断章
バタフライ・エフェクト
ばいばい
ばいばーい
手を振って歩き去る男の背中を、その子は黙って見送った。
声をかけられるのではないかという予感があり、少し身構えたのだが、男はびくびくと痙攣する頬を手で押さえて、足早に彼女の横を通り過ぎて行った。
その背中は、その子の父親が仕事に出かける際に着用するのとよく似た上着に包まれていたが、元々細身のデザインなのに、中身が萎んだのか、布がずいぶん余っていた。その子の父親の場合、むしろ体重の増加が止まらず、ぴちぴちになっているというのに。
その子は、去っていく背中に哀れみを覚えた。
五歳の彼女でも「哀れみ」は「かわいそう」という感情として既に実装済だった。
おじさんはなんだか、かわいそう
だから、その細身の男が振り返ったとき、彼女は手を振った。ばいばい、と。男も手を振り返してきた。
ばいばい
ばいばい……
その子の目の前を、ひらひらと横切るものがあった。
ちょうちょ!
先ほどのかわいそうなおじさんのことは、その子の頭の中から瞬時に吹き飛んでしまった。その子のすぐ側に立つ電柱、身長110センチの彼女でも届く高さに蝶は停まった。その子はあんぐりと口を開いたが、すぐににっこり笑って両手をカップのように丸くして、蝶の上に被せた。だが、彼女の肉付きのよい小さな手が電柱に触れる前に、蝶は隙間からするりと抜け出して、ふわふわと空中を漂った。
その子の笑みが、さらに大きく顔中に広がった。遠くの方で赤ちゃんが泣き始めたが、彼女の耳には届かない。
その蝶はゆっくりと、しかし予測不可能な動きでその子の目の前を飛び回ってむっちりした指に捕えられるのを回避したあと、五歳児の手の届かない高さにふわりと舞い上がった。
その子の視界から、その蝶以外の一切のものが失われた。その子は、蝶の飛ぶ軌道を見逃さないようにしっかりと見つめたまま、色鮮やかな赤いスカートの裾を揺らしながら、そのあとを追い始めた。
*
「あら、やだ」
赤ちゃんが泣き出していた。彼女は小さなおもちゃのじょうろで庭のお花に水をやっている五歳の長女に目を向けた。最近始めた家庭菜園のプランターに、やや多過ぎると思われる量の水を夢中でかけている姿に、少し迷った。だが赤子の泣き声がさらに一段高くなったので
「ここにいてね。すぐ戻るから。お外に出ちゃだめだよ」
と娘に言い置いて、慌てて縁側から家の中に駆け込んだ。
生後十ヶ月の長男がお昼寝から目覚めたのだった。ハイハイをするようになった赤ん坊は少しでも目を離すと危険極まりない行動をとる。本人は無事だったとしても、ティッシュペーパーをボックスから全部抜き出して部屋中にまき散らすとか、サインペンでそこいらじゅうに前衛芸術のような落書きをして回るとか……発見した時にはその場にへたり込んで数分間動けなくなるような悪戯をしでかす(母親が無力にへたり込んでいる間にも、満面の笑みを浮かべて悪さを続けるのだ)。だから、まず大音量で泣き叫ぶ赤子を回収してから庭に戻って長女を屋内に呼び戻し、それからおやつにしよう。そういう目算だった。
彼女は決して、悪い母親ではない。
結婚してほどなく二人の子宝に恵まれ、幸せいっぱいの母親だ(特に、長男の夜泣きが治まり睡眠がブツ切れにされることが少なくなってからは、世界が再び輝いて見えるようになっていた)。二人の子供、どちらも慈しみ、大切にしていた。
大声で泣きわめいていた長男は、母親が急いでやって来る姿を発見するや、目尻から涙をしたたらせながら、にっこりとほほ笑んだ。
つられて笑顔になりながら、彼女は長男のまるまるとした体を抱き上げた。濡れた顔を拭いてやりながら庭の長女の元へ戻る途中、キッチンのテーブルの上――そこならばまだ長男の手が届かないことが確実な位置――に置いたままのスマートフォンを手に取った。子供達と一緒のときは、あまり見ないよう心掛けているため、お昼ごはんの片づけをして以降、触っていなかった。
片手で操作して、夫からメッセージが届いていることに気付いた。それも、一つや二つではない。週末だというのに出勤している夫に何かあったのかと思い、素早く内容を確認すると
「なんだ、そんなこと」
安堵の笑みが漏れた。長男の指が自分の頬の肉にがっちりくい込んで爪を立てているのも気にならなかった(本日の入浴後に爪を切ることというのは頭の隅に置いておこうと思ったが)。昼休みにおいしいうどん屋に入り、うどん鍋用のうどん玉やスープを販売していたので購入したこと、晩御飯はそれにしてもらいたいから、鶏肉や野菜を準備しておいてほしい、そんな内容だった。
気が抜けたら、長男を抱いていた腕が少し緩んでいた。そして、母親の口の中に指を突っ込んで「こらっ」とたしなめられたことにもめげず、スマホを奪い取ろうと短い腕を振り回しても届かないことに癇癪を起した彼は、アーーー! という雄叫びと共に、思い切りのけぞった。
あっと思った時には、長男の体は、ごつんという鈍い音と共にキッチンの床に落下していた。
一瞬キョトンとした顔をした長男は、けたたましい声を上げて泣き出した。
火が付いたように泣く長男がようやく落ち着いたのは数分ののち。頭を酷くぶつけたのではないかと、彼女自身軽くパニックに陥ってしまっていた。泣きぬれた顔を眠そうに彼女の胸に顔を押し付けてくる長男を、病院に連れて行くべきかどうか迷う彼女は、は、と気がづいた。
「ミサキ!」
庭で遊ばせていた長女のことをすっかり忘れていた。
広くもない庭に、小さなじょうろがぽつねんと、横倒しになって地面に染みを広げているのを見て、彼女の心は沈んだ。一人で家の中に戻ったのではないかと、庭と同様にこちらもそう広くはない家の中を捜し、やはりどこにもいないので、縁側から庭に出る用のサンダルをつっかけて、幼児と言えども身を隠す隙間などほとんどない庭を再度確認、家の周りを一周まわってから、外に出た。
家のすぐ側にある電柱の陰に、女児の姿はなかった。ついさきほどまではそこに居て、蝶と戯れていたことを母親は知らない。土曜の午後、住宅街の狭い路地には、人影もない。いつの間にか眠り込んでいた長男の体が、細いが筋肉のついた腕に重くのしかかっている。
女児が発見されるのは、二十年以上が経過してから、この当時の自宅から遠く離れた山中で、偶然通りかかった登山者によってである。
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