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 家のない老人は、今ひどく怯えていた。今日は彼にとって貴重な収入のある日だった。ただそれも数百円程度のもので、吹けば飛んでしまうようなものだ。

 だが、その男はその数百円すら見逃さなかった。自分が普段は入らないコンビニに、温かい食べ物を買うため入るか迷っているときに声をかけてきた。最初は丁寧な口調で話しかけてきたが、老人は長いホームレス生活により危険を察知し、その場から離れようとした。 

けれども、男はしつこく付きまとってきた。よれよれのジャージを着たその中年男は、自分とそう変わらないか、それよりはマシな立場にいる者だろうが、老人を自分より格下と見て強く絡んできた。

 最初こそ「薄汚いやつはアーケードまでくるな」だとか「お前みたいなのがいるから街の治安は悪くなる」といった罵倒をしていただけだが、次第に「あんなところにいたのだから、金をもっているのだろう」「俺が代わりに使ってやる」と酒臭い息を吐きながら老人を脅迫してきた。

 しつこく付きまとわれた老人は、遂に定禅寺通りの端、西公園付近まで追いかけられ、業を煮やした男性に突き飛ばされた。

 野球マウンド二つ分の面積がある西公園は、昼間こそ親子連れや仕事をさぼるサラリーマンがいるが、夜には人気が全く無くなる。

 誰もいない公園に追い込まれ、地面に倒れた老人に見舞われるのは蹴りだった。強くはないが、自身の尊厳を傷つける暴力が振るわれ始める。

 こういう事態に陥った時、助けを求めてはいけない。相手が余計に面白がるからだ。じっと、相手が飽きるまで、満足するまで耐える。悔しくて涙が出そうになるが、ぐっと堪える。今、自分がこうなっているのも、路上でこんな目に合っているのも、自己責任なのだからと耐える。

 だが、今日は相手が飽きるのが早かったのか、蹴りが早く止んだ。老人は恐る恐る、腕で守りながら顔を上げる。油断したところに手痛い蹴りが顔面にくることもあるからだ。しかし老人の警戒は杞憂に終わった。


 老人の目には二つの人物が写った。ひとつは先ほどまで自分を痛めつけていた、中年の男性。もうひとつは、得体のしれない怪物だった。


 その怪物は人の形こそしているが、全身黒ずくめで、顔のない異様な姿をしていた。その黒づくめの怪物が、中年の男性の首を後ろから両手で絞めている。中年男性はその手を振りほどこうと暴れるが、その動きを利用され、自身が突き飛ばしたホームレスの老人のように、地面に投げ倒される。

 男が倒れても怪物は攻撃の手を緩めない。男の足首を重そうな靴で踏みつける。骨の折れる嫌な音と、男性の悲鳴が公園中に響く。中年男性は這ってその場を離れようとするが、のっぺらぼうの怪物に肩を掴まれ、無理やり仰向けにさせられた。

 男が精いっぱいの強がりで怪物を罵ろうとした時、のっぺらぼうの怪物の顔がみるみると怯えた男の顔に変わる。正確に言えば怪物の顔面にあたる、ヘルメットの表面に付けられた曲面ディスプレイが、カメラに捉えられた怯えた男の顔を表示しているに過ぎない。

 しかし自身の苦悶の顔を目の当たりにし、中年男は老人をいたぶっていた時の威勢を失い、ただ泣き叫ぶばかりになった。罪を犯した自分の顔が、罪人にとって何よりも見たくないものであることは、その怪物自身が身をもって体験していた。

 怪物は――怪物の衣装を纏った蛮徒 礼人は、特殊警棒をベルトから外す、勢いよく振って本来の長さにすると、男に馬乗りになり、そのまま男の顔を殴り始めた。やめてくれ、許してくれ、と懇願されても。自身が助けた老人が、自身の姿を見て怯えていても構わず殴り続けた。


 昨晩の若者たちにしたように。

 かつて自分が罪のない命にそうしたように。

 明確な害意をもって、暴力の嵐となっていた。


「動くな! その男から直ちに離れろ!」


 突然、眩しいライトの光が当てられ、ヘルメットのカメラがハレーションを起こす。礼人は抵抗しなくなった男性を殴るのを止め、自身を制止しようとした声の方へ顔を向けた。

 そこには警察手帳を片手に、もう一方の手でライトを持ち、こちらを照らし出す私服警官――遠藤の姿があった。


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