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「すいません、蛮徒くん。一緒に残業してもらちゃって」

「いえ。猪野江さんには、いつも苦労かけてますから」


 礼人は4歳年上の事務員の猪野江いのえに、パソコンの画面から目を離さず優しく答えた。

 菊真製作所は社長のけい子も含めて、従業員五人の小さな町工場だ。礼人も普段は製造に携わるが、人手が必要な時は猪野江を手伝う形で事務作業も行っている。今も勤務時間後の後処理作業を、猪野江と行っている最中だった。

 二人のキーボードを叩く、リズミカルで静かな音が聞こえる中、夕日が事務所内に差し込み、オレンジ色の光で満たされる。そのオレンジの海となった事務室の礼人のデスクの足元で、子犬が事務所のタオルで作られた即席のベッドで小さな寝息を立てていた。


「わんちゃん、なんとか大丈夫みたいで良かったです」


 朝に製作所に拾われた子犬は、獣医によれば絶対安静と寄生虫の駆除が必要だが、今後目立った障害は残らないだろうとのことだった。勤務時間外は叔母のけい子が家で飼うことになり、社員一同、胸をなでおろした。


「それにしてもわんちゃん、蛮徒くんから離れませんね。安心できるのかな」


 猪野江は礼人の足元をのぞき込んで、愛おしそうにふにゃっと笑う。


「もしかしたら美味しそうな匂いでもするのかもしれません」

「それうらやましいなぁ。私、猫カフェとかいっても全然懐かれなくて」

「猪野江さん、動物見るとめちゃくちゃテンション上がりますから、怖がられてるんですよ」

「うぅ、否めない……」


 猪野江は年下の礼人にからかわれたにもかかわらず、反論をせずに体を小さくして子犬を起こさないようにそっと離れる。

 猪野江は去年の春から入社した事務員だ。小柄で黒ぶち眼鏡、癖っ毛のロングヘアーの彼女の姿は、中学生のように見えなくもない。

 猪野江には少しどんくさいところがある。うっかりミスをすることが多々あり、礼人はそのフォローに回ることが多かった。

 しかし猪野江に不満を言う者は製作所内にはいない。誠実な人柄で、仕事を一生懸命に覚え、入社から一度も欠勤していない。どんなに忙しくても、荘田が年末調整の書類を出し忘れても、急な残業をけい子から依頼されてもへにゃっと笑って引き受けてくれる。

 そんな彼女だから製作所の皆から好かれていた。多少のミスにも目はつむられるし、礼人がフォローに入ることでミスの心配はないだろうと思われている。

 そして、それは礼人にとっては好都合だった。『贖罪』の活動にはどうしても各種機械部品、部材が必要になる。現物を職場から拝借することは難しくない。しかし、それは帳簿が合わなければ、すぐに発覚する横領だ。納品リストや発注書にアクセスできる、この『お手伝い』のポジションは今の彼に必要なものだった。


「二人ともお疲れー! いやぁ、犬用グッズっていろいろあって見るだけで楽しくなっちゃうね!」


 時刻も18時を回ろうとしたとき、子犬を家で飼うのに必要なものを、ホームセンターで調達したけい子が事務所へ戻ってきた。けい子の声に驚いた子犬は飛び起き、タオルのベッドから礼人の膝の上に乗ろうと、前足を礼人の安全靴の上にのせジャンプしようとする。


「うん、思ったより元気そうだ。あとは徐々に私たちに慣れてくれるといいね」


 けい子は犬用グッズが詰まったホームセンターのビニール袋をデスクに置き、満足そうに子犬の様子を見る。


「うちで飼うなら、名前も決めないといけませんね」

「それに関しては猪野江ちゃんにお任せしようかなと思ってるんだよね」

「ひぇっ?! 私ですか?!」


 軽い気持ちで口に出た言葉が災いし、白羽の矢が飛んできた猪野江は、椅子から飛び上がって驚く。

「俺からもお願いします。俺はネーミングセンスないし、荘田さんと門馬さんだと競争馬の名前になりそうなんで」

「せ、責任重大すぎますよぉ」


 猪野江は両手で顔を覆って困り果てる。


「じゃあ、俺はそろそろ帰りますね。備品の管理表は上げておいたので、けい子さん確認願います」

「オッケーお疲れねー」

「ひぇぇぇ、蛮徒くん置いていかないでぇ、こんなの一人で決められないよぉ」


 猪野江の悲痛な叫びを背に、礼人は事務所を後にしようとしたが、もう一つの声に呼び止められる。


「礼人、もし生活が厳しかったら、いつでも戻ってきていいからね。莉桜ちゃんのためにも」


 呼び止めたのはけい子の声だった。その声は本気で礼人と莉桜を心配する、優しいものだった。礼人はしっかりけい子に向き合い頭を下げる。


「叔母さん、ありがとうございます。でも大丈夫です。俺と莉桜の二人で、出来るところまでやってみたいので」


 ◆


 礼人は事務所から出ると、夜の帳が街を覆う中、原付を家とは反対の方向に走らせる。職場から近い地区、米ケ袋を通り抜け広瀬川に突き当たると、路上に原付を駐輪し、小高くなった住宅地から河川敷へ降りていく。市の財政悪化により、河川敷も所々手入れされていない箇所がある。礼人が目指しているのも、そういった区画のひとつだった。

 目的地は雑草が生え放題になっており、緑の海を掻き分けて進む必要がある。雑草の海を越えた先には、錆びだらけになったキャンピングカーが礼人の帰りを待っていた。

 かつて、あるホームレスが住んでいたキャンピングカーだが『彼女』がいなくなってからは礼人が使用している。鍵を開け中に入ると、薄暗い車内の闇が礼人を迎える。錆と泥だらけの外観とは異なり、内装は礼人によって驚くほど綺麗に整備されていた。

 壁には仙台市中心街の地図が張られており、監視カメラの作動状態が詳しく書き込まれ、通り抜けできる路地の情報が事細かに記載されていた。狭い車内ではあるが本来の装備がいくつか取り外され、作業台と簡単な工作機械、工具が備え付けられている。キャンピングカーの本来のターゲット層である家族が食事や、キャンプ中のボードゲームを楽しむのに使うであろうテーブルには、警察無線を傍受するための受信装置が置かれている。

 ここは礼人のアジトだった。自分の目的、『贖罪』を実行するため、長い時間をかけ準備した物の内の一つだ。

 礼人はベッドにもなるソファに腰を下ろし、莉桜に『荘田さんたちと飲んでくる』とスマートフォンでメッセージを送ると、テーブルの上の受信装置を起動する。

 通常の警察無線は、礼人のような一般市民が傍受することは不可能だ。しかし、民営化し暴力団や海外からの犯罪グループが軒並み姿を消した仙台市内の警察無線は、セキュリティに対するコンプライアンス意識が甘い。専用の装置を入手できれば簡単に傍受できる。礼人も故障した受信装置のジャンク品を、インターネットで数千円で手に入れ自分で修理し使用していた。

 受信装置を起動すると、断続的に無線の音声がスピーカーから流れ始める。各パトカーの雑な巡回報告や、対応に時間はかかるが給与査定には大きく響かない事件への急行を押し付けあう警官の声が聞こえてくる。


<PC05、巡回予定を5分早めに切り上げる。06はいつもの店に>

<PC06より05へ。というより、このままいつもの場所で落ち合うのじゃダメか。いちいち中央まで戻るのが面倒だ>


<OPよりPC37へ花京院4丁目でひったくり発生。急行できますか>

<PC37よりOP、あーいま休憩に入ったばかりだ。PC15がやりたがってるんじゃないか>

<こちらPC15、ふざけんな。先月お前の受け持ち変わっただろう。お前が行けよ>


 通常の仙台市民であれば、この無線内容を聞けば憤り、市の窓口に苦情の一つでも言いたくなるだろう。だが礼人は眉一つ動かさず、無線を聞き続ける。無視され続ける事件の中から『自分が手を出せるもの』を吟味しているのだ。


(花京院のひったくり、遠すぎるし間に合わない)

(死体発見の通報、犯人は近くにいない。ダメだ)

(万引きの通報……すでに警官が対応。NG)

 そうやって無線を傍受し続けること1時間と少し、礼人の『条件』に合う通報の知らせが、受信機からもたらされる。


<OPより西公園付近のPCへ。西公園内でホームレスの男性が中年の男性から暴行を受けているとの通報あり、現場に迎えるPCいますか?どうぞ>


 通報を受けた巡回中の警官たちは、それぞれ渋る回答をする。だが礼人にとっては好都合だった。


「だが昨日と同じく近すぎる……流石にまずいか」


 昨晩の『贖罪』をした現場から、目と鼻の先ほどの距離が通報発生場所だった。もし警察官が警戒していた場合、あっという間に包囲され、拘束される可能性がある。


「……バットモービルでもあれば良いんだが」


 移動手段が徒歩のみの礼人には、遠方の事件は選べない。多少のリスクは覚悟して挑まなければならない。礼人はソファから立ち上がると、キャンピングカーの車内に備え付けてあるクローゼットを開ける。

 本来であればアウトドア用品やシュラフ、予備の服が入れられるそこには、一揃えの黒装束が納められていた。礼人はその黒装束をクローゼットから取り出し、自分の体に纏っていく。

 その衣装の大半は大量生産された物の寄せ集めだった。工業作業用の動きやすく、通常品よりもポケットが多い黒の作業着。バイクや自転車用の各関節部を守る黒のプロテクター。仕事でも使用するタイプで、爪先にさらに鉄板を外付けした黒の安全靴。ナイフを掴んでも、皮膚まで到達しないほどの厚さを持った黒のグローブ。顔以外のすべてを黒装束で覆った後、礼人は最後に手製のヘルメットを手に取る。

 ヘルメットの見た目はバイク用の黒いフルフェイスヘルメットのように見える。しかし正面から見たそれは、不気味な印象を見る物に与えるものだった。ヘルメットの前面はのぞき穴などがない、鈍い銀色の素材で覆われており『のっぺらぼう』と呼ぶのが相応しい見た目をしている。礼人は、その顔のない仮面を被る。のぞき穴もアクリル製のシールドもないそのヘルメットは、被った途端に礼人の視界を真っ黒に潰す。


「認証コード『Eckhart 2016 HUDSON』。システムスタート、前方パネル表示開始」


 礼人は音声でヘルメットに内蔵されたシステムを起動する。すぐに真っ暗なヘルメット内に光があふれ、キャンピングカー内の様子が映し出される。ヘルメットの外側に小型カメラが一対備え付けてあり、それをヘルメット内のディスプレイで表示することで視界を確保している。光源の増幅やズームも可能なため、肉眼よりも使い勝手が良い。

 最後に使い慣れた特殊警棒と、いくつかの装備が入ったポーチが付けられたベルトを腰に装着し『贖罪』の準備は整う。

 礼人はキャンピングカーを出るとき、誰かと鉢合わせをしたときのことを考える。昔読んだアメコミのヒーローはヴィランが現れた際、格好よく出動していた覚えがある。今の礼人のように、怯えながらボロボロのキャンピングカーから出てくるヒーローは、ただの一人もいなかった。今の自分はさぞかし間抜けだろう。


(構うもんか。俺はヒーローじゃない)


 礼人は黒装束に顔のないヘルメットという出で立ちで、キャンピングカーからゆっくりと進み出るが、誰も礼人を待ち構えてはいなかった。夜の闇と雑草越しに見える、街の光を幾ばくか反射させきらめいている広瀬川しか目の前にはなかった。

 礼人はそのまま駆け出すと、河川敷から近くの民家の塀を足場に跳躍し、屋根へ上る。そのまま大きな音をたてず、屋根から屋根へ、屋根から雑居ビルの非常階段へ。非常階段を経由して別の建物の屋根へと飛び移っていく。真っ黒な容貌は夜の街に溶け込み、誰も自身の上を跳んでいく黒い怪人には気がつかない。

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