第25話 兄妹

「これ以上は、いくら議論しても無駄だろう。お前ももう大人なんだから、失恋したと思って、それを受け入れてくれ。兄としてなら、おれだってできるだけのことはしよう」


 手遅れになる前に。その言葉は、意図的に呑みこんだ。もうとっくに手の施しようがないのかもしれない、とシンイチは思う。こんな風に粉々に砕け散った家族でも修復が可能なのかどうか全く自信がなかったが、絆か呪いかはともかく、家族とは、それほど簡単に切り捨てられるものではないということは彼にもわかっていた。


 なにもかも、手遅れ、なのだろうか


 シンイチは無意識にズボンの前後のポケットに手をやり、シャツの胸ポケットを撫で、それから、ベッドの上にだらしなく放置してある上着をせわしなくまさぐった。

 ない。

 デスクライトをつけ、眩しさに目をしばたたかせた。外から丸見えだと気付き、カーテンを引いた。

 机上にも見当たらず、サイドテーブルや書棚、その他、スマホを置きそうな場所を確認して回ったが、そう広くはない、整然と片付いている部屋だ。彼の電話はどこにもなかったし、そもそもこの家で取り出した記憶もなかった。

 力なく再び椅子に腰を下ろし、デスクに肘を突いて重い頭を支えた。まったく、次から次へと。不幸というものには、底がない。ここが最下層であり、もうこれより下には行けっこないと思った矢先に、そんなことはないと思い知らされる。

 一体、どこで無くしたのか、とシンイチは働きの鈍い頭で考える。ここへ来る途中のタクシーの中か、いや、車内で電話を触った記憶がない。トーマのアパートだろうか。低いテーブルの前で、床に直に座った際に、酒瓶がわんさと置かれた端にでも置いて、そのまま忘れた。いかにもありそうなことだ。トーマなら電話を安全に保管しておいてくれる。

 しかし実のところ、最後に電話機を見たのがいつだったか、シンイチには思い出すことができなかった。

 無性に母親の声が聴きたかった。

 午後七時半を過ぎて、すっかり日が暮れている。シンイチが実家で暮らしていた頃、母親が一人で遅くまで外出することなどついぞなかった。勿論、その頃とは状況が違う。父親が留守がちで、娘が引きこもりなのは同じだが、一人暮らしの息子が突然帰ってくるとは予想だにしなかっただろう。母が自分の人生を楽しんでいて悪いということはないが、せめて、今どこにいるのか、安否を確認したかった。妹の言葉など一言も信じてはいなかった。あいつの虚言癖には困ったものだと、父親も苦りきっていたぐらいだ。それでも、心にのしかかっている重荷を一つでもいいから取り除きたかった。


 


 なぜそのような理屈がまかり通ると思うのか、そもそも他の面々とは誰なのか説明することはできなかったが、胸の奥がざわついて、彼を急き立てていた。

 家の電話を使うしかないのか。シンイチは溜息をついた。固定電話は、階段を下りた廊下にある。もはや、鍵のかからない自室に籠城していても無意味だった。

 椅子を回転させて腰を浮かしかけて、そこにまだ妹が立っているのを見つけたシンイチは驚きの声をあげた。


「なんだ、まだ居たのか」


 妹が右手にスマホを握りしめていることにシンイチは気付いた。よくあるモデルで、目立った特徴があるわけでもない。だが、シンイチは顔を輝かせた。


「お前が持ってたのか」


 安堵のあまり笑みさえ浮かべた兄を、ハルカは信じられない気持ちで眺めた。あれほどへりくだって、最大限の譲歩を許した妥協案――同人誌やゲームを捨てる覚悟まで表明したのに。宝物を放棄するなど、あれは、実質的な敗北宣言だった。そうまでしてやり直しを求めた妹を非情に拒絶しておきながら、電話機の心配などしているとは。


 救いようのない兄だ。


 だが自分は冷淡な兄とは違う。どんなに人でなしで情けない兄でも、見捨てたりしない。

 スマホを取り返そうと手を伸ばしてきた兄の頭頂部を見下ろしながら、電話機を振り上げ、兄の左側頭部に叩きつけた。

 兄は笑顔の残滓を顔に貼りつけたまま、椅子から崩れ落ちた。強化フィルムの賜物か、ヒビ一つ入っていない液晶画面を見て苛立ちを募らせながら、ハルカは書棚に向かってスマホを投げつけた。がしゃんと派手な音がしたので、今度は割れたらしい。

 床に這いつくばり、ずきずき痛む頭を押さえたシンイチは、外れかかった眼鏡をかけ直し、底意地の悪い笑みを浮かべ自分を見下ろす妹が左手に握りしめているものを見た。それは、ダクトテープのロールであった。腹の底から湧き上がってきた恐怖が甲高い悲鳴となって喉から溢れ出た。


「うるさい」


 と一声、ハルカは這いつくばったまま逃げようとする兄の頭頂部にダクトテープで一撃を加えた。

 脳内で爆弾が炸裂したような衝撃に、兄は脱力し床に伸びた。意識はあるようだが、歯を食いしばり瞼を固く閉じて呻き声を上げている。すぐには動けないだろう。眼鏡はかろうじて鼻にひっかかっていた。それもばきばきに折ってやりたい衝動にかられたが、これから起きることをはっきり見せてやらなければと思いとどまった。

 カーテンの閉まった室内は、デスク上の電気スタンドが灯っているだけだったが、作業をするにはそれで十分だし、照明は控え目な方がムードがあってよいと判断した。

 ハルカは兄の華奢な体を難なく仰向けにするとダクトテープを二十センチぐらいの長さに千切った。バリバリビリビリいう音に薄目をあけ、叫び声をあげるかのようにだらしなく開いた兄の口に、千切ったテープを張りつけた。テープの下で口がもぐもぐ動いているのをを見て、新たに引き出したテープを上から貼りつけ、頭の周りをロールを何周かさせて、厳重に口を塞いだ。

 さらに、ひょろひょろとした体を軽々とうつ伏せにして腰の辺りに跨り、弱々しく抵抗する両腕を後ろ手にねじりあげ、手首合わせシャツの上からテープでぐるぐる巻きにした。次いでばたつく足首もズボンの上から縛り上げた。念のために膝も。


 ズボンは、全部脱がせる必要はないから、これでいい。


 成す術もなく転がされ、仰向けになった兄の瞳は、恐怖のために瞳孔が開き、真っ黒になっていた。

 ハルカは立ち上がって自らの仕事ぶりを吟味した後、満足そうに歯をむき出して笑った。

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