第32話 壁外の戦闘2
口の中が切れた感覚があるが、ヨロケたり、倒れたりは一切しない。俺はギロリと相手を睨み返して威圧する。
「こ、このっ!」
渾身の力を込めた拳を受けて、俺が微動だにしなかったのが気に食わなかったのだろうか。男は続け様に腰の入っていない拳を俺に浴びせ続けた。
衝撃と痛みに、思わず握っていた手摺りを握り潰してしまうが、そこは勘弁して欲しい。
男の拳が、俺の顔面を何度も何度も捉えては、俺の体の芯に衝撃を伝えてくる。
恐らく、殴り方としてはなっていない。
だが、彼の気持ちが熱となって、必要以上にその衝撃を俺に伝えてくる。
気持ちが、芯まで届く――。
「お前を! 倒して! 屋上まで! 連れて行けば! 助かる! 助かるんだ! だから! もう! 倒れろ! 倒れろよ!」
男は叫びながら、何度も何度も俺を殴打する。口の中が鉄の味でいっぱいになっても、俺は男に殴られるがままになっていた。
抵抗もせずに殴られているのは、俺が手を出す事でこの男を殺してしまう事を憂いているわけではない。
特に手を出す事もなく終わる事を経験則として知っているからだ。
「それだけか?」
顔を腫らしながら、そう言ってやると男は雄叫びを上げながら、拳の速度を早めた。
だが、早まったのも束の間で、その拳の勢いはみるみる衰えていく。
暴力に慣れている人間でもなければ、人を殴るという行為には多大な精神負荷が伴う。
ただのサラリーマンにしか見えない男に、人を殴る経験が多いとは思えない。
結果、男は拳を握り込んだまま、息を荒げてその場に座り込んでしまった。肩が激しく上下する事で、男の体力が切れた事を確認する。
「気が済んだか?」
男が息を整えている間にも、俺の顔の腫れは急速な速度で回復していった。相変わらず、傷の治りが早い便利な体質だ。一分もしない内に、腫れていた顔が元に戻る。
「妻と、娘が三十八階に居るんだ……」
ポツリと、男は顔を上げる事もなく、そう言葉を吐き出していた。
その言葉が自戒の為なのか、窮状を訴える為なのかは俺には分からない。
だが、俺にとってはどうでも良い話だ。
俺は正義のヒーローでもなければ、お人好しでもない。自己中心的な興味で動く殺人鬼なのだから、知らない相手がどうなろうと知った事ではないからだ。
俺を殴っている暇があれば、自分でどうにかしろと言いたいぐらいには興味がない。
「二十五階から悲鳴と争う音が聞こえてきて……。私はどうにかしようとして……。お前たちを、あの悪魔に引き渡せば……、こんな状況は終わるんじゃないかって……」
「だからって、いきなり殴り掛かってくるなんて酷いですよ!」
全くだ。
常識が通用しない状況となったからって、良識を捨てて良いものではない。俺は、プッと血混じりの唾を吐き出してから抗議の意を示すために睨み付ける。
「じゃあ、どうすれば良いと言うんだ! 妻や娘を助けるには! あの悪魔とやらに君たちを捧げるしか方法が無いというのに! 他の選択肢があるというのか! 君らが! 君たちが、あの悪魔の供物になれば全て収まる話だろう!?」
責めるイブリースの言葉に男は激昂する。
恐らく、普段はこの男も家族思いの優しい男なのだろう。
だが、追い詰められた人間というのは豹変するものだ。
まるで、幽鬼のような目で睨まれ、俺は肩を竦める。そんな目が出来るなら、それをアークデーモンに向けたらどうだと言ってやりたい。
「まぁ、何を信じるかは勝手だが、悪魔の口約束を鵜呑みにして、俺たちを屋上に連れていったところで、見逃してくれる保証はあるのか? それこそ、悪魔なんて平気で約束を破るイメージがあるが?」
俺がそう言うと、男は分かりやすく動揺する。どうやら、目の前に垂らされた蜘蛛糸に深く考えずに縋ってしまったらしい。
イブリースの方は、何か言いたそうな視線を向けてくるが、男が大人しくなるというのなら動向を見守ろうというのだろう。
あえて、俺の言葉を否定することはしなかった。
「だったら……だったら、私はどうしたら良かったと言うんだ!」
男がやるせない気持ちのままに、壁を叩いた瞬間だった。
ビシッという音が響き、壁が瓦解する。
コンクリートが崩れ、鉄筋がひしゃげ、次の瞬間には階段の踊り場に巨大な横穴が開いていた。
「!?」
何て馬鹿力だ、と思ったが違う。
コンクリートの破片が外から内に向けて吹き込んできたのだ。男の力で割れたのなら、内から外にコンクリート片が吹き飛んでいなければおかしい。
目を開けていられない程の強風が吹き込んでくる中で、穴の奥底からぬぅっと長い手が伸びてきて男の体を掴むなり、穴の奥底へと連れ去ってしまっていた。
「うわぁぁぁぁぁぁ!」
「ちっ」
瞬間的に、体が動く。
後先を考えることなく、壁に開いた大穴に飛び込んで走り抜けると、目の前には何もない。真っ赤な空があるだけだ。
俺は空中に投げ出された男の体を片手で抱えると、そのまま壁に開いた大穴の中へと放り返す。ちょっと加減が出来なかったが、そこはイブリースを信じるしかない。
しかし、一体何が起こったのだと素早く首を廻らせると、マンションの壁に長い爪を刺して、まるでヤモリのように貼り付く山羊頭の存在が確認出来た。
「なるほど。あれが原因か」
どうやら、山羊頭の一体がマンションの壁を這いずりながら男を追っ掛けてきていたらしい。
いや、それとも狙いは俺たちか?
まぁ、どうでも良い。
問題は男を助ける為に、俺は絶賛自由落下中という事だ。
咄嗟に体が動いてしまったが、どうも人が死ぬこと、殺されることに過敏になっている気がする。
イブリースを殺し掛けた事が、
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