第27話 蝶

 ハルカは兄の頬を撫で、ダクトテープと皮膚の境目の感触を楽しみ、そのまま指を滑らせて首筋から鎖骨をなぞり、薄い胸板に掌をあてた。ハルカがこのまま体重をのせて力を込めれば、造作もなく肋骨が砕けてしまいそうな繊細な造形。

 自分もこんな風だったらいいのに、と子供の頃何度も思った。当時のハルカは、太ってこそいなかったが、ずんぐりとした感じのする小柄で見栄えのしない少女だった。肌だって、兄は色白で吹き出物一つないというのに、彼女は小麦色といえば聞こえはいいが生まれつき浅黒く、「健康的」というのが唯一の褒め言葉で、長期に渡る引きこもり生活のせいで、今はそれさえ失った。


「そうねえ、これはいかにも、ウケって感じ」ハルカはそれが癖になっている独り言を大きな声で呟いた。

「でも、これは信じてほしいんだけど、ああいうのは、わたしの趣味じゃないの。だって、お兄ちゃんがセメに強引に……だなんて、想像するのもヤだし」

 

 それは端的にいって、嘘だった。特に、兄から手ひどい拒絶を受けてからは、か弱い兄が貪欲な男どもの餌食になっているところを妄想して気を晴らしていた。兄が自分以外の女といるところを想像するのは拷問だったが、男達の慰み者にされている場面は喜びをもたらした。

 鼻歌を歌いながら、本当に必要な臓器が入っているのか疑わしい平らな腹部を撫でさすってから、ベルトに手をかけた。上機嫌になっていた。


「さっき、わたしの両肩を掴んだでしょ。お兄ちゃんから触れられるのなんて、何年振りかなあ。でもね、あの時に、わかったんだ。お兄ちゃんだって、心の中ではわたしのことが欲しくてたまらないんだってこと。あんな風に、ねっとりといやらしく触ったら、誰だってわかっちゃうよ。もうさあ、いい加減素直になりなよ」


 ハルカのお喋りの内容は、シンイチの耳にほとんど届かなかった。耳鳴り、頭痛、倦怠感、背中の下敷きになっている両手の痛み、肩甲骨の辺りに突き刺さる本の角の痛み、腹部の鈍痛、吐き気、息苦しさ、そういった感覚がゆっくりと戻って来て、それどころではなかった。

 だが、カチャカチャと金属の鳴る音に次いで、腰の辺りからシュッと何かが抜き取られた感触、さらには

 前回はパジャマで、ズボンにはベルトやファスナーなどついていなかったのだが、それでも非常に忌まわしい、シンイチが最も思い出したくない記憶が、けたたましいアラートとともに瞬時に呼び覚まされた。


 化け物に食われる


 二度目は絶対にあり得ない、という悲痛な覚悟が脳内で弾けて、シンイチは一気に覚醒した。喉の奥から懸命に声を絞り出して、両手足を縛り上げられた体で猛然と暴れ始めた。まるで、釣り上げられて甲板に放された魚のように。


「往生際が悪いなあ、もう」


 ハルカは床に置いてあったダクトテープのロールを掴んで、シンイチの頭部めがけて振り下ろした。運悪くそれは顔の真ん中に命中したので、鼻血が勢いよく噴き出した。

 ハルカは顔をしかめた。兄の顔のパーツでは、鼻筋のラインが特に好きなのに、骨折でもして元に戻らなかったら大変だ。ハルカの丸っこく平たい鼻は、少し曲がってしまったままだ。

 鼻血を止めるためには上を向かせて鼻を押さえるなどする必要がありそうだった。ダクトテープの下の口が苦しそうに動いている。


「あーあ、なにやってんの、もう。どうするの、これ。窒息プレイなんて、そういうマニアックな趣味はないんだけど。ほんとに死んじゃうよ?」


 シンイチの鼻から血の提灯が膨らんだり萎んだりをせわしなく繰り返し、全身が痙攣し始めたのを見て、ハルカは溜息をついた。


「ほんっとに手が焼けるんだから。おとなしくしてよ。ちょっとだけテープを外すから。もう、この次からは、気持ちよくなりたいから首を絞めてくれなんて言われても、絶対にお断りだからね。お兄ちゃんのためだったら何でもすると思ったら、大間違いなんだから。そういうのは、ほんと無理」


 苛立ちに声を荒げ、何重にも巻かれたテープの口元に乱暴に指を突っ込んだハルカが、けたたましい悲鳴をあげた。ごりっと嫌な音がして、ハルカが飛び上がるようにシンイチから体を引き離した。右手の人差し指から、血が噴き出していた。


「この、糞野郎」


 先が短くなった指先を呆然と見つめ、激しいショックが怒りに切り替わるまでのわずかな時間を、シンイチは無駄にしなかった。縛られた両足を苦労して胸まで引きつけ、体を揺すって勢いをつけると、小山のような体を下から蹴りあげた。

 ハルカは悲鳴を上げて後ろによろめき、本の残骸を踏みつけてさらにバランスを崩した。

 振り回した右肘が窓ガラスにぶつかって、派手な音を立て肉が切り裂かれた。それでも一度加えられた勢いは止まらず、開いていた窓から横幅のある体がカーテンを押し破って後ろに倒れていく。

 痛みと恐怖による咆哮をあげながら窓枠を掴んでどうにか踏みとどまった。右手側には割れたガラスがあり、窓枠を掴む手に突き刺さったが、落下の恐怖が痛みの感覚を上回った。両腕に一層力を込めて窓枠を握りしめ、危険な角度にのけぞって室外に飛び出した頭をゆっくりと元に戻す。窓枠が想定外の重みに耐えかねて耳障りな悲鳴を上げていたが、ハルカはどうにか上半身を室内に戻すことに成功した。

 全身から汗を滴らせ憤怒の顔で元凶に罰を与えてくれんと室内をめ回すハルカに、苦労の末に身をくねらせて上半身を起こし、しゃがんだ姿勢で身構えていたシンイチは、渾身の力を込めて、体当たりを食らわせた。口の中に残る鉄の味のする肉片を気にしている暇はなかった。


 ハルカが人間のものとは思えない絶叫を喉からほとばしらせた。


 ガラスの割れる音、金属音、カーテンがレールから引き剥がされる音、悲鳴、瓦が砕けて飛び散る音、悲鳴、地面に何かが激突した音、そして――静寂。


 これも、幻覚


 風を孕んだカーテンがふわり、ゆっくりと下降してきて、先に着地していたものの上に、覆い被さった。その後、カーテンが揺れることはなかったので、それは、はねを畳む余力すら尽きた蝶々の如く、見えなくもなかった。

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