第34話 聖痕1
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「どうしたんだ、いきなり?」
態度が豹変したイブリースに声を掛けると、彼女は少しだけ険しい顔をして俺を睨む。
そして、ようやく思い出したかのように俺の手を離してくれた。
何だって言うんだ、全く。
場合が場合なら、人気のない場所に連れ込んで、殺人行為に及んでしまうところだったぞ。
「ここまで来れば、誰にも聞かれないかな」
「何かあったのか?」
小声で話す辺り内緒話だろうか。
俺も声のトーンを落とす。
すると、イブリースは険しい顔のまま、俺の手の甲の傷……もう消えたが……を睨みつけていた。
「明日斗くんのその手の甲の傷だけど、普通の傷じゃないの。それを伝えようと思って」
傷は傷だろう? 正直、何を言っているんだという気持ちになるが、イブリースの表情はすこぶる真面目だ。俺はその表情に思わず言葉を飲み込む。茶化して良い雰囲気ではない。
「その傷はね、『聖痕』って言うの。神の真理の欠片を与えられた者に付く証のようなものなんだ」
「聖痕? それってあれか? キリストが磔にされた時の掌の傷と足の甲の傷が現れたり、現れなかったり、どうたらこうたらとかいう。……あれ、何だっけ?」
「曖昧過ぎて、キリスト教徒に怒られるよ!」
俺、仏教徒だし。浄土真宗だし。知らんものは知らん。
「まぁ、その聖痕とは全く違うものの話なんだけどね」
違うのか。ややこしいな。
「私が言う聖痕っていうのは、同じ読み、同じ字でも意味が違うの。全ての真理を極めた神が、その真理の一部を人間に分け与えた証とでも言えば良いかな。多分、明日斗くんの御先祖様が何らかの形で神の真理を会得していると思うんだよね」
「俺の祖先が?」
そんな話は聞いたこともない。
いや、そもそもからして、俺の祖父母や両親は既に他界している。
今は叔父に養育して貰っている立場で、叔父も放任主義だし、そんな話を知る機会が無いのは当然かもしれない。
「そういった聖痕を持つ者は神の真理を操り、人を超越した力を持っているの。そんな存在は最早人間とは呼べないから、私たちは『使徒』という呼称で呼んでいるんだよ」
「人を超越した力か。まるで、スーパーヒーローだな」
「そんな良いものじゃないよ」
きっぱりと断言するのを聞いて、俺は思わず歩みを緩めてしまう。
「人を超えた力を持つんだぞ? 出来ない事も出来るようになると考えたら悪くないんじゃないか?」
「あのね、明日斗くん。落ち着いて聞いてね? ――使徒は総じて短命なの」
「…………」
ずきり、と頭の中が痛むような気がした。
心臓の鼓動がゆっくりと増していく。
「元々、人間という小さな器では、神の真理は受け止めきれないんだよ。人間は年月と共に肉体や魂が成長して、その器も大きくなっていくけど、せいぜい二十代半ばがピークで成長は止まるの。だけど、神の真理はそんなものお構いなしに増大、膨張を繰り返す。その結果として、人間という器に収まりきらなくなった神の真理は、その器に元々入っていた情報さえも上書いていってしまうんだよ」
「元々の情報を上書く?」
嫌な渇きが、俺の喉をひりつかせる。
まともに声が出ているだろうかと、そんなどうでも良い事が気になってしまう。
そんな俺の様子に気付いているのかいないのか。イブリースは神妙な顔で続ける。
「明日斗くんという人格が神の真理によって塗り潰されるの。簡単に言ってしまうと、自我の消失だよ」
とんでもなく重い事を簡単に言ってくれるな……。
自我の消失ということは、俺という人間がこの世から居なくなるということか。
殺し、殺されの末に死ぬのなら本望だが、そんな訳の分からない死に方をするのは、到底受け入れられない。
「記憶の混濁や記憶の欠如は、自我消失の初期症状だよ。明日斗くんという人格が神の真理に押し潰され、器の中から追い出されようとしている状態なの」
「つまり、俺はそう遠くない内に死ぬと?」
「死ぬまではいかないかもしれない。発狂して狂人になるか、自我を失って廃人になるか、自身を哀れんで命を断つか。その程度ならまだマシかな。最悪のケースは使徒であることを気付かれて、どこかの組織の実験動物として飼い殺しにされたり、悪魔が神の真理を求めて、明日斗くんを喰らうって事も考えられる」
「…………」
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