第35話 聖痕2

 38階。

 俺の足は完全に止まっていた。

 俺という存在が、他人とは少し違うのではないかという事は何となく察していた。

 だが、それは明晰夢という夢の中の出来事もあり、どこか真剣に考えていなかった部分でもある。もしくは、現実と夢との境界線をフラフラと歩いていた事で、人を超越した力を持っているという実感が薄かったのだろうか。

 今となっては、その事実に目を背けていた事実が仇となっている。

 全てを、もっと真剣に考えるべきだったのだろう。

 自分がどうしてこういう状況になっているのか、そしてどうしたら良いのか。それを考えて、どうすべきかを決断する必要があったのでは無いだろうか。

 だが、本当に考えて答えが出る問題だったのかは分からない。

 何故なら、イブリースに教えてもらえなければ、その事に気付きもしなかったからだ。

 だから、必要なのは反省ではなく、これからどうするかの対策だろう。

「本当に、俺は消滅するしかないのか?」

 対策があるのなら聞きたいとばかりにイブリースに声を掛けるが、彼女は軽く首を横に振って否定した。

「使徒になりながらも、命を永らえている人は少なからずいるよ? けど、人によって事例ケースが全然違うの。だから、こうすれば良いとかはないかな。むしろ、下手な先入観を持たせてしまう事で、明日斗くんの判断を鈍らせるかもしれないの。だから、迂闊な事は言えないんだ。ゴメン」

「いや……」

 イブリースの言葉は、少なくとも俺にとっては朗報であった。

 必ず死に至る病と、もしかしたら助かるかもしれない病とでは、意味が全然違ってくる。

 例え、一縷であろうとも望みがあるのと無いのとでは、気の持ちようも変わってくる。

「十分だ」

 心音がゆっくりと落ち着いていく。

 近い内に死ぬと宣告されて急に落ち着ける者は少ないだろう。

 だが、俺はどちらかといえば落ち着ける方の人間であった。

 当然、死ぬのを受け入れたわけではない。

 一人で死ぬぐらいなら、より多くの者を道連れに死んでやろうと思うような人間だ。到底、覚悟など決まるはずもない。

 俺が落ち着いたのは、そんな醜悪な本質を持つ人間が真っ当に死ねるはずもない、と心の何処かで納得してしまったからである。

「何か、ちょっと余裕そうだね?」

「そうか?」

「もっと慌てふためくと思っていたから」

「慌てふためいても未来は変わらないし、俺には似合いの最後だと思ったからな」

「似合いの最後?」

「悪党に全うな未来なんて無いって話さ」

「悪党だなんて……。明日斗くんはそこまで悪い人じゃないよ。さっきだって、おじさんを助けたじゃない」

「気紛れだよ。常に助けているわけじゃない」

 それでも納得がいかないのか、イブリースは尚も言い募る。

「神の真理の影響下にありながら、それでも自分の意思を持って人助けが出来るっていうことは、それだけ本来の明日斗くんが良い人だってことだよ。自信持っていいよ。明日斗くんが悪者じゃないってことは私が保証する。ちょっと意地悪だけどね」

「悪魔に保証されてもな……」

「そういうとこだよ、明日斗くん!?」

 俺は慌ててイブリースから見えないように顔を背ける。

 何だコレ。悲しくも無いのに涙が出そうだ。

 人にこんな風に言われた事がないから動揺しているのか。それとも、神の真理に侵されていない俺の奥底の部分に何かが響いたのか?

 ……分からない。

(落ち着け)

 今の俺に必要なのは、何が何でも相手を殺すだけの決意であり、それを行う力だ。自分の気持ちを出すのは後で良い。

 愉しめ、殺しを。

 そして、成し遂げるんだ。

「明日斗くん?」

 俺が急に黙り込んだので不審に思ったのだろう。イブリースが気遣う素振りをみせるが、俺は気恥ずかしさもあり、そのまま歩き出す。

「少しだけアガったわ。ありがとな」

「フフフ、お悩み相談はお姉さんに任せなさいって言ったでしょ。だてに情報の宝庫やっているわけじゃないんだからね」

 え? あの珈琲屋でのお姉さんネタってここに繋がるの?

 俺はどこか納得出来ないものを感じながらも屋上へと急ぐのであった。

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