第18話 アレ

 忘れっぽいことにかけては自信があります。だからと言って、物事丸ごと忘れることはなかったはず。うん。多分、なかったはずだよね。なかったと信じたい。信じよう。信じねば。

 ……それが、ですね。あった訳ですよ。いや、もう、何というか、何のせいにしようか、ってくらいきれいさっぱり忘れてたってことが。ひゃー!


 電話がかかってきたんです。日曜日の夕方。知らない番号だけど市内から。だもんで、家族の誰か宛かなー、なんて軽い気持ちで出たら、私宛。それも長年お世話になってるコンタクトレンズのお店から。

 電話口の向こうで、女性の方が言いにくそうに切り出します。

「あの、8月中に受け取られる予定のコンタクトレンズ、こちら、まだお受け取りにいらしていないようなんですが、」

 そう言われても何のことか全く分かりません。心当たりもありません。えーっと、と適当な相づちを打ちながら考えている間にも話は進みます。

「受け取り期限を既に過ぎていまして、あと一週間ほどは何とかお預かりしていられるんですが、それ以上かかるようですとメーカー側に返却しなければならなくなります。どうでしょうか、一週間以内にこちらにいらっしゃることはできますでしょうか?」

 突然、頭と胸がどきんとしました。切れていた配線がいきなり繋がった感じ、と言えばいいのでしょうか。

 そうでした。コンタクトの交換を7月に頼んでいたのでした。


 話は1年前に遡ります。

 去年の夏、片方のコンタクトをむにゃむにゃしてしまった私は、慌てて新しいコンタクトを作りに行ったのです(※ 第6話参照)。

 ところがそれまで使っていたコンタクトはお取り寄せ扱いに変わっていて、即日受け取りできるのはもっとお高いものばかり。思いっきり予算オーバー。

 想定外の事態に、どうしよう、と店頭で私は途方に暮れてしまいました。その姿があんまり哀れだったのでしょう、見かねたお店の方がもにょもにょな裏技をこっそり教えてくれたのでした。

 詳細は省きますが、新しいコンタクトが今までのとほぼ同じ値段でその日のうちに手に入る、そういう裏技でした。当然、一も二もなく裏技を使わせてもらった私は、無事、新しいコンタクトを入れて帰れたのでした。

 で、裏技と言うからにはそれでおしまい、とはいきません。1年後にむにゃもにょな仕上げをする必要があって、そのために7月にお店に出向き、新しいコンタクトを注文したのでした。

 ただし。今回、見え方の調整をした所、左右の度数が同じとなり、同じ度数のものはふたつは用意していないということで、お取り寄せ扱いとなりました。

 今回は無くした訳ではないので、お取り寄せでももちろん困りません。2日後に届くコンタクトを一ヶ月以内に受け取りに行けばいいということで、それだけあれば何かの用事のついでに行けばいいや、とお店のひとの説明に気楽に頷いたのです。

 それがこの酷暑。暑い中、出かけたくないのと、出かけると時期が時期、うっかりバーゲンなんか見ちゃった日には余計な出費をしてしまいそうで、君子危うきに近寄らず、出かける時には「ねばならない」ことをまとめてぎゅうぎゅう押し込んでいたら、コンタクトの件はすっかりさっぱり忘れきっていて、嗚呼、イスカンダルよりも遠く、忘却の彼方へと旅立ってしまったまま、さらばー地球よー、と相成ったらしく、記憶喪失。全く覚えていないどころか、電話で名乗られても、話を切り出されても、完璧に「何のことですか?」状態だったのです。

 さすがにここまでの事態は記憶にありません。いや、もう、恥ずかしいの何の。電話口でぺこぺこ頭を下げました。それなのに、お店の方も、

「いえ、こちらももっと早くご連絡差し上げれば良かったんですが、」

 なんて言って謝られるので、もういたたまれない所の騒ぎじゃありません。


 そんな訳で、急いでお店へと走ったのでした。

 お店の受付でだらだらと汗を流しながら、「あのぅ、」ともじもじと名乗ると、応対してくれた男性の横から、何度もお世話になっている女性の方が、「ああ!」と素敵な笑顔を浮かべながら代わってくれました。

 電話をしてくれたのも彼女だったそうで、やっぱり、と思いながらお礼とお詫びを繰り返すと、彼女もまた「とんでもないです、こちらこそ、」と頭を下げられます。いや、あなたがそんなことする必要はないから! と思いつつ、とにもかくにも無事に受け取ることが出来て、ほっとしたのも束の間。

 混んだ店内の中、彼女は再び私の横に戻ってくると、小さな包みを私に手渡しました。

「気持ちだけですが、」

 プレゼント、でした。むにゃむにゃなタイミングだった為、頂戴することになったのです。それも8月だともらえなかったということで、

「遅れて来て頂いたおかげでお渡しすることができて良かったです」

 なんてにっこり微笑まれて言われてしまっては、なんかもうどうしよう!? ってくらいクラクラ。ヤバい、鯉に落ちてしまう、じゃなかった、鯉はもう落ちてた、恋だ恋、って何、書いてるんだか分かんないですね、失礼。でもそれくらい舞い上がってしまったのはたしかです。


 すっかり浮かれて帰った私は、たまたま家にいた長男に話をしながら頂いたプレゼントを見せた所、

「気持ちだけ、じゃないよ。これ、そんなに安いものじゃないから」

 と真顔で言われました。しかも手書きのメッセージカードまで添えてあって、これじゃあもったいなくて使えないよー、となってます。

 使い捨てのホット・アイマスク、です。

 コンタクトレンズ屋さんになんてぴったりなプレゼント。いつ使おう? と見る度ににやにやしています。

 ど忘れしたのに、それがなぜか幸せな出来事になっちゃって、いやー参ったなーありがとうございます! とそういう話になりました。



 だからといって、まるっと忘れるのはこの年ではいくらなんでも早すぎるでしょ、ってことで、ただいま絶賛反省中。しょっちゅう「アレよ、アレ、アレ」と言ってる私ですが、しばらくは「アレ」厳禁です。

 え? どこかの「アレ」が悔しいからだろ? って?

 違います。悔しくなんか……。悔しくなんか……。

 ……くそぅ。見てろよ! 「アレ」なんか下克上じゃい!!


……全然、「アレ」がとうございます、な話じゃなくなっちゃいましたね。あーあ。

















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