第4話 魚


 海が嫌いだ。

 嫌いになるような出来事があった覚えはこれといってない。それでも物事ついた時にはもう嫌いだった。あのベタベタした潮風だとか、靴から髪の中に至るまで勝手に潜り込んでくる砂だとか、独特の匂いだとか、そういうもの全てが性に合わなかった。特に夏の海。ひとが多くて、食べ物の匂いまで浜の匂いと絡み合って訳が分からない化合物となってしまっていて、無理して行くと後で酷い日焼けに泣く思いをして、海沿いの道は朝早くから夜遅くまでずっと渋滞していて、景色が頭の中に浮かんだだけでうんざりした。

 そういう私が、なぜだか水族館は好きだ。展示される側にしてみればたまったものではないだろうとは思う。思うのだが、それでもあの薄暗くて、静かで、人気が少ない建物の中で見る水中の生き物たちは、不思議と私の心を捉えて離さない。最近はナイトミュージアムなどという企画まであるらしく、そのうち行けたらいいなあと思うくらいに好きだ。


 話は変わる。

 若い時は、よくふらふらと夜中に外を出歩いた。理由なんてない時もあったし、ある時もあった。理由がある場合の筆頭が、電話。当時は携帯電話なんてものは一般的ではなく、固定電話を使うのがふつうだった。リビングに鎮座した電話機を使っての夜中の通話なんてものは、どれだけ声を押し殺したところで寝ている家族を起こしてしまう。料金だって今と比べたらバカ高かった。

 そんなわけで、深夜にどうしても電話したい時は自然と外へと足が向かったのだった。とは言え私が電話したい相手は残念ながら一人暮らしのひとはほとんどいなかった。ということは、相手は私からの電話を私が逃げ出してきたような環境下で受けることになる。それとは逆に、相手が不在ということだってあり得た。その場合、私は相手の家族からの冷たい声にさらされた挙げ句、話したい相手と話すこともできないのだ。結果、電話ボックスの中へ入れたのは決して多くはなかったと思う。電話ボックスをぼうっと眺めていたことの方が多かったはずだ。

 当時、私がよく足を向けた電話ボックスは家にほど近い公園の中にあって、電話ボックスが見える位置にベンチもあった。夜中、電話ボックスが使われていることはほとんどなく、無人の電話ボックスは公園の中にぽつねんと立っている。木々の緑と夜の闇に包まれる中、電話ボックスの明かりは私の目に眩しかった。それは暗い街を航海するひとを導く灯台のようにも見えたし、海の生き物を飼う水族館のケースのようにも見えた。

 ベンチに腰掛けて電話ボックスを見ていると、色々なことが頭に浮かんだ。かける電話の向こう側にいるはずのひとの顔。声。仕草。周りの景色。

 反対に、あの中に入った私はどう見えるのだろう。迷子? それとも水族館のケースの中で泳ぐ魚のようだろうか。いやいや、溺れかけている遭難者、かもしれない。

 実際、夜中に電話をしたいだなんて、何かに溺れてでもいるのと大差なかっただろう。口にせずともそういう気持ちを共有していた女友達は、夜中に電話なんかしなくても夜中になる前に迎えに来てくれ、毎晩のように彼女と海沿いの道をドライブしていた時期もあった。

 公園に足を踏み入れた私はポケットの中の財布を握りしめる。中には、崩しておいたたくさんの小銭。それでも、どれだけ用意していても、かければすぐに消えてなくなってしまう。電話が繋がった瞬間、時間との戦いになるのだ。

 そのくせ電話が繋がって、相手の声が受話器の向こう側から流れてくると、途端に私の中から言葉が消え失せた。すぐに消えてしまうのは小銭だけではなかったのだ。それが分かっているから、なおさら電話ボックスの中に入れなかった。

 真夜中の公園で、電話ボックスが誘蛾灯のように私を誘う。誘われるまま入れればいいのに、と思う。捕まって出られなくなってもいいではないか。その中が幸せであるならば。幸せならば、ずっと入っていたいとすら思うだろう。

 残念ながら、幸せ、と思えることはほとんどなかった。だからといって、幸せになりたいとも思っていなかった。そもそも幸せとはどういうことか、分かっていなかった。

 電話にコインを入れる。電話が繋がり、私の耳元に聞きたかった声が届く。その時の私は、繁華街のネオンにも負けないくらいの色鮮やかな熱帯魚だろうか。それとも夜の底深くを這うように動く深海魚だろうか。ベンチに座って眺める深夜の電話ボックスは、当時の私にとってファンタジーそのものだった。


 夜、走るコースに電話ボックスがある。電話ボックスは今では少なくなっているらしい。走りながら、時に私の心は電話ボックスへと向かう。そうして電話ボックスが繋ぐ、夜の海を泳ぐ。嫌いなはずの海を。

 どうして泳ぐのか。トライアスロンに挑戦したいわけではない。届けたくて未だ届けられていない言葉、深海まで潜ってでも引きずり上げて通話口の向こう側に届けたい言葉を渡すため、だ。かつての私が財布を握る。繋がった瞬間、伝えたい伝えようと思う言葉を心の中で握りしめる。どれだけ事前に握りしめても、でも、それらの言葉をきちんと口にできた試しがなかった。大切な言葉ほど言えなかった。

 今でも大切な言葉を舌の上に乗せようとする時に限って、私の口は動かなくなる。どうでもいいおしゃべりならいくらでもできるのに。携帯電話でアプリを使えばいくらでも無料で直接相手と通話できる時代になったというのに、私のそういうところだけは変わらない。

 ただ、今の私はきっと幸せだし、もっと幸せになりたいとも思っている。そうして、言葉を口にできないのであれば、どれだけ拙くてもいいから文字として書こうと思っている。その点はかつての私とは違う。そう思っている。





 現代美術だか何だかで、たくさんの金魚を入れた水槽のように見える電話ボックス、を初めて見た時、同じようなことを考えるひとっているのだなあと思いました。その後、模倣されたとした事案があり、そちらの件はまるで知らなかったのですが、著作権侵害だとして裁判にまでなっていて、弁護士の方がまとめた解説を読んで、ああ、なるほどと思ったのでした。そうしてこれは蛇足ですが、せっかくなら金魚ではなく鯉がよかったな、とも。

 鯉が情けないだとか、放流された鮭が欲しいだとか、そんなことを思ったわけでは決してないのです。鯛はありません。あ、間違えた。他意はありません。そう言えば久しく食べていない鱒の唐揚げを食べに行きたいな、と思ったくらいです。ええ、本当です。ちゃんと書きました。何せその店は遠くて、どんなに空いていてもうちから車で一時間以上かかることを覚悟しないといけない場所にあるんです。でも、本当に美味しいんですけどね。

 

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