第35話 本当は、最初は


 春人が好きだと口にして、草壁はしばらく口を開いてはこなかった。

 ただ、最初に流した一滴の後、ひたすらに唇を噛み締めていた。

 はあっと大きく息を吐き、彼女は額に手を当てる。伏せた目は濡れていて、必死に嗚咽おえつを押しとどめているのが春人にも分かった。



「……、……ずっと。……私は、君に振られると思っていたよ」



 前髪をくしゃりとつかみ、草壁はうつむいたまま白状してくる。

 どうして、と春人はかすれた声で尋ねた。掠れてしまったのは、油断したからだ。思った以上に緊張していたのだとそれで知る。


「……。私が、君を中学の時に見かけたことがあると話したね」

「……悪い。秋君から少し聞いた。つまらなそうな顔をしているって思ったんだって?」

「秋が、そんなことを? ははっ。……須藤君は、本当に弟とすぐに仲良くなっちゃったね。……羨ましいなあ」


 何かを堪える様に呼吸をし、彼女は徐々に息を整えていく。

 そして、意を決した様に春人の目を覗き込む様に見つめてきた。――真っ直ぐで、相変わらず綺麗な輝きだなと見惚れてしまう。


「君を見かけたのは、中学時代はほぼ全部恋人といる姿だったんだけどね。一度だけ、……一度だけ。友人に誘われて、うちの中学との交流試合を見たことがあったんだよ」

「え、そうなんだ。……一般人は上の階だっけ?」

「ああ、そうだよ。確かに君は、本当に剣道の腕が凄まじかったね。他にも強い人はいたけど、君は群を抜いていた。正直……惚れ惚れしてしまったよ」


 照れくさそうにはにかむ彼女の顔に、春人も何故だか頬が熱くなる。いつもの溌剌はつらつとした笑顔ではない、彼女の心がにじみ出る様な微笑みは、数倍可愛らしさが増していた。



「それでね。面を脱いだ時に現れた君の顔が、……すっごく輝いて見えたんだ」

「――」

「それまでつまらなそうだったり、悲しそうな顔しか見たことがなかったのに。先輩や仲間と抱き合って勝利を喜ぶ姿は、幼い子供みたいにきらきら輝いていた」

「……、あー……」

「その時思ったよ。……ああ、君はそんな顔も出来るんだ、ってね」



 懐かしそうに語る彼女の目は遠くて優しい。

 彼女がいかに春人のことを昔からよく見ていたのかが伝わってきた。たった数回、それも偶然でしか見かけていなかったはずなのに、心配してくれている人がいたという事実が素直に嬉しい。


「それから春園学院に来て、君がいると知ったよ。……まあ、不思議ではないよね。剣道が強い学校だから。君は部活には入らなかったけど」

「そうだな。前に話した通り」

「うん。学院でも君を時折見かけたけど、……やっぱり同じさ。つまらなそうだったよ。剣道の時の、あのきらきらした笑顔は、一度も見たことがなかった」

「……そうだな」


 指摘してくる事実は、春人には否定出来ない。実際そうだったのだ。


「そうやって、……入学してからどれくらい経った頃かな。ある日、通学路で人だかりが出来ていてね。遠くからサイレンの音も聞こえるし、何かな、と思ったよ。助けを求めている人がいるなら、助けなきゃと思ってね、中に入っていった」

「はは。草壁さんらしいな」

「そうかい? そして……そこで見かけたのは、君だったよ」

「え? 俺? って、……」


 彼女が言わんとすることに気付いて、春人もはっとする。

 まさか、と言葉にするよりも前に彼女は楽しそうに先を続けた。



「人だかりの向こうに、一人のおばあさんが倒れていてね」

「――っ」

「そのそばにいたのは、君だったよ。須藤春人君」



 言われて、春人の脳裡のうりにも鮮やかにあの時の光景がよみがえる。

 そうだ。あの日は、いつも通りに学院へと登校している最中だった。


 けれどいつもと違ったのは、通学路の途中でおばあさんが苦しそうに倒れていたことだ。


 息も荒いし、目の焦点もうつろで、意識も混濁している様だった。

 他にも人がちらほらいたのに、恐いのか混乱しているのか全く動いてくれないことに腹を立てながら、急いで救急車を呼んだのだ。

 そして。


「君は救急車が来るまで、おばあさんの手を握っていたね。……大丈夫ですか、意識はありますか、俺の言うことは分かりますか」

「……、……俺の言うことが分かったら、声は出さなくても良いから、手を握って下さい」

「そう。……それで、おばあさんが微かに握ったのが何回も見えたよ。スマホで救急隊員の指示を受けながら、君はずっと手を握っていた。……それに、……君は、最後までおばあさんを見捨てなかったね」


 やがてようやく到着した救急車におばあさんが運ばれていく時に、春人はおばあさんの手を離せなかった。

 何故なら、おばあさんがしっかりと、春人の手を掴んで離さなかったからだ。


「君は言っていたね。……『俺はこの人の身内じゃないんですけど、一緒に付き添って良いですか』って。生徒手帳まで出して、身分を明かして」

「……、……そこまで見ていたのか」

「ああ。……おばあさんが心細いだろうから。こうやって手を握っていたら安心するだろうから。ご家族と連絡が付くまではせめて、って。……ふふっ。救急隊員の『遅刻するよ』という心配にも、『死にはしないので』と笑顔で答える君。……カッコ良かったなあ」


 うっとりと目を細める彼女の瞳には、当時の光景が目の前に広がっている様だ。

 あの時の春人は、必死だった。何とかおばあさんに持ち直して欲しくて、手を握るだけで安心出来るならいくらだってすると考えたのだ。

 そうして、今はおばあさんは元気になって、毎日朝に通学路で挨拶をする。家が近所だったのを知って、時々家族で一人暮らしのおばあさんの家にお邪魔したり、おかずを分け合う交流もしていた。

 しかし、まさかあの場面を見られていたとは。何だか恥ずかしさが勝って、彼女の顔から視線を外してしまった。



「続きがまだあるんだよ」

「え! まだ⁉」

「あの日、登校して……私は偶然職員室に用事があってね。その時、君が担任らしき人と話しているのを見かけたんだ」

「――っ!」



 まさか、あの会話まで聞かれていたのでは。

 ぐぐっと口を一文字に結んで背筋を伸ばす春人に、草壁はその様子がおかしかったのか、楽しそうに笑った。


「そうだよ。全部聞いていた」

「げ、え……」

「君は、担任に聞かれていた。どうして遅刻したんだ、って。しかも無断でって」

「……うぐあ……っ、もう最初からじゃんか……」

「ああ。……それで、君はこう答えた。『物凄い寝坊しました。すみません』って」


 草壁の答えに、春人は頭を抱えたくなった。恥ずかし過ぎて悶死する。今すぐ穴を掘ってもぐりたい。

 あの日、正直に話しても良かったが、何となく気恥ずかしくて誤魔化ごまかしたのだ。それに、人助けをしたことに変わりはないが、それを進んで口にするのもはばかられた。

 そもそも、そんな話をして素直に信じてくれるだろうかとも思ったのだ。非日常的過ぎるし、疑われて嘘じゃないかと言われるのも嫌だった。

 だから、話さなかったのだが。



「だが、担任はこう言っていたよね。『嘘を吐くな。さっき電話があった。須藤春人君という男子高校生が、患者に付き添って救急車に乗ったので遅れます』と」

「……。……生徒手帳見たの、一瞬だったはずなのに。あの救急隊員、名前だけでなく学校名も覚えていたらしくて。電話してくれてたらしいんだよ……」



 そう、担任にはあっさり真実を暴露され、嘘を吐くなと呆れられた。

 そして、「よくやった」と頭を撫でて褒めてくれたのだ。


「担任が続けた内容も覚えているよ。――お前のその勇気と行動力で、患者さんであるおばあさんは命を取り留めたと聞いたぞ。それに、さっき病院からも連絡があった。おばあさんが一度お前と話をしたいらしい……だったっけ?」

「……。そうだよっ。それ以来、おばあさんとは近所だったし、付き合いも続いてる」

「それこそ、人の縁だよね」

「……、まあな」

「……私はね。その話を聞いて、君は本当に凄いと思ったよ。……あの時、あたふたするだけの人達の中で、一人で色々つたないながらも懸命におばあさんに寄り添う姿が、……とても眩しくて、カッコ良く見えた」



 だから、好きになった。



 ささやく様に、けれど感慨深げに落とされた言葉は、春人がずっと聞きたかった想いだ。

 やっと、彼女の答えに辿り着けた。

 そして、理解する。

 彼女が春人を好きになったキッカケが、『顔』だった意味も。


「君を好きになったキッカケは顔、そして理由も顔から始まった。……君のあの時の姿が、笑顔が、カッコ良くて。私もあんな風になりたい、あれこそが私の目指す姿だと。君は、私にとってはもちろん、おばあさんにとってもヒーローみたいに見えただろう」

「……っ、草壁さん……」

「私は元々総合診療医になろうと思っていたけど、……ああやって誰かの危機に駆け付け、そばで安心させてあげたり、声をかけ続けている君が、脳裏のうりに焼き付いて離れなくてね。そして、そんな優しい君に、電話越しでも応急処置を指示出来る救急救命士の道もあるんだなって思ったんだ」

「……、……え、それが?」

「そう。どちらになろうか迷う理由だよ」


 あの場面を見られていただけではなく、彼女の将来の目標にも影響を与えていた。

 思った以上に春人が彼女に関わっていたのを知り、顔が火照ほてって熱くなる。自分が彼女を知らない間に、彼女はそれほどまでに春人のことを知り、人生に関与していた。

 はあ、っと息が震える。吐き出される吐息が震えるのは、もうどちらのものか分からなかった。


「高校二年生になって、君と同じクラスになった時は狂喜乱舞だったよ。ここが天国か! と思ったね!」

「……はいはい」

「でも、なかなか君と話す機会が無くてね。それに、恋人とも別れたばかりと聞いて。君を好きな人達が告白しようと動いているのも知った。……正直に言えば、君にすぐ告白しようとするのは、まあ、……悪い言い方をすれば、ミーハーが多かったのでね。清水さんの様に一歩を踏み出すのを躊躇ためらったり、本気で好きになっている人は行動が遅いから」

「……。そうだな。告白って、すっごい勇気がいるもんな」

「そうさ。……このままだと、また須藤君はああいうつまらない顔をし続けるだろうなと私も焦ってね。――思い付いた策が、告白だったのさ!」


 飛躍し過ぎだ。


 ツッコミたかったが、彼女としては真剣だったのだろう。今、春人は思いを伝えるだけでもかなりの勇気を要した。

 きっと、彼女も軽い言い方をしているが、胸が絞られて苦しくなるほど緊張したのかもしれない。故に、黙って続きに耳を傾ける。



「ただ、告白して困ったのはね! 君にOKされたら、どうしようかということを考えていなったのさ!」

「――おいっ⁉」

「いやあ、だって、君、私のことを好きでも何でもなかっただろう? それなのに付き合ったら、まーた結局つまらない顔の繰り返しだろうし! だから、何としてもOKを阻止したくてね!」

「え、……え。まさか……だから」

「そうさ! 案の定、君がかるーくOKしたからね! まあ、……せっかくの一世一代の告白をそんな風に扱ったことにも一応腹が立ってね。だから、叩き返したのさ!」



 どーん! と効果音を背負う様に、草壁が胸を張って仁王立ちする。

 彼女らしいと言えば彼女らしいが、春人としてはどうしてそんなに考えなしに突っ走ったと呆れたい。告白の後を考えなかったとは、相当焦っていたのだろうか。

 だが、春人も大概たいがい悪かったと反省している。あの時の春人は本当に不誠実だった。彼女が怒るのも無理はない。


「ただ、ここで付き合わなかったとしたら、また告白する女子ががんがん現れる。それは嫌だった。私も君が好きだったしね」

「はあ……」

「だから、毎日告白し続けることにしたのさ! それで、周りを牽制けんせいしまくれば良いと気付いてね!」

「……、なる、ほど?」

「それに、……君は分かっていないだろうけど。初めて告白した時、君、とっても変な顔をしたんだよ」


 おかしそうにき出す彼女に、春人は「へ?」と首を傾げるが、すぐに合点がいった。

 ひざまずいて王子様然として告白する女性など、普通はお目にかかれない。はっきり言って、春人もあの時は変な人だと思ったものだ。



「……ああ。それは、草壁さんの告白が変……いや、独特だったからな」

「そうだろう? ……あの時は、本当に色んな顔をしていた。私が知っているつまらなそうな顔では無かった。……私が、それ以外の顔を引き出せたのかと、少し浮かれもしたよ」

「……っ」

「だから、……もし、告白をし続けて、君とおしゃべりを続けて、もっと色んな顔が見れたら良いな、と願った。願ったから、告白し続けた」

「……」

「……本当は、……最初はね。本当の本当に、……話していく内に、君の色んな顔が、……つまらないとか、悲しいとか、そういう、今まで見てきた以外の表情が見られれば、それで良いと。そう思っていたんだよ」



 それなのに、と。

 草壁が、苦し気に――やっと、本心をき出しにして、泣く様に笑った。



「いつの間にか、……君のことがこんなに好きになっていた。引き返せないくらいに」

「――」

「ごめんね、須藤君。……君を傷付けて、ずっと後悔していたんだ。でもっ……、……あの時、……本当にあの時は。君の言葉の先を聞くのが、恐かったんだ。――振られるのが、恐くて恐くて、……たまらなかった……っ」



 そう言われた瞬間。

 春人は彼女に手を伸ばし、無意識に抱き締めていた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る