第29話

 穏やかな性格の息子は、負の感情を表に出さないよう努力していたが、妹に対し日増しに苛立ちを募らせている様子が窺えた。高校受験や大学受験、果ては大学生活に支障をきたさなかったのは、息子の忍耐と精進の賜物だ。

 恐らく、あれは何かしらの病気だったのだろう。夫が頑なに反対しなければ、しかるべき病院で娘に診断を受けさせ、それなりの病名が下されたはずだ。

 専門家に助けを請うことができなかった結果として、娘の言動は異常さを増し、彼女の言葉は常に偽りだと身構えて受け取らざるを得なかった。一度などは、当時脱法ドラッグと呼ばれていた危険ドラッグを自室に隠し持っている現場を押さえたが、そのときの言いわけは、道で拾った、知らないおじさんが公園で配っていたなどと二転三転した挙句


「お兄ちゃんの友達がわたしのことが好きで、断ってもしつこく迫って来る。はその友達がくれたもの」


 高校生だった息子に確認したところ、その友達はスポーツマンで女の子にとても人気があり、妹のような子供に手を出したりするはずがないとのことだった。中学までは息子と同じ学校で、そういえば何度か家に遊びに来たことを彼女も記憶していた。意思の強そうな凛々しい顔立ちで、無口だが礼儀正しい少年だった。この子は女の子に人気があるのだろう、と当時も思った。

 うちではレコードを聴くためのステレオは置かないのか、と珍しく息子が父親に尋ねたりしたのもその友人の影響らしい。父親に却下されて潔く諦めたのはいかにもあの子らしい。友人のほうは、たまにシンイチから本を借りたりしていたはずだ。当時、スポーツの強豪校で将来有望な選手だというあの少年が、ドラッグに手を出すなんて想像できなかった。彼女が息子の言うことを信じ、娘をきつく叱ったのは当然のことだ。


 素直に親の言うことをきく息子と、ことごとく反発する娘、扱いに差が出るのは当然のことだった。彼女とて、自分が産んだ子を同じように可愛がらなければと思っていた。だが、何度「お母さんなんて大嫌い」とあの子に言われたことだろう。「お母さんなんて、死ねばいいのに」と言われるたびに、彼女の胸の内で憎しみが募っていった。

 それでもまさか、あんなことまでするとは。

 無論それは邪悪な妹の一方的な横恋慕だった。兄には高校に入って間もなくとても可愛いガールフレンドができて、以来ずっと交際が続いていた。妹が見境なく発情していたからといって、兄の方にその気がなければ、いかなる間違いも起こりようがないと彼女は思っていたが、それはただの希望的観測に過ぎなかったことがあとから判明した。


 ある真夜中、彼女も夫も一階の夫婦の寝室で床に就いていたところに、二階で騒ぎが勃発した。夫婦が驚いたことに、大声でわめいているのは、問題児の妹ではなく、当時大学生の息子だった。

 二人が慌てて二階に駆けあがると、息子は勉強机の椅子を振りまわしながら、狂犬でも追い払うような荒々しさで妹を威嚇していた。

 妹は鼻から血を流しながら、兄にすがりつこうとし、兄は側に寄るなと狂人の如くわめきたてていた。


「なによ」


 妹が血まみれの顔を醜く歪ませて叫んだ。


「わたしの口の中に出したくせに」


 夫に暴力的一面があるとは、彼女はそれまで想像したこともなかった。情が薄いことと実際に拳を振るうことは、全く別の問題だ。彼女は夫に従順な妻だったし、息子には反抗期すらなかった。娘には問題行動が多々あったが、それでも夫が手をあげたことは、一度もなかった。

 その夫が、床にうずくまる娘の髪を鷲掴みにすると、小さな子供が、大きすぎるぬいぐるみを引きずって歩くみたいにして、娘の体を部屋から引きずり出した。

 そのままドスンドスンと騒々しく階段を下りていき、風呂場に直行すると、翌日の洗濯に使うべく残してあった浴槽の水に、娘の頭を突っ込んだ。必死にもがく娘の上半身まで水中に浸かるように頭を沈め、自らのパジャマや髪もびしょ濡れになったが、何度も、何度も。風呂場のタイルに座り込んで、げぼげぼと水を吐きながら激しく咳き込む娘を見下ろす顔には一切の感情が現れていなかった。


 息子と部屋に残った彼女は、まだ激高冷めやらぬ息子の肩に手をかけようとして、乱暴に振り払われた。


「一人にしてくれないか」


 息子の泣き顔を見るなんて何年ぶりだろうか。そんなことを考えながら彼女は階下に降りた。浴室からはまだ派手に水の跳ねる音が聞こえてきたが、彼女は夫婦の寝室に戻ると、そっと障子を閉めた。


 あれは娘が中学三年生のときだった、と彼女は思い出す。兄ほど優秀ではない妹に、もっと受験に身を入れてほしくて、何より兄への歪んだ想いを断ち切らせるために、彼女の提案で息子のガールフレンドを家に招待したのだった。照れ屋の息子は初めとてもいやがった。


「彼女だって、彼氏の親になんて会いたがらないよ。別に結婚の約束をしてるわけじゃないんだし」


 それでも、かねてより妹の不適切な行動に悩まされていた息子は、それで妹が目を覚ましてくれるのなら、と渋々承諾した。

 相手のお嬢さんは、写真で見た通り、とても美人だった。少し美人過ぎて華やか過ぎるきらいがあるとも思ったが、実際に会って息子と二人仲睦まじい姿を見ると、お似合いだと思った。見た目によらず、息子と同じ高校に進学した才女でもある。大学は別々になったが、彼女のほうだって有名校だ。派手な見た目の主たる原因である蜂蜜色の髪は地毛だというし(「うちの高校、校則が厳しいって知ってるだろ。地毛証明しないかぎり、こんな派手な頭じゃ通学できないよ」)、美人過ぎるのは彼女の罪ではない。


 親御さんはさぞかし鼻が高いだろう。


 兄のガールフレンドと対面した妹は、凡庸な顔を引きつらせ、自室に閉じこもってしまった。荒療治ではあったが、さすがに今後は現実を見て受験生らしく勉強に励むだろうと思った。晴れて志望校に合格すれば、そこで新しい恋も見つけられるだろう。彼女はそう信じた。例え兄が通った県内トップクラスの進学校には到底及ばないランクの高校であっても。


 当時は痩せて非力だった娘も、今では体重が倍になり、身長では母親にかなわないものの、当時とは比べ物にならないほどの腕力を得ていた。彼女は子供に手をあげる母親ではなかったし、娘が癇癪を起こして彼女に丸太のように太い腕を振り上げるようになっても、成す術がなかった。


「お前の育て方が悪かったんだ」


 痣のできた彼女の顔を見て、夫は相変わらずの無表情でそう言った。


 自分がもっと愛情を注いでやれば、あんな風にはならなかったのかもしれない。ときどき彼女はそう思う。だが、娘にすまないことをしたとは、どうしても思えなかった。自分は母親失格なのではないか。そう思っても、娘が可愛いとか可哀想とか、そんな気持ちは一切湧いてこなかった。


 死んでしまえばいいのに


 夫の帰らなくなった家で、一人暗い部屋にじっとうずくまりながら、彼女はそう考える。


 あんな厄介者が居座っていたら、例え息子が結婚してもお嫁さんと二人でこの家に住んでくれるはずがない。あの汚らしい娘のせいで、この家は常に嫌な臭いがする。お陰で誰も、仲がよかったはずのご近所の人でさえも、この家には近寄らなくなった。


 彼女はかつて美しかった。背がすらっと高く、姿勢が良いので若い頃は「モデルさんですか?」とか「昔バレエやってたの?」などとよく訊かれたものだ。控えめだが知的な美しさを持ち、学業も優秀だった。厳格な親の勧める見合い話を受け、大学を卒業すると同時に結婚したが、数年後に生まれた長男は、誰もが口を揃えて、母親似であると言った。

 息子はきっと、有意義な人生を送ってくれる。自分の代わりに。ぽっかり胸に大穴が空いたような気分を味わう必要のない人生を。それが彼女の唯一の楽しみだった。それなのに。


 ゲームのやりすぎと不摂生な食生活のせいで、心筋梗塞でも起こせばいい。若くても突発的に亡くなる事例が、ないわけではない。だからわざと娘の要求する高カロリーで不健康な食事やスナック菓子を無条件に与えている。


 すっかり丸く小さくなった背中で、本当ならばとっくに片付けていなければならない季節外れの炬燵布団の中に両手を埋めた彼女は、もう何日間こうしているのか、思い出すことができなかった。もはや夫の帰りを待っているのか、息子を待っているのかも。


「ねえ、おかあさん」


 小さい息子が可愛い顔をこちらに向けていた。


「あかちゃん、かわいいねえ。ハルカちゃんは、せかいいち、かわいいね」


 屈託のない笑顔。入院中の母の元に父親に連れられてやってきたまだ幼い息子が、妹と初めて対面したときに口にした言葉だ。彼女はベッドのなかで、自然とほほ笑んでいた。


 そんなことないわよ


 あのとき、息子にそう言ってやればよかった。シンちゃんの方がずうっと可愛かったし、今でもシンちゃんが一番可愛いわ、と伝えてやればよかった。


 だから息子は帰ってこないのかしら、と彼女は思う。


 彼女の背中は小さく丸い。悪臭と騒音に満ちた暗闇の中で、それはじっとして、動かない。

 少し前、庭で大きな音がしたようだったが、そのことは既に彼女の脳裏からかき消されていた。


 カタッ


 小さな音がした。暗闇の中で目を凝らすと、炬燵テーブルの上で、何かがきらりと光った。それはとても小さなものだった。彼女は骨ばって皮だけになった指で、そっと摘み上げた。

 それは、指輪だった。彼女は皺だらけの顔に笑みを浮かべた。


 そうだ、これは、息子がくれたのだった。自分には派手すぎると言ったのに、そんなことはない、よく似合うよとあの子は言ってくれた。優しい子だ。わたしのことを想ってくれるのは、あの子だけ。


 彼女は震える手で、左手の薬指に指輪をはめた。ぶかぶかだったが、その手を掲げ、うっとりと見つめた。

 暗い部屋の中で、それは僅かな光源を捉えては、きらり、きらりと光った。彼女がゆらゆらと左右に手を揺らすと、瀕死の蝶が血を吐きながら、痙攣を起こしているように、見えなくもなかった。

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