第3話 洗っちまった悲しみに


 朝からやけに落ち着かない日だった。出かける支度をしている人間が同時間帯に3人いるだけでも慌ただしいのに、何をしているんだか知らないが私以外の2人は早くからバタバタしている割にちっとも出ていかない。私が最後に出るのが戸締まりも安心でお互い楽でいいのにと思いながら、ひとりを残して家を出た。

 暑い日だった。まだ4月だというのに、初夏の陽気。6月並みの気温らしい。自転車を漕いで受ける風が心地よい。風に飛ばされないよう帽子を深く被った。

 ターミナル駅に着き、駐輪場へと向かう。駐輪場はいくつかあって、回る順は決まっている。

 1つ目、ここに駐められるとは期待していない。念の為、見るだけ。駅に近く便利かつ台数が少なすぎるせいで常に満車。2つ目も1つ目と事情はさして変わらない。

 3つ目、ここが私の定番。新しくてきれいだが、1と2より駅から少し離れている分、空いている。入り口に緑色の「空」のサインが点灯していたのでホッとしながら入ると、あれれ、ラックが全て埋まっているではないか。二度見したけれどどこも空いていない。どうして緑が点灯してるんだろうと訝しがりながら、渋々4つ目へ。台数はここが一番多い。が、しかし。無情にも入り口には「一時貸し満車」の立て札が。

 さあ、困った。ここがダメだと残る選択肢はふたつしか知らない。ひとつは駅の反対口。そちらは現在地からも今日の用事からも遠いだけなので即、却下。結果、近くの民間施設の駐輪場に向かうこととなった。料金が倍、駐められる時間は半分、というシビアな条件だがやむを得ない。なにせこの辺り、違法駐輪は見つかると即、撤去されることも珍しくない場所なのである。


 今日はなんだか今ひとつだなと思わないでもなかったが、すぐに頭を振ってそんな考えを追い出した。こんなに天気のいい日だ、さっさと用事を済ませてその後お気に入りの場所でお茶でも飲みながら本を読み、何ならジェラートでも食べて帰れば悪くはないだろう。

 今日みたいな陽気だとジェラートはいつも以上に美味しいだろうな、そう考えるだけで足取りが軽くなる、はずだった。ところが。

 歩き出してものの5分もしないうちに、軽くなるどころか右足に違和感を覚えた。普段は感じないような、あれ? という変な感触があったのだ。

 さて、この靴。例の靴なんである。アレですよ、アレ。このエッセイの1回目、カビたサンダル、なんである。なにせ陽気が良かったものだから、ああ、じゃあ早速サンダル日和、これは履かねば、そう思って履いて出てきた次第。

 で、立ち止まって右足を眺める。見た感じ、特に変わったところはない。変だな、と思いつつ足を上げてみる、と。足裏が浮くような心許ない感触が。ん? と思って更に足を持ち上げたところ。

 見てびっくり。靴裏がべろんと半分以上、剥がれているではないか。慌てて足を降ろし、くっつけ! と念じながら全体重を右足に乗せた。こんな時に備えていたつもりは全くないのだが、この間、しっかりばっちりとウェイトを着実に増やしていたのだ。それを今ここで有効活用しなくてどうする。って言うか、こんなことくらいしかウェイト増がプラスに働くことなぞ思いつかない。

 この重みを受けてみろ!! とむぎゅむぎゅと足裏に重みをかける。一分間ほど続けてから、足を持ち上げた。

 パカッ。

 くっつくどころか私を嘲笑うかのように靴裏と本体との空間は一層広がり、付いているのはもはやつま先だけ。まあそれも当然だろう。体重をかけたからといって、塗ってもいない接着剤が機能する訳がない。機能していたらそもそもこんな目には遭っていないのだ。立ったまま、思案した。

 こんなところで発覚したのは、移動手段が自転車だったからだ。ペダルを漕ぐのに靴裏を浮かす必要はない。これが電車だったら、最寄り駅まで歩いている間に剥がれていただろう。当然、家に戻って履き替えていたはずだ。ということは、このまま自転車に乗って家にUターンするのはこの状態でも多分、問題ない、そして出直すもしくは今日はもうこれで諦める、そういう消極的案①がまず浮かんだ。

 だが、これほど悔しい案もなかろう。だって自転車一往復が完全に無駄足になる。ダイエット中とは言え、諸々合わせて小一時間をポイ捨てするのはあまりに腹立だしかった。

 だとするなら、②靴修理店に持ち込む。真っ当な案だが、これも採択したくはなかった。この近くの店を一度、使ったことがあるのだが、あまりいい仕上がりではなかったからだ。私が気に入って使っているのは、ここから更に自転車で20分ほど離れたところにある店。そこまで行くことも考えた。だが、すぐに直してもらえればいいが、ダメな時はどうする。ということでこの案も却下。

 ③とりあえずこの場をしのぐ案。百均に行き接着剤を買って応急処置を施し、せめて用事だけでも済ませる。うまくいけばジェラートくらいは食べられるかもしれない。近い場所に百均があることから、結局この案に決めた。

 というわけで、右足を引きずるようにして百均に向かう。ああ、空はこんなにも青いのに。などと恨めしく見上げる余裕はなかった。転ばないよう下を向き、ひたすら慎重に歩を進める。人混みの中、無事に百均に到着した。

 百均では瞬間接着剤と細いゴムを買った。接着剤をつけた後、ゴムでくくって固定すれば安全かと思ったのだ。〆て220円也。近くのベンチに移動し、靴を脱いで作業に取り掛かる。

 ところが。どれだけ接着剤を塗ってもなぜか付かない。しかも。右足だけだったはずが、気がつけば左足も全く同じ様相を呈しているではないか。焦る。とにかく焦る。にっちもさっちもいかないとはこういう事態であろう。

 この場合どうすればいいって、手っ取り早いのは靴を買うことだろうが、それはあまりに負けた感が強い。そもそもセールで買いコインランドリーで洗った靴の代用品として、バーゲンでもない今、定価でとりあえずの靴を買うことなど、お天道様が許しても私の主婦魂と財布の中身が許さない。

 とは言え、このままではどうにもならないのも確かだ。接着剤が機能しないのであれば、後は靴を買うもしくは靴裏を外して本体だけで歩くくらいしか思いつかない。さすがに靴裏無しで繁華街を歩き回るのは躊躇われた。ので、やはりここは涙をのんで靴を買うより他ないのか、と思いつつ、それでも諦めきれない。

 そこに天啓が。

 百均。世の民草を救う慈悲深い聖域サンクチュアリ。そこには、靴、のようなものもあったはず、と思い出したのだ。ということで、Uターン。今度は両足をずるずるすり足で戻る。戻って店内を物色すると、ああ、救いの手ならぬ救いの足、がたしかにそこに。

 いわゆる、なんちゃってクロックス、これがお値段220円で販売されていたのであった。あまりのありがたさに目を潤ませる。こんなことなら接着剤なぞ買わずに始めからこっちを買っておけば良かったのだ、と心の中で悪態をついた……りはしなかったはずである。




 洗っちまった悲しみに

 今日は靴裏剥がれゆく

 洗っちまった悲しみに

 今日もお金が飛んでいく


 洗っちまった悲しみは

 たとえば裸足で街の中

 洗っちまった悲しみは

 両足剥がれてちぢこまる


 洗っちまった悲しみは

 なにのぞむなくねがふなく

 洗っちまった悲しみは

 応急処置で済むよう夢む


 洗っちまった悲しみに

 忌々しくも呆れつつ

 洗っちまった悲しみに

 全体重をかけ立ち尽くす……





 ✻




 ということで、なんで剥離したかと言えば、これはもう経年劣化+水洗い(=コインランドリー)、が理由ですかね。コインランドリーだけで済んでれば安かったはずなんですけど。

 後日、いつもの靴修理店に持ち込んだところ、素材が特殊なため接着に時間がかかると言われ、やはり即日持ち帰りはできず。その上、ヒール裏のラバーも消耗していて交換が必要とのこと。結局、接着代+ラバー交換代を支払うことと相成りました。


 トータル/コインランドリー代+百均代+修理代

 トータル/エッセイ2話


 気付けば、むにゃむにゃもにょもにょ、なお値段に。これじゃあ今シーズン履ければその後は処分してもまあいいか、とは言えなくなっちゃったじゃないの。せめて2シーズンは履かないと納得できない。

 ……って、こんな後日談、要らないのに、どうしてこうなるかなあ。あーあ。

 

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