第24話 兄妹

 何ともいえない不快な臭いのする煙が部屋に充満していた。

 電気のついていない室内は、窓の外からの頼りない街灯の灯りで仄かにシルエットを浮かび上がらせている。

 シンイチは目の前のデスクの上に散らばる乾燥した葉っぱの残骸や、燃え残りの紙巻き煙草の吸殻を見た。左手の人差し指と親指の先に赤くぶよぶよした火傷のあとが残っていたが、指先で押してみてもなんの感覚もなかった。頭は霧がかかったようにだる重い。


 震える手で、理不尽に小さなペーパーの上に適量も定かではない乾燥葉っぱを載せ、不器用に紙を巻き、どうにか火をつけた。それから


 その不格好に巻きあがったものを口にした記憶はなかった。だが仮に直接は吸引していないとしても、これだけ煙が充満した部屋の中に居れば、吸ったも同然であろう。もはやトーマにあれこれ言う資格はなくなったと自嘲気味に僅かに口の端をあげる。

 のろのろと立ち上がり、窓を開けた。夜のひんやりした空気が静かに流れ込んできたが、それが心地よいとか肌寒いとか感じることはできなかった。眩暈がするのでまた椅子に戻り、座った。閑散とした夜道、黒い車、黄色い帽子、白い裸体、そんな断片的イメージが浮かんでは、素早く消えた。

 シンイチの体は小刻みに震えていた。


 あんな、ものは、本当、ではない。クスリが、見せた、幻覚。


「お兄ちゃん」


 背後から声をかけられても、シンイチは両手に顔を埋めたまま動かなかった。動けなかった。肩に手をかけられても、振り払わなかった。

 手の甲で頬を拭ってから、ゆっくりと椅子を回転させ、妹と向き合った。妹は驚いたように目を見張ると、一歩後ろに下がった。

 背中を丸めて椅子に座る姿は、まるで短時間で十も歳をとったように萎びている。常に神経を尖らせ、妹の姿を捉えるや一目散に逃げていくいつもの兄とは明らかに違っていた。

 変わり果ててしまった姿の中に、昔の妹の面影を呼び起こそうとシンイチは肉の中に埋没気味の小さな目を見つめた。

「わたし、お兄ちゃんのお嫁さんになる」と言われたときには、正直言って嬉しかった。だがそれは勿論、父親と結婚すると言い張る幼女にでれでれと情けない顔をする父親の喜びに等しく、その時ハルカは幼稚園児で、シンイチは小学生だった。


 なぜ兄と妹のままではいけないのだろうか


 という冷静な疑問を幼い妹の前で口にしないだけの分別と思いやりは備わっていた。小学生のシンイチには、自分の結婚について具体的に思い描くことができなかった。女の子は父親に似た男性を、男の子は母親に似た女性を好きになるという俗説を耳にしても、母のことは好きでも、お母さんのような人と結婚したいのかどうかは、わからなかった。そもそも、結婚てなに? と考える程度には彼も未熟だった。気になる同年代の女子の一人ぐらいはいたが、そこから一足飛びに結婚に結び付けることはできなかった。だが妹は、幼い頃より一貫していた。

 顔がくしゃっと潰れた小型犬のようなつぶらな瞳が、眩しい光の中で恐怖に歪んでいた姿が一瞬頭をよぎった。しかし


 無理だ


 今シンイチを見つめ返すその目は怒りのせいなのか、異様な興奮を帯びて光っていた。太った人間の中には痩せた人間が入っていて「ここから出してくれ!」と叫んでいるのだとホラーの王様キングは言ったが、あのぶ厚いボディスーツの中に、かつての妹、彼を見つけて喜びに満ち溢れた、純粋に兄としての彼を愛していた頃の愛くるしい小動物のような妹が囚われているとは思えなかった。


「全部、あんたのせいだからね」


 丸々とした指を兄の目前に突き付けながら、妹は言う。いつ以来か思い出せないほど久しぶりに、兄と見つめ合っていた。その顔は強張っていたが、いつもの不快感からではなく、鎮痛な悲しみのようなものが窺えた。

 哀れみ?

 一瞬の狼狽は、すぐに怒りにとってかわった。一体、誰のせいでこうなったと?

 

「お母さんがおかしくなったのは、お兄ちゃんの友達のアレをお母さんが見つけてからなんだよ。元々お父さんが帰って来なくなってから、まあまあおかしかったけどねえ。アレに手を出して、完全に、ぷっつんいっちゃった。今頃、どこで何してるんだか。外国人の売人とでも密会してるのかもねえ。それとも、お父さんへの面当てに、ホストにでも入れあげてるのかな」


 兄の眉間の皺が深くなったのを見て、ハルカは大いに溜飲を下げた。

 母親をいたぶるのは、それが兄の泣き所だからだ。あんな女、息子をアバズレから守ることさえしなかった、母親失格のダメ女。

 ある時から、母はハルカを叱ることをやめた。それは、高校を卒業することができず結局中退した辺りからだっただろうか。引きこもり生活の不摂生のせいで体重が倍増したハルカがうるさい蠅を追い払うように振り回した手が母の頬に当たり、ぴしゃり、と派手な音を立てた。


 たかがあれしきのことで


 わざとではなかったが、母はあの時以来、娘の将来について一切諦めたような気がする。ハルカが小遣いを寄越せと言えば黙って財布を開き、冷蔵庫には、黙っていてもハルカの大好物の揚げ物やスイーツなどが常に補充されるようになった。野菜を食べろとか、もっと身なりに気を配れとか口やかましいことも言わなくなった。

 無責任ではないか

 母親のくせに。娘がどうなってもよいのか。ハルカの怒りは、兄を含めたこの世のありとあらゆるものに向けられていた。自分を除いた、全てに。


 今日、こうして、兄が何年かぶりに家に戻って来たのは、兆しサインだ。


「ねえ、いい加減認めなよ。あの日、お兄ちゃんがあんな大騒ぎしなければ、みんな幸せに暮らせてたはずだって。別に、お兄ちゃんに表向きの彼女がいたって、あたしは我慢したのに。偽装カップルってやつ。あの女とたまに寝て、子供を作ってもいい。周りを欺くためだからね。結局あたしたちは、世間に顔向けできない関係なのはわかってる。でも、こんなことぐらい、昔のお金持ちとか、貧乏人の間でも、ちっとも珍しくないことなんだよ」


 兄の顔が歪み、左の頬が痙攣を始めた。


「今からでも遅くない。お兄ちゃんさえ我慢すれば、全部丸く収まるんだよ。そうしたら、あたしはまた勉強を始めて、大学に行ってもいい。ダイエットもする。漫画もゲームも、全部捨てたっていい」


 どうだ、と言わんばかりに期待で頬を紅潮させた妹を、兄は呆けたような顔で見た。身じろぎして椅子が軋んだ音を立てた。正気の沙汰ではない。きっと、自分も、妹も、頭がおかしくなっているのだ。


「あたしとお兄ちゃんが仲直りすれば、お母さんだって、変なクサを吸わなくて済むようになる。そうしたら、昔みたいに、家族三人で暮らせるようになるよ。家族のいいところはさ、尻軽なカノジョなんかと違って、深い絆で結ばれているってこと」


 そんなものは、絆ではない、と兄は思う。目に見えない太い鎖を、首の回りに巻きつけられたような気がした。

 それは、呪いだ。

 もはや、少女時代の気の迷い云々では誤魔化せない。兄は、頼みの綱にしていた細い糸が完全に断ち切れられたのを感じた。

 もはや、いかなる話し合いも無駄だと彼は悟った。太った人間の中には、ぶよぶよした脂肪が詰まっているだけだ。


「誰かが生贄のように体を差し出すことで成り立つ幸福、確かに、一時代前なら、あったかもしれない。戦中戦後のやむを得ない事情で、あるいは地方の寒村の過酷な状況で、生きていくためにやむなく、そんなことなら、いくらでもあったかもしれない」彼の書棚に並ぶ書物にもその手の話題は事欠かない。昭和の文豪ならばネタのために姪と愛人関係になりそれを私小説という形で発表することさえ憚らなかった。その手の道徳心の欠如や悪徳放蕩は、虚構内ではありきたりとさえ言える。

「だけど」


 シンイチは、妹から顔を背けずに、静かに語った。顔面の痙攣は抑えようがなく、放置するしかなかった。筒井康隆曰く、これは発狂の前兆だったか。


「おれは、この二十一世紀に、そんな自己犠牲精神を発揮するつもりはない。お前がどんな詭弁を弄しようとも、妹となんか、できない。あたりまえのことじゃないか」

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