第28話

 目に見えないはずの悪臭が見えそうなくらい、その部屋は汚れ、荒廃していた。昼夜を問わずカーテンが引かれた室内は、部屋の主が不在でも、電灯が点けっぱなしになっている。

 割りばしが突っ込まれたままのカップ焼きそばの容器やスナック菓子の空袋、汚れた皿、飲みかけの炭酸飲料のペットボトル、漫画本、宅配便の段ボール箱等が所狭しと積み上げられた床には足の踏み場もない。

 恐らくそこに腰を落ち着けてゲームをするのであろう座椅子の空間だけはかろうじて確保されていたが、ドアを開けてからそこまでいかにしてたどり着くのかは定かではない。

 テレビが相当な大音量で流れ続けているにもかかわらず、ことりとも動くものの気配のない部屋は、ぶんぶんと飛び交う小蠅の支配下にある。

 主にビデオゲームをプレイするために使われる大画面のテレビは、隣室と共有する壁側に設置されている。ディスプレイに表示された時刻は20:13。午後八時からのニュース番組は、開始早々からずっと、同じニュースを繰り返し報じている。


「さらに続報です――被害者の一人、西田彩ちゃん――四週目に入ったところ――ごく初期の段階で本人もまだ自覚がなく――これで死亡が確認されたのは十・五人となり――」


 これは珍しいことだったが、こちらと張り合うように隣室からもテレビの音がかなりのボリュームで聞こえ、内容が聞きとれそうで、聞きとれない。しかしそれは、こちら側の音声とぶつかって混濁し、結局どちらの音も、何を喋っているのかよくわからなくしてしまう。

 とはいえ、聞き取れたところで、悲劇的だがありきたりなニュースに関心を払う者は、誰もいなかったかもしれない。


 ふいに、隣室から鋭い叫び声のようなものがあがり、相次いで聞くに堪えない不吉で禍々しい音が響き渡ったが、始まった時と同様に、唐突にそれは終わった。こちらの部屋に対しては、小蠅を驚かせるほどの効果ももたらさなかった。


 部屋の住人が出て行った際にきちんと閉じられていなかったドアが、すうっと開いた。わずか数センチの隙間からは、たちまち目に染みる悪臭とテレビの騒音が漏れだして、暗い廊下を這い、ドアが半開きになっている隣の部屋――依然、隣室よりは控えめな音量だが、テレビの音がしている――に侵入し、更に暗闇に沈む階段を伝って、階下にも進行していく。

 階段の一番下まで到達したそれは、再び分岐してそれぞれ玄関と廊下の奥へと進行していく。明かりの点いていないリビングの障子は暗く、ぴっちり閉じられているが、臭いと音は、わずかな隙間から毒ガスのように侵入していく。


 暗い室内には季節外れの炬燵が置かれ、小さなシルエットが一つ、ぽつねんと座っているのが見てとれる。子供か猿ぐらいの小さな背中は酷く湾曲しており、まっすぐ伸ばすことは不可能であるように見える。毒ガス様の悪臭と騒音が着々と室内を満たしていくが、この部屋のなかでは、小さな背中も含め、何一つ、ことりとも動く気配はない。


 二階では、相変わらずテレビ番組が大音量で垂れ流されている。


「全ての発端は自分だ、と母親は言っているそうですが」と男性司会者が言う。専門家がそれを受けて

「ここにきて罪悪感が現れてきたようですね。勿論、家庭内における母親の役割というのは非常に重要です。ことに、子供たちにとっては」

「でもねえ、お兄ちゃんに夜這いをかけるような妹ですよ。なんでもかんでも親の教育のせいにされたら、お母さん、たまったもんじゃありませんよ」と女性タレントが大袈裟に顔をしかめて見せる。

「問題は、母親も実の息子に対し邪な思いを抱いていたことでは」と司会者。

「それ、ただのネットの噂でしょ?」と男性タレントが厳しい顔で割り込む。

「匿名の悪意ある人々によるデマの可能性も考慮しなければ。無責任な噂のせいで人生が滅茶苦茶になった人が、これまでにも少なからずいるわけで」

「しかし、実際兄ばかり可愛がり、妹の面倒はあまりみなかったようですよ」と司会者。

「妹が兄に『異常な』執着を見せるようになったのは、十五歳の時、アイドルのオーディションに三度目の不合格になってからだと言われています。では、こちらをご覧ください」


 スタジオのリポーターが指し示す大きなパネルには、十五歳のハルカの写真と年表が表示されている。


「あら、まあまあ可愛いじゃないですか」と女性タレント。

「まあ、これでアイドル候補生って言われたらビミョーかな、て思いますけど、最近はこういう親しみ易い子がうけるんでしょう?」

「『十五歳が賞味期限だ。これ以上年をとったら、商品価値がなくなってしまう』と妹は悲嘆に暮れていたそうです」とリポーター。

「たかがオーディションに落ちたぐらいで……それも、まだ十五だったんでしょう?」

「今時の風潮ですよね。昔は女子大生がもてはやされていた。その次は高校生、そして今は――」

「中学生なんて、まだまだ子供じゃないですか。それが、そこまで追いつめられるなんて」


 あの子に価値があったことなんてない、と彼女は思う。いつも身の丈に合わない夢を抱いて、勝手に傷ついていた。あの子は、幼稚園の頃から鏡を見るのが大好きだった。父親似で一重瞼、エラが張り、背が低く骨太な体形。親の欲目というフィルター越しですら可愛いとは思えなかったのに。幼い娘が鏡に向かってためつすがめつ角度を変えて流し目を送っている姿を見て、彼女はゾッとしたものだ。

 もっとも、今時の子は程度の差こそあれ、あんなものかもしれない。カフェで延々と「自撮り」をする隣席の若い女性が切るシャッター音を数えあげるのを五十回で断念した彼女は、そうひとりごちたのだった。

 とはいえ、頭がおかしいのは自分の娘だけではないと知ったところで、あまり慰めにはならない。

 カシャッ、カシャッ、カシャッ、カシャッ、カシャッ……四人掛けテーブルの壁側に二人で座り、壁を背景に、スマートフォンを掲げ、カシャッ。出来栄えを確認して、さらにカシャッ、またカシャッ……クリーム色の壁が背景で、被写体は常に同じ二人組が、代わり映えのしない写真をひたすら撮り続ける姿は滑稽を通り越してグロテスクだった。結局何枚撮ったのかわからないほぼ同じ写真の中から選りすぐりの一枚をSNSにアップするのだろうか。アプリで入念に加工修正した写真を。そんな風に、現実から著しく乖離させたアバターを作り上げては、せっせと世界に向けてアップしている、特にモデルさんであるとか、タレントさんであるようには見えない、凡庸な娘さんたち。


 よくもまあ、あそこまで自分のことが好きになれるものだ。


 結局は、彼女のほうが読んでいた本を閉じて店を出た。たまにカフェで読書をするのは、二人の子供を育てる彼女の、唯一の息抜きだった。少々ざわついているぐらいのほうが読書ははかどるものだが、店内に響き渡るスマホのシャッター音というのは、一回や二回ならともかく、十回や二十回でも我慢することは可能だろうが、さすがに五十回を超えたら無理だった。

 長男は様々な面で彼女に似ていた。携帯電話もゲーム機も特に自分からは欲しがらなかった。食卓で電話機をいじくりまわして父親に叱られるのは、常に妹のほう。携帯電話で写真を撮りまくるような趣味も、友達とメッセージを四六時中交換し合うことも、息子は面倒臭がってやりたがらなかった。

 妹とは違い、兄は素直で聞き分けのいい子だった。幼い息子が「将来は、お母さんと結婚する」と言ったときは本当に嬉しかった。たとえそれが、酔った親戚にからまれて半ば強制的に言わされた言葉だったとしても。あの子は、優しい子だ。誰かを傷つけるようなことは、子供の頃であっても、しなかった。

 一方で、妹が「お兄ちゃんと結婚する」と中学生になっても相変わらず言い張っていたのには、吐き気を催したが。


 娘は幼い頃から嘘つきだった。


 友達とショッピングに出かけて芸能事務所からスカウトされたという誰にでもすぐに嘘だとわかる類のものから、そこまであからさまではない小さなものまで、嘘などつく必要がない場面でも、息を吐くように不誠実な言葉を口にしては、本当のことだと臆面もなく言い張った。

 恐らく、周囲からの注目を集めたかったのだろう。

 大事にしていたお人形の顔を黒く塗りつぶして、やったのはパパだと言ったり、夜になると怖いお化けがやって来て体を舐めまわしていくと主張したりもしたが、それは明らかに十歳近くまで治らなかった、おねしょの言いわけだ。あの娘ときたら、恥じ入って反省するどころか、怯えているふりをして夜な夜な隣の兄の部屋に忍んでいった。

 そして十歳を過ぎても、相変わらずの虚言と我儘で、心優しい兄を振り回していた。


 おぞましい。なんておぞましい。

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