一番好きなのはお父さんだけど」付け加えるのを忘れなかった。


「お母さん、お父さんと一緒に見に行きなよ」


 礼人の言葉に、母は少しびっくりした様子だった。礼人は両親の結婚記念日が近いことを知っていたし、最近父が勤め先の高校での仕事が忙しく、母との時間を作れていないことも分かっていた。記念日であれば、両親が二人で映画に行く口実としては最適だろうと考えたのだ。


「僕も大きくなったし、一日くらいなら莉桜と一緒に留守番できるから」


 母は自分に気を遣うまでに成長した息子の姿が嬉しかったのか、とても綺麗に笑ってくれた。


「ありがと礼人、でも二人で留守番はまださせられないかな」


 礼人は母の言葉の隙を見逃さなかった。


「じゃあ、けい子叔母さんの家にいるよ。それなら心配しなくていいでしょ」


 礼人の提案に母は肩をすくめた。


「そこまで言ってくれるなら……お父さんに話してみよっかな」


 礼人は母が折れたのを見て顔をほころばせた。両親二人が喜んでくれるなら、子供の礼人にはこれ以上くらい嬉しいことだし、叔母のけい子は自分にも莉桜にも優しい。きっとその日は家族全員が嬉しい、最高の日になるに違いないと、子供の頃の礼人は確信した。

 だがそれは全くの逆で、その年の両親の結婚記念日は、最悪という言葉すら生ぬるく感じる程の一日になった。


 ◆


 景色がマンションのリビングから、葬儀場に代わる。夢の中で、両親の通夜が行われている。

 両親の眠る棺のすぐ近くに、優しい両親の遺影が目に入る。葬儀場は礼人の知らない人たちでいっぱいだった。良い高校教師だった父には、同僚の先生方や教え子たちが。友人の多い母にはママ友や、普段であれば人付き合いの少ないマンションの住民さえもいた。

 たくさんいる参列者の視線が礼人に注がれる。その大半は残された礼人や莉桜に対する哀れみだったが、うつ向く礼人にはそれがまた違う感情のものに感じられた。


「おにいじゃんのぜいだぁ……!」


 泣き叫ぶ妹の声ではっとする。莉桜は喪服に身を包んだ叔母に抱き着いて、そう叫んだ。


「きいだもん! おにいじゃんがえいがにいけって、おがあざんにいってたもん!」


 莉桜はつっかえながら、嗚咽で悪くなる活舌で礼人を責め立てた。突然、両親と永遠に会えなくなった哀しみを、一番身近な人物にぶつけたのだ。小さい莉桜の言葉が、どんな刃物よりも鋭く、どんな弾丸より冷たく、幼い礼人の心に突き刺さる。けい子は莉桜の言葉を止めることも、礼人にそんなことはない、と言うこともできなかった。けい子自身も、姉とその配偶者の死を受け止め切れていないのだ。

 妹の叫び、周りから注がれる視線、けい子の当惑した表情、すべてが礼人の心の中で渦巻く。そしてぷつんと、礼人の中の何かが切れたとき、礼人はその場から走り出していた。


 礼人が駆け込んだのは斎場の男子トイレだった。洗面台の鏡に自分の顔が映る。うつろな目をした、うつろな子供。両親を死に追いやった子供の顔。

 気づいたときには、礼人は叫んでいた。親指を思い切り噛むと、流れる血で鏡に映る自分の顔を消そうと、親指をがむしゃらに押し付けた。


 これは悪人の顔だ


 頼もしい父を、優しい母を殺した、罪人の顔だ


 自分は、蛮徒 礼人は悪人だ


 悪人の顔は消すべきだ


 まっさらにして


 のっぺらぼうのように


 消してしまうべきだ


 子供の親指から流れる血では、斎場のトイレの大きな鏡を覆いつくすには足りない。他の指も噛み、塗りつぶせる範囲を広げるようとする。礼人は叫んだ。

 

 ごめんなさい 今消すから ごめんなさい。と。


 礼人に気づいた誰かが、礼人の肩を掴んで、礼人の『贖罪』をやめさせようとしている。

 鏡から引き離されたとき、まだそこには礼人の顔が映っていた。血で彩られた、悍ましい子供顔が。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る