第11話 自転車




 冬の日の入りは早い。すっかり暗くなり、早く家に帰らねばと焦っていた私がそれでもその店に入ったのは、そうせざるを得なかったからだ。

 自転車の前輪の空気が抜けきっていたのだ。


 初めて寄ったその自転車屋は、古ぼけた構えの割にやけに開放的な店だった。外と中とを区切るものが何もないのだ。文字通り、全開。

 白っちゃけた蛍光灯が灯る店内は愛想の欠片もなく、ただの作業場のよう。売り物のはずの自転車も、大人用の地味で無骨なものが適当に並べられているだけ。当然ポップや広告などは見当たらない。細長い店の奥が一段高くなっているのは、奥が住まいになっているからのように見える。奥と店とを仕切る戸も店頭同様全開で、高齢の女性がふたり、こたつか何かにちんまり座っているのが外から丸見えだった。

「すみません」

 声を張り上げると、手前に座っている女性が「なあに?」という感じで視線を向けてきた。

「自転車がパンクしちゃったみたいで。修理お願いしたいんですが」

「パンク?」

「ええ」

 よっこらしょ、と彼女は立ち上がり、サンダルを履いて店に降りる。そのまままっすぐ自転車の横まで歩いてくるなり、タイヤを指で押した。

「どれくらいこれで走ったの?」

「○○まで行ってきたんですが、」

「え? ○○? あんな所まで行ってきたの?」

 呆れたような顔を向けられた。

「それでいつパンクしたの?」

 本当のことを言うと、行きの割と早い段階で空気が抜けてしまっていた。ただ、途中に自転車屋がなかったことと、用事を済ませたかったのとで、強行突破していた。それを言ったらきっと怒られるだろうなあ、と子供じみたことを思った私は、子供みたいな嘘をついた。

「えーっと、帰り、ですかね」

 一応、気をつけてここまで来たんですが、と言い訳みたいに付け加えてみる。

「まあ、見てみないことには分からないけど、」

 そう言いながら、

「もっとこっちに動かして」

 と店の中まで自転車を入れるよう指図する。言われるまま歩道から乗り入れた。

「はい、ちょっと下がってて」

 身軽く自転車の横に屈み、前輪のバルブのビスに触れただけで、

「ちゃんと閉まってないじゃないの」

 今度こそ本当に呆れられてしまった。

「いつ、空気入れたの?」

「今日、出る前に、です」

 これは本当。最近、空気が抜けるのが早いなあと気になっていたのだ。

「入れても、閉まってなかったら抜けるに決まってるじゃない」

 言いながらビスを外した途端、もっと呆れられた。

「これ、ねじ山がなくなってる」

 これじゃあ閉まる訳ないよ。そう言って外したビスを私にかざして見せた。ほんとだ。ビスというよりクギみたい。溝があったことは分かるものの、あらかた消えている。

「こっちも、ほら」

 同じように後輪のビスも見せてから床に置く。手を空にした彼女は立ち上がり、棚から新品のビスを取ってきた。

「これで抜けなければいいんだけど」

 交換して空気を入れると、へちょんへちょんだったタイヤがあっという間にぱんぱんに。彼女が指でぐいぐいタイヤを押していても空気が漏れる音もしないし、抜ける気配も感じられない。

「明日になってもこのままならまぁ大丈夫。もし抜けてるようならすぐおいで。後輪は溝がかなり減ってるから、その時はタイヤ交換した方がいいと思うよ」

 両輪空気を入れ終わり、立ち上がった彼女が私に告げた値段はあんまり安かった。

 本当にこれだけでいいのだろうかと思いながら、お礼の言葉と共に支払う。夜空の下、踏み込んだペダルは、店に入る前とは比べものにならないほど軽かった。


 翌日。タイヤはきれいに膨らんだままだった。乗って走ったけれど変わらない。ホッとした。交換しに行かなくて済むならそれに越したことはない。

 それから師走の街を何度も走り回り、自転車に乗るのは今年これが最後かなと思った年末の夕方。年賀状を投函がてら直売所へ買い物に行った。丸の白菜や大根などを買い込み、後ろのカゴに積んで走り出したと同時に、あれ、となった。

 空気が。空気が抜けている。

 慌てて止めて、タイヤを触る。前輪は無事だったが、後輪が見事にぺしゃんこ。乗って来て止めるまでは何ともなかったはずなのに。

 呆気にとられながらこの前の店を思い出していた。当然そちらに持って行きたいのだが、この直売所からだと家を挟んで逆方向で遠い。なおかつ近くに別の自転車屋があるのだった。年の瀬のこの時刻のこと、心の中で「ごめんなさい」と彼女に頭を下げつつ、自転車を押してとぼとぼと歩き出す。そうして店が見える所まで来て、思わず足が止まった。シャッターが下りている。

 シャッターの上には年賀の紙が貼ってあった。年内の営業は終了したらしい。

 ぺしゃんこになりそうな気持ちを奮い立たせ、頭の中の地図を探る。もう少し先にマウンテンバイク主体の若い人向けの店があった。そこへ向かって再び歩き出す。

 目指した二軒目のはずの店もシャッターが閉まっていた。一軒目と違って張り紙のひとつもない。店の看板もない。場所を間違えたかと辺りを見回したが、それらしい店も見当たらなかった。途方に暮れそうになるも、気を取り直す。もう少し。ここからもう少し先に、たしかもう一軒、自転車屋があったはず。

 そうして辿り着いた三軒目も、同じくシャッターが閉まっていた。こちらは一軒目と同じような新年の挨拶の紙が貼られていた。

 気付けばそこそこな距離を歩いていた。ぐるりと大きく街を一周している感じだ。直売所を出た時はまだ暗くなかったのに、今ではすっすり日も落ちている。

 これだけ皆、閉まっているのだ、あの店もきっと閉まっているのだろう。そう思いつつ空を見上げた。雲ひとつない夜空が広がっているのを見て何故か、どうせならと思った。ダメならその時はその時、全部押して帰るまでだ。

 そこから先は無心で自転車を押して歩いた。自転車屋に限らず、他の店もあらかたシャッターが降りている。すれ違うひともまばらだ。

 黙々と歩いていった夜道の先に、白っぽい灯りが見えた。あの店が開いていた。

 店先に自転車と共に佇んだ。店の奥にはふたりの高齢女性が座っている。時間が止まっているかのように同じ光景。彼女と目が合った。この前と同じような言葉を、同じように声を張り上げ口する。

「すみません。タイヤ、パンクしちゃったみたいで」

「パンク? 今日はもう交換できないけど」

 返ってきた言葉だけがこの前と違っていた。

「うちのひと、今日は出てるから」

 タイヤ交換じゃなければできるんだけど、そう言いながら側に来る。

「この前はありがとうございました。おかげで今日まで乗れてたんですけど」

 私の言葉を聞いても、ん? という顔。どうやら覚えていないらしい。

「月頭にバルブのビスを替えてもらって。それからずっと調子よく走れてたんですが、さっき買い物してる間に後輪だけ空気抜けちゃってて」

「だったら外してみるね。ただの穴なら塞げば乗れる。それならできるから」

 答えるなり、彼女はすぐにタイヤの中からチューブを外す作業に取りかかる。

「悪いんだけど、それ、持ってきてくれる?」

 手を動かしながら、店先に置かれた水の入った四角い容器を目で指した。

「重いから気をつけて」

「はい」と答えて、水を零さないようゆっくりと自転車の横まで運ぶ。外したチューブを彼女が手ごと水の中につけると、小さな泡が沸き上がった。

「ひとつならいいんだけど、」

 泡が出てきた場所を特定し、爪楊枝のようなもので確かめ、マジックで印を打つ。その後、水の中でゆっくりとチューブを回し始めた。他にも穴がないか、長いチューブを少しずつ回しながら確かめていく。結局、穴はひとつだけだった。

 チューブを水から引き上げ、穴を塞ぐ。塞いだ穴の部分を丁寧に伸ばしながら、彼女はようやく集中を解いた様子で話をし始めた。

「今日はうちのひと、出先回ってて。明日の昼にでも掃除して、それで今年は終わりにする予定」

「あー、じゃあ、運が良かったです。直してもらえて」

 それからはふたりでぽつぽつと話をした。彼女の田舎の昔と今、店を開いた頃のこと、車の運転などなど。もちろん手は止めない。私の質問にも答えてくれる。

 話しながら、穴を塞いだチューブをタイヤの中に戻し、固定する。きれいに収まったタイヤにビスを取り付けようとして、「あれ?」と彼女が声を上げた。

「外したビス、私、どこに置いたっけ?」

 ふたりで辺りを見回すも、見当たらない。すぐに「まあ、いいか」と言って探すのを諦めた彼女は、この前と同じ棚から新しいビスを取ってくると、私の目の前でさっさと取り付けた。そうしてタイヤはあっという間に膨らんだ姿を取り戻し、彼女は立ち上がって言った。

「穴だったら、ほら、こんな感じで塞げばまだまだ乗れるから」

 ここまで来ようと決めた時、実は財布の中身を確かめていた。タイヤ交換ができるだけの額が入っているか心許なかったのだ。足りそうだったから来たのだが、どうやらその心配はしばらくは要らなさそうだ。そう思ったら妙におかしくなった。

 彼女がパンク修理代として口にしたのは、この前のビス代にほんのわずか足しただけの額だった。一ヶ月も経たずに再び交換された前輪のビスを思うと、更におかしくなった。

 言われた額だけ渡して帰るに忍びなく、荷台に積んでいた野菜の中からニンジンを取り出した。ひと目見た彼女が顔をしかめる。

「あ、要らない要らない。私、作るの苦手で」

「そうですか? でも、これ、レンジでチンするだけで美味しく食べられるんですけど」

「え? そうなの? だったら、うん、二本だけ、頂こうかな」

 おっかなびっくりといった体で、ニンジンをのぞき込む。袋の中から二本だけ取り出して、手渡した。丸のまま食べようと買った、小さい小さいニンジン。

「このままさっと洗って、チンするのでいいですから。試してみて下さい」

 彼女は真面目な顔で、分かったと頷いた。その後、「良い年を」と言い交わしてから、店を出た。

 来年はうさぎ年だったなと思いながら空を見上げる。晴れていたが、月は見当たらなかった。


 *


 一月も半ばとなりましたが、相変わらずばたばたしています。

 カードの処理は思ったより複雑な事態が発生していまだ完了せず、加えてついこの前、電子レンジが壊れたり、外付けハードディスクも壊れていたりと、スリルとサスペンスの日々。いいかげんぐうたらしたい所ですが、一体いつになったらできるのか謎です。

 そんな中、とりあえず新しいパソコンで書いてみました。今まで使っていたのと色々と違って戸惑うことが多いのですが、画面が大きいのを選んだ分、見やすいのは嬉しいです。時間を作って早く書き慣れたいなあと思っています。

 こんな感じでの新年スタート。

 今年もまたのんびりとお付き合い頂けたら嬉しいです。

 どうぞよろしくお願いします。

















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