青髭

 何もかもが嫌だった。

 駅の改札口付近に、その子は立っている。痩せぎすだが背が高く、実年齢より大人びて見られることが多い。

 持っている服の中では一番まともな、穴が開いたり綻びたりしておらず、子供っぽくも見えないワンピースを選んだつもりだが、どうにも自信が持てない。彼女の成長速度に合わせて新しい洋服を買うことができない家庭の事情のせいで、ツーサイズは小さいぴちぴちの超ミニスカートになってしまっている。

 日本人離れしたスタイルのお陰で、その姿を滑稽に思う者はあまりいない代わりに、ほっそりと形よく伸びた彼女の脚は、通行人からの遠慮のない注目を集めていた。眉をひそめてそっぽを向く婦人、羨望の眼差しを向ける女子高生、だが大半は、ねっとりと絡みつく、その子をひたすら不快で不安にさせる種類のもの。


「きれいな髪の毛だねえ。バービーちゃんみたい」


 そんなことを言いながら、馴れ馴れしく頭を撫でられたり膝の上に載せられたりすることは、さすがに強い意思を持って拒絶するようになった。しかし、からは相変わらず逃れることができない。それはむしろ、歳を重ねるごとに一層酷くなるようだった。体の特定の部位に視線が集中していると思うのは気のせいだろうか。


 見るだけならタダだとでも思ってんの?


 辟易しながら、その子は待ち合わせの相手を待っている。あちらには彼女の外見の特徴を教えてあるが、彼女は向うがどんな人物なのか知らない。ただ、「大人」の「男性」で、「優しい人間」だという以外は。


「君がアオイちゃんかな」


 背の高い男性が立っていた。

 その子は無言で頷く。それは彼女の本当の名前ではなかったが、ニックネームだということにしておけば嘘をついたことにはならないだろう、と自分に言い聞かせて、メッセージをやりとりする際に使った名前だ。

 先に立って歩き出した男の後を、その子はついて行く。ダークな細身のスーツを着た男の白髪交じりの頭髪は短く丁寧に撫でつけられている。頬から顎にかけて髭の剃り跡がうっすら青い。

 他の連中と違い、チャット中に卑猥な言葉を使ったり裸の写真を送れと要求したりしなかったというだけで選んだ男の身なりや話しぶりが想定より紳士的であることに少し安心したその子は、父親よりも少し歳が上だろうか、と考える。彼女は実父の顔を知らないから、想像上のお父さんだが。


「お腹空いてる?」


 男が振り返って、その子がひとの流れに押されて少し遅れをとっていることに気付き、足を止めた。その子は男に追いついてから、首を横に振った。男は少し微笑んで、彼女の肩にそっと手を回した。

 まるで、雑踏の中で、我が子を守る父親のように。

 馬鹿げた妄想。その子は、我ながら笑ってしまう。


 父親だったら、こんなことはしない。


 だがはた目には、確かに父と娘のように映った。二人とも長身で、見栄えがよかった。男の方は、浅黒い肌をしており、神経質そうな銀縁眼鏡の奥の目は切れ長の一重で、よく見れば酷薄そうに抜け目のない光を帯びているのだが、年齢的には、その子の父親としてすんなり納まる。娘はきっと、母親似なのだろうということで誰もが納得するはずだ。それも、飛び切り美人の母親に。それは半分だけ当たっており、彼女の母は美人だが小柄で、今では彼女のほうが背が高い。

 近くに車を停めてある、と男は言った。どこか落ちつける場所に行こう、と。


   *


 頭が重く、瞼を開けるのも一苦労だった。

 簡素な部屋。ベッド、デスク、大きな姿見。壁側に置かれた縦長の鏡は、彼女の白い体を映している。彼女は、仰向けに寝かされている。自分の身に何が起きたか、苦労して鏡から引き剥がして下に向けた眼球が直接捕える。


 もう、終わったのだろうか。 


 男の背中。ベッドの端に、彼女に背を向け腰かけている。上着を脱いでおり、Yシャツの上にベストという格好だ。ズボンは履いている。脱いでからまた履いたのか、ずっと履いたままなのか。


 ペットボトル


 駅の近くの駐車場に停められていた黒塗りの大きな車の助手席に乗り込んだ早々に、男から手渡されたのを思い出した。喉が渇いていたので、半分ほど一気に飲んだ。そして、世界がぐるりと回転して、何もわからなくなった。

 今ものどがカラカラだった。まだ夢を見ているかのように、体を動かすことができず、声も出せなかった。


 あの、変な味がした、緑茶。


 その子に手渡す前に男がキャップを開けてくれたと思ったが、実際にはその前に既に開封済みだったのだ。だが、なぜ。終わるまで歯を食いしばって我慢して見せると、覚悟の上で彼女は男と会った。こんなことをする必要は、まったくない。

 自分の体を遠隔操作しているような奇妙な感覚で苦労して持ち上げた右手が、ぽとりとシーツの上に落ちた。

 男が振り向いた。彼が屈みこんでいたベッドサイドのテーブルの上に置かれたものがちらりと見えて、彼女の心は、半分ぐらい死んだ。どんな用途に使うものであれ、未だ発達途中の彼女には大きすぎると思った。

 目を覚まさなければよかった。

 強張った彼女の頬を、男の指先がそっと撫でた。肉体労働とは無縁の、きれいな爪をしていた。ぞっとした。もはや、この男を父親として想像することはできなかった。


「あんなに一気に飲むから」

 男は彼女の整った顔に指を走らせながらそう言った。

「ここに着くまで少し眠っていてほしかったんだが、さりとて完全に意識を亡くした相手では、つまらない」


 いつかの娘のようになっては、処分が面倒だし、とこれは独り言のように呟いてから、男がベッドの上に片膝をついたのでスプリングが軋んだ。彼女はどうにか体を反転させて男から遠ざかろうとするが、髪を鷲掴みにされ、乱暴に引き戻された。


「無駄だってことは、わかるだろう? こんな生まれたままの姿じゃ、外に出られない。知らない男の後について、のこのここんなところまでやって来た理由をどう説明するつもりだね?」


 彼女は首を横に振った。涙が滲み出ていたのは、痛みのせいだけではない。


「おや。この髪、染めてるわけじゃないんだな。君、十六歳って言ってたけど、もっと若いんじゃないのかい?」男は彼女が人形ででもあるかのように、腕を持ち上げたり、体を裏返したりして、体のパーツを一つ一つ点検してから、言った。

「ならよかった。実は、もう少し若い子のほうが好みでね。今時の女子高生なんて、乱れきっていて何の魅力も感じないんだが、手軽に手に入るのは、そういう安い少女ばかりなんだよ」


 * *


 家に戻った時はまだ少しふらついていた。いつもはドアを開けた瞬間少しだけ不快に感じる臭いに、その子は安堵を覚えた。コンビニの袋に詰め込まれたゴミが床のあちこちに転がっている。彼女が昨日学校から帰って部屋の隅に置いたランドセルの赤が妙に生々しく、眩しかった。

 母親が外出中なのは幸いだった。

 その子はポケットから取り出したものをランドセルの中に入れると、ゴミ袋を蹴飛ばしながら浴室に向かい、のろのろと服を脱ぎ始めた。あの男の部屋を出る前にバスルームに引きずって行かれて、頭からざあざあと湯を浴びせかけられ、泡立てたボディソープで体中を入念にこすられた。それでも、もう一度洗い流したかった。


 この世の、ありとあらゆるものを。

 

 下着を汚した褐色の染みは、熱い湯と安物の石鹼でこすると色がわからない程度に落ちた。よく絞ってから、それを浴室の外の洗濯機の中に放り込んだ後、石鹸を握りしめて、シャワーヘッドから降り注ぐ湯の下に座り込んだ。クスリの効果が薄れるとともに、痛みや諸々のものが戻って来た。


 このぐらい平気。


 少なくともこれは、その子が自ら選んだことだった。母親の指図でセーラー服や体操服を着てごついレンズ付きのカメラを構えた男達の要求通りに屈辱的ポーズを取らされても、収益は母親が全て散財してしまう。

 彼女は、母のように生活保護を受けながら自堕落な生活を送るつもりはない。彼女に意地悪ばかりするクラスの秀才男子なんかに、本当は少しも劣っていない。面倒くさいからいつもテストではわざといくつか間違った回答をしているが、母親の言う通りに中卒で働くなんて、まっぴら御免だった。高校に行きたいし、できれば、大学にだって。彼女は勉強が好きだ。そのためには、お金をどうにか工面しなければならない。


 こんなことぐらい、みんなやっている。


 多くは彼女より年上で、最新のスマホが欲しいとか洋服がほしいとか、その子にしてみれば死ぬほどくだらない理由で手軽に金を得ようとするあまり頭のよくない娘たちに違いないが、理由なんて、別にどうでもよかった。


 突然浴室のドアが開いた。


 温かい湯に体を打たれながら膝を抱えていたその子は、弾かれたように顔をあげた。

 湯気の向こうから顔を突き出しているのは、母親の現在の彼氏だった。


「あれっ、一人?」


 茶髪の男は、ニヤついた顔で言った。その子の母親と同年代、二十代後半の肉体労働者だ。


「ちょうどいいや、久しぶりに一緒に入ろうよ」


 ドアが閉められ、すりガラスの向こうで男が服を脱いでいるのが見える。

 あの男は――彼女をホテルで死ぬほどおぞましく、恐ろしい目に遭わせた男の方だが――ことが済んで、放心状態の彼女をバスルームに引きずっていく時に、こういったのだった。


「こんな目に二度と遭いたくなければ、親の言うことをよく聞いて、家で大人しくしていることだよ、お嬢さん。はした金のために命を失うことだってあるんだから。わたしがそこまでの悪人じゃなくて、ラッキーだったと思いなさい」


 。少なくともあの男は、お金を踏み倒したりしなかった。その子が出血したのを見て喜び、上乗せしてくれたぐらいだった。

 派手な音を立ててドアが開き、彼女を回想から引き戻した。


 死にたくないなんて、誰が言った?


 彼女は母親の彼氏のにやにや笑いを見上げながら、思う。


 死ぬより悪いことなんて、いくらでもあるのだから。

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