第28話 凛



 七階に着くと夕日が差し込む病院の廊下は茜色に染まっていた。


「はぁ……」


 その情景は長閑の心に影を落とす。それもあってか長閑は凛の病室に向かう間は無口だった。


〝朝比奈凛〟と書かれた病室の前で龍馬は立ち止まった。


「たたたタエ姉。ここここが凛の……」


 先程とは違うテンションの長閑を見て、何かを察した龍馬が顔色を変えてたどたどしく言った。


 長閑は龍馬の方を見て頷き、病室のドアを開いた。


 ドアはスライドし、中の様子を静かに見せてくれる。レースのカーテンだけしかかかっていない大きな窓が二つ正面で長閑を迎えた。

 シューシューと何かの装置の空気音が鳴っているそんな病室は、心無しか薄暗く寂しそうに感じた。


「暗い……よな? 龍馬」


 と長閑が言った時だった。


『タエちゃん?』


 病室のベットに横たわる小さな影、凛が自身の姉の名前を呼んだ。


「お邪魔しまぁす……」


 少しよそよそしさを滲ませながらの長閑の囁き声の挨拶だった。


『あれ? お兄ちゃん来てるんだぁ? 珍しいね。ふふ』


(お兄ちゃん? ああ龍馬のことかぁ)


 一瞬、頭にハテナが浮かんだ長閑はそのまま振り返ったが、スライドドアが閉じた部屋の入口付近に龍馬の姿は無かった。龍馬は病室には入っていなかったのだ。


「ぐぬぅ! 龍馬の野郎ぉぉ」


『クスクス。お兄ちゃんが来ることの方が珍しいから別にいいよタエちゃん?』


「え? あれ? そ、そっか。そうだね……」


(ん? 寝たままであの角度からこっち見えるのか?)


 凛であろう少女のそんな言葉に少し違和感を感じながら長閑は返答した。


『そ、それより……』


 凛であろう少女はそう言って暫く沈黙する。


 数秒、数分後、聞こえて来た声に長閑は驚いた。


『タエちゃん怪我したって……マリちゃんが言ってたから……グスっ……凛、凄く心配したんだよ……グスっ……』


 凛の啜り泣く声が聴こえてくる。


「あ、う、うん。でももう大丈夫だよ」


 咄嗟にそう答えたが、ここに来てから感じた何かしらの違和感はまだ残っていた。


「少しの間だけ入院してただけだから安心して……あ、ありがとう心配してくれて……」


 愛情深い凛の言葉に感極まりながら返事を返す間も、最初に感じた違和感は消えない。


 ほんの少しの会話のやり取りを経ただけだったが、凛の優しく可愛らしい声を聞いた長閑は、朝比奈家の住人の中でこの子が一番タエを想い、そして家族なんじゃないかと思えてならなかった。


「あ! 凛、今朝来れなくてごめん……わ私、怪我の後遺症で色んなことを忘れ……てて」


 言いながら、長閑は凛のベットへと近づき、あることに気がついた。


(この子って……)


『どうしたの? タエちゃん。もう今は記憶、戻った?』


 幼い凛はベットに横たわり天井を見上げたまま微動だにしないのだ。天井を見上げる瞳に輝きは無く、灰色に近い色だった。


「凛ちゃ……」


 長閑は項垂れ、その場にしゃがみ込んだ。


(こんなに小さいのになんて不憫な……)


『どどうしたの? ん? あれ? あなたタエちゃん……じゃないよ……ね?』


 凛の突然過ぎるそんな言葉に、長閑は息を飲んだ。

 凛の身体の状態は、確かに最初に見たまま動いてはいない。

 がしかし、まるで長閑のことが見えているかのように動きに合わせて言葉を投げかけてくる。


『やっぱり……あなたタエちゃんじゃないでしょ? 誰なの?』


 凛は少し楽しむように悪戯っぽいトーンで言った。


(え、ちょっとまって! わかるのか?)


「いや、えっと……そのぉ……」


 長閑はお決まりのような慌て方をしていた。何か気の利いた弁明をと長閑は立ち上がり、改めてしっかり凛を直視した。


『記憶、まだ戻ってないんだね? 無理しないでねタエちゃん』


 タエを思いやる言葉を発する凛に感動していた長閑だったが、じっくりと見ていた時に最初の違和感の答えに気がついた。


 凛は話す時に唇を一切動かしてはいない。ならばどうやって話しているのか。その上、瞬きすらしていない。


 最初に部屋に入った時に聴こえていた空気音は、凛の口へと入っている酸素を送るチューブの音だった。


「これって……延命装置じゃ……」


 長閑の家族が過去に延命措置をつけていたことで、見ただけでそうだとわかった。


(え……じゃ、じゃぁ凛ちゃんは、どうやって話していたんだ?)


『タエちゃんどうしたの? あ、そっか凛が病院に居ることに驚いているんだね? 思い出さなくてもいいことだからそのまま忘れてていいよ。凛はタエちゃんとお話が出来るだけで満足だから……』


 長閑はここでハッとした。タエを気遣う凛の言葉が、まるでイヤホンを装着している時のように鼓膜を震わせて聴こえてくるのだ。


「凛……こ、これって……どうなってんの……? えっとその……この凛の声って……」


 長閑は驚きを隠せないまま、人差し指をクルクル回しながら宙に漂う何かわからない物を指差し言葉を発した。


『あ、えっと……そっかそのことも記憶が無いんだね。凛の声、何故かタエちゃんだけ聴こえるみたいなんだ』


「え!? ええええ!」


 驚き、仰天する長閑に更なる凛からの無音のメッセージが届く。


『あはは。だからいつもこうしてタエちゃんと一緒にお話しするんだよ。久慈さんが居る時はタエちゃんから凛の言葉を久慈さんに伝えてもらうの』


「え、あ、えっと……じゃあ他の兄弟ともそうやって話するんだね?」


 人知を超えた能力、まさにファンタジー。長年、厨二病を患う長閑を心臓麻痺させる勢いの出来事だ。

 長閑は興奮気味に質問していた。


『ううん。何度かマリちゃんに久慈さんから説明してもらったんだけど……信じて貰えなかったんだよ……』


(いや、そりゃそうだ。俺だって実際にこうやって会話していることが信じられないんだから……ん? 久慈さんはこんな非現実的なことを信じたってことか?)


『なんかね、久慈さんが言うには、テレパシーとか何とかの一種だろうって。不思議だけど凛は最初、凄く嬉しかった』


「そっかぁ、テレパシーってことは、おれ……わ私の考えてることもわかっちゃうのかな? もしかして」


『ううん、タエちゃんが凛の近くで話してくれないと凛には聴こえないの』


(うーん、ほんとに限定的な能力なのか……不思議過ぎるぞ……って! いやいやいや、もっと不思議な出来事! 今まさに俺タエちゃんだし!)


 一人でツッコミを入れていた時だった。


 静かに看護士が病室へと入ってきた。


「こんにちはタエちゃん。悪いけど凛ちゃんこれからご飯食べて検査しないとだから、面会はここまでね」


 看護士は何かを載せたカートを押しながら優しく話し掛けてきた。


「じゃ、じゃあまたね。凛」


『うん。絶対また来てね!』


 長閑が病室を出ると龍馬が長椅子に座り、携帯電話の画面で指を滑らせていた。


「おい龍馬。なんで凛に会ってやらない」


 長閑は目を細め、龍馬にズイズイと近づいた。


「え? だだだだって、タエ姉が居る時は誰も入れるなって……久慈さんが……そそそそれにタエ姉もそう言ってたし……」


「いや、今日以外、別の日にだって来れるはずだろう!」


「え……だだだって……いいい忙しくて……そそそれに、来たって凛と話せな……いし……げげゲーム仲間と毎日レベル上げげ、しないと……」


 長閑は少しずつ声のボリュームが上がっていく。反対に龍馬は下がっていった。


「そりゃ話せないけど、来てあげるだけでいいだろう。って! お前はゲーム仲間と妹とどっちが……」


『タエちゃんタエちゃん。別にいいよ。お兄ちゃん来ても何もお話ししてくれないし、凛の声も届かないし……それにそんなに大声出してたら三木みきさんに怒られちゃうよ? ふふふ』


 凛からのメッセージが終了したと同時に病室のドアが勢いよく開いた。


「タぁエぇちゃぁぁん!」


 あの看護士さんが仁王立ちして睨みをきかせている。


『そうそうその人が三木さんね』


「ご、ごめんなさいぃ……」


 凛の声を頭で聴きながら、恐る恐る三木を確認し、長閑は小さくなり謝った。そして隣の龍馬の頭を押し下げて一緒に頭を下げた。



 帰りのバスの中、龍馬は何やら言いたげにソワソワしているのを感じてはいたが、長閑はあえて何も反応しないで凛のことを考えていた。


(凛ちゃんは、いつからあの状態なんだろうか……そういえば、前にマリ姉さんが『あなたを追いかけた凛がどうなったか……』とかって言ってたな。そのことと関係があるのかもしれないな……)


 バス停から自宅への道のり、龍馬は相変わらず何か言いたげにソワソワしていたが、長閑は口をつぐんでいた。

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ネカマが転じて女子となす 幸 ニ太郎(さいわい にたろう) @Mr-Tc

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