第26話 蝶

「こんなことはしたくなかったけど、全部お兄ちゃんが悪いんだから」


 ハルカは書棚に歩み寄ると、肩の高さの段に並んでいた本を、太い腕を有効に使ってすべて床に払い落した。それから、手の届く範囲の本を掴んでは、投げつけた。シンイチを直接狙いはしなかったが、壁や床に当たって跳ねたいくつかは、芋虫のように体を丸めた彼の頭や背中を打った。

 シンイチは悲しそうに、いささか優雅さに欠ける蝶のように宙を舞い、はねを閉じる気力もなくこと切れたかのように、下向きに開いた頁をぐんにゃり折り曲げて動かなくなった愛書の骸を見つめていた。ダクトテープで口を塞がれ言葉を発することはできなかったが、もとより何も言うべきことはなかった。ハルカに触れられた時点で、それらはもう彼の愛情の大半を失っていた。

 兄の反応が期待通りでなかったことに逆上したハルカは、新たに手にした本の頁を毟り取って、投げた。さらに破って、本体を放り捨て、頁を細切れにして掌一杯になると上に放り投げた。紙吹雪ほど軽やかではなかったが、それは不規則な軌道を描きながら、一面に降り注いだ。


 愚かな妹。


 入れ物を破壊したところで、物語は死なない。それはたまたま古書店で見つけた太宰治の初版本だが、その時点で未読の作品だったし、状態が非常に悪く安値がついていたために購入した。勿論、後生大事に飾っておくなどということはなく、読んだ。読まない本を積み上げておく趣味は彼にはない。さりとて、文豪の初版本に特別な思い入れを感じないわけではない。自分にとっては記念の品だが、自分以外の人々、特にコレクターと呼ばれる人らにとってはほぼ無価値なもの。その小説自体は、未だに増刷が続く人気作だ。夥しいコピーが巷に溢れている。だから、お前の暴力行為には、なんの意味もない。まだ読める状態の本を、意図的に破壊するなど本来唾棄すべき行為だが、ダクトテープで口を塞がれ縛り上げられている彼にできることはなかった。


 シンイチの脳裏に、妹の泣き叫ぶ声が甦った。父親にきつく折檻されて、自室で泣いている妹。庭では、猛烈に煙が立ち上っている。黒煙は二階の窓からも見えたが、彼は、ベッドの上で膝を抱えて、窓の外にも、隣の部屋からの慟哭にも、注意を払わないようにしていた。


「汚らわしい!」


 怒りを帯びた父の声。やめてやめてと泣き叫ぶ妹。床に何かが倒れる音。乱暴にドアを閉め、階段を下りていく父。妹が「宝物」と呼ぶ雑誌や漫画が、次々と運び出され、庭の焚火に投入されていく。


 宝物?


 確かに、あちらは、同じものを再度入手するのは困難かもしれない。だがそれは「こんなおぞましいものを読んでいるからだ」という父親の言葉を翻すほどの威力も説得力も持たない。

 それを燃やしたぐらいで、状況が好転するものだろうか。シンイチはペシミストだが、合理主義者でもある。歪んだ執着は、強制によって矯正することは不可能なのではないか。妹と好みを同じうする人間の大半は、恐らく大層な悪事などに手を染めることなく人生を全うする善良な市民だ。


 自分はただ、自室のドアに鍵をかけられるようにして、あるいは一人暮らしをするなら大学の学費は自分で払えなどというのを父親がやめて、目が覚めた時に妹が自分のベッドでよからぬ行為に耽っているなんてことが、今後二度と起こらないでいてくれたらそれでよかったのに。燃やすなんて。歴史上、焚書が良い結末をもたらしたことがあっただろうか?


 だが、これはこれで、美しくなくもない


 毟り取られ捻じれた頁が、予測不能な軌道を描きながら、ひらひらと舞い落ちてくるのを、シンイチは呆けたように見つめていた。そう、蝶は炎を纏って二階の窓まで舞い上がり、黒煙を噴き散らすなどしないもの、ましてやきらきらと人工的な光を反射するなど。

 ハルカは二冊目、三冊目と手あたり次第、時には歯も使って、一心不乱に本を真っ二つに裂き、頁を破ったので、焼けた茶色や、クリーム色、光沢ある多色刷りが、部屋中を乱舞した。

 最後の一片がカーペットに降り立ったのを見届けたシンイチは、しばらくそのまま、じっとしていた。カーテンが揺れて、床の上のあちこちでかさこそと鳴った。そして、何もかもが死に絶えたような凪いだ空間において、机上のライトの光が行き届かない部屋の隅の暗がりで、肩で荒く息をつく妹が、幽鬼の如く凄まじい形相で自分を睨みつけていることに気付いた。

 これは終わりではなく、始まりなのだ。

 テープで塞がれた口で懸命に声を張り、かつての蔵書の残骸が散らばるなかで身をよじって逃れようとする兄の諦めの悪さに辟易したハルカは、大股に歩み寄った。肩を蹴って仰向けになった腹部を跨いで、脂肪で盛り上がった臀部を勢いよく落下させると、ぐふっというくぐもった音とともに、兄は抵抗を止めた。


 遠のいていく意識――このまま底の底まで沈んでいくのも悪くないような気がした。そうすれば、楽になれる。色んなことから――


「お兄ちゃんは、ほら、声が大きいから」ハルカは馬乗りのまま、ケラケラと腹をゆすって笑った。細く伸びた兄の体がその下でぐらぐらと揺れた。

「テープ剥がす時大変だね。でも大丈夫。禿ができてもわたしはお兄ちゃんを見放したりしないから、安心して」


 シンイチが身じろぎもしないのを見て、ハルカは兄の上から巨体を横にずらして床に座り込んだ。とりあえず、ズボンを脱がせて、逃げようという気を完全に喪失させよう。BLもたまに読んでおいてよかった。辱める手なら、いくつも知っている。


「あ、しまった!」


 ハルカは顔をしかめた。動画を撮ってあの女に送りつけてやるんだったのに。先ほど力いっぱい投げつけた兄のスマホは、書棚の隙間にでも入り込んだのか、見当たらなくなっていた。

 まあいい。どのみち破損して、起動しないかもしれないのだし。自分のものは、部屋に置いてきてしまった。しかし

 ぐったりとした兄の体は、後ろ手に厳重に縛られている。我ながら完璧な仕事ぶりだと悦に入りながら、兄の乱れた髪から紙片を取り除いた。


「ま、いっか。時間ならたっぷりあるんだから」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る