第23話 事故現場

 すべては、ほんの数秒間の出来事だった。

 シンイチは電信柱の陰からよろけ出た。

 目の前に広がるのは、ギャング同士の抗争あるいは戦争でも勃発したのか、という惨劇。だが、散乱する壊れた人形のような小さな体は、子供たちのものだ。

 車が民家の壁に激突した際に壁とバンパーの間に挟まれて頭部が潰れているのは、小さいハルカ。

 跳ね飛ばされて車道の反対側まで転がって首や手足が奇妙に捻じれたまま横たわっているのは、トーマ少年。

 車体の下から覗いている、片方が千切れた足は、トーマの部屋に居た女子大生たちのどちらかだろう。

 ランドセルを背負うには幼過ぎた幼女は、頭と胸部を潰されて歩道のアスファルトと半ば同化している。


 辺り一面に夥しい血が流れていた。


 十人。ほんの数秒で断たれるには、多過ぎる命の数。しかし、全員子供だ。彼らの小さな体から、これほどの血が流れるとは驚きであった。帽子とランドセル、その中から飛び出した教科書や文房具、縦笛等が、子供たちが散らかした玩具ででもあるように、血の海に浸かっている。


 おぼつかない足取りのまま、じわじわとアスファルトの上で広がり続ける血溜まりの端にたどり着いたシンイチは、がっくりと膝をついた。誰も、何も、ピクリとも動かない。あれだけの激しさで車に衝突され、轢かれ、コンクリートの壁や地面に叩きつけられたのだから、助かる見込みはなかった。

 壁に激突した拍子に半回転して進行方向とは逆向きに停車した車は、フロント部分が大破し、ガラスには放射状のビビが入っていたものの、運転手は高級車の頑健さとエアバッグのお陰で命に別状はない様子だった。しかし、その表情たるや、未だにトリップ状態から抜け出せないようで、運転席から自力で降りることもできず、そもそも何が起きたのか全く理解していない様子だった。

 地面に膝をついたシンイチは、苦しそうに肩で息をしながら、ゆくりと広がり続ける子供たちの血で赤く染まった――しかし光の乏しい現場では、それはむしろ漆黒のタールのように見えた――アスファルトに片手をついて、ようやく自分の体を支えながら、ただ一人この災厄を逃れ、うなだれたまま立っている子供を指さした。


「お前」

 指さされた子供は動かない。

「お前がやったんだ」


 肺に空気を取り込むことが困難で、一言発するためにも絞り出すような労力が必要だった。シンイチは片腕だけでは体を支え切れなくなって、指さしていた手を下ろした。それでもどんどん頭が下がっていき、もうじき血溜まりに額が付きそうだ。もう既に、じわじわと迫りくる血はシンイチの膝を濡らしている。

 黄色い帽子は微動だにしない。だが、甲高い声がそっと聞こえてきた。


「そうだね。ぼくのせいだね」

 感情のこもっていない、機械のような声。

「みいんな、ぼくのせい」

「なぜだ」


 血だまりの中にひれ伏したシンイチは、必死で言葉を絞り出した。


「どうして、おれのせいなんだ」

「まだそんなこと言ってるの」少年の声は冷ややかだった。


 水が跳ねた


 反射的に音のしたほうを見ると、黒い血溜まりの中に仰向けに倒れている少女の姿があった。水溜りに放射状に広がった明るい髪の色は、アヤだ。あり得ない角度に捻じれて千切れかけた腹部からは内臓がこぼれ落ちており、かつて人間だった様相を早くも失っていた。それは既に、空っぽの器でしかないはずだった。だが

 動いた。

 千切れかけた胴体の下半身部分をかろうじて包む布地の下で、何かが蠢いていた。


「いやだ、やめてくれ」シンイチは泣き声をあげた。

「だめだよ」

「うそだ」

「うそかどうか、自分の目で見るんだね」


 少女アヤの一方が奇妙な方向に捻じれた細い足の間から這い出てきたのは、どうやら四肢の役割を果たすらしい突起をのたくらせて前進する微小なモノ。タツノオトシゴをグロテスクに太らせたような醜い容貌の、なにか。

 だがそれは、少女のスカートの中へと続く細いくだのようなもと繋がっていた。そいつが醜い皺の寄った丸っこい胴体にくっついている四つの突起を必死に動かしながら這い進むうちに、体がむくむくと大きくなっていく。

 だんだんヒトの形に似てくるそれを、シンイチ――血だまりにひれ伏しそうな大人の彼と、黄色い帽子の子供と二人共――は、眼窩からこぼれ落ちそうなほど目を見開いたまま、それがぎこちない動きで匍匐ほふく前進するのを凝視していた。血溜まりに浸る前から赤黒く染まり、白いぶよぶよしたものがあちこちにへばりつく皮膚からは、薄く湯気が立ちのぼっている。


「ああ、なんてことだ」シンイチが呻いた。


 少女のアヤの脚の間から伸びている管は、今では二十センチほどにまで成長し四つん這いになったそれの首に巻き付いていた。それは、頭部の大きさに比べて貧弱で未発達な細い手足を懸命に動かし前に進もうとするのだが、首に巻き付いている管が限界の長さに達したせいで阻まれている。


「たった一回ぐらい、どうってことないって思ったんだ。眠るのが怖かったから」甲高い声で少年が言った。


 血溜まりを這いずる皺くちゃの顔に、ぽっかりと大穴が空いた。首に食い込んだ管がぴんと張りつめていた。まだ一本の歯も生えていない口腔内から、だらりと舌が垂れ下がった。

 ほぎゃあと一声上げるとそれの全身からみるみる力が抜けていく。水溜りの中に突っ伏したまま、動かない。もう二度と起き上がることはない、それは明らかだった。


「ぼく、取り返しのつかないことをしてしまった」


 そう言い終えると、糸が切れたように膝からくずおれて、少年は血の海のなかに突っ伏した。少年自身の口や目、耳から溢れ出た血が、既に地面を濡らしているタールの艶を帯びた黒に混ざり込む。

 荒い息をついて血溜まりに額を浸したシンイチの脳裏に湧き上がって来る場面――


 土足で部屋に乗り込んで、凍り付いた裸の男の顔を思い切り蹴りつけ、何度も何度も踏みつける。

 それからネクタイを引きちぎるように外して、悲鳴を上げ続ける女の体に馬乗りになり、細い首にネクタイを巻き付け、ぐいぐいと締め上げる。

 女の白く細い指がふわりふわりと宙を舞うたびに、照明の光を反射してキラキラと光を放つ、蝶々。思った通り、よく似合う。心の奥底でそう呟く声は、遠すぎて誰の耳にも届かない。

 虚空で二、三度円を描いて、ふわりと床に降り立った蝶は、ほんの少し、踊るように小刻みなステップを踏んだが、僅かに翅を震わせたあと――

 

 ぐるりと裏返って、動かなくなった、緑がかった瞳。 


 右手側からどさりと音がした。残り少ない力を振り絞ってシンイチは重い頭をもたげた。

 運転席のドアが開いており、どうにかシートベルトを外し、エアバッグとシートの間から真っ逆さまに転げ落ちたらしい運転手が、下半身は車内に残したまま、奇妙なアングルに首をねじ曲げて外に飛び出していた。白目を剥いたその目は、もう何も見ていない。

 先ほど事故の直前に目撃した姿より更に歳をとり、干からびて縮んだ体は一回りも二回りも小さくなったようだった。かつての面影はもはやなく、性別すら判別し難くなった運転手は、逆さのまま両手を万歳のポーズでだらりと下げていた。骨の上に干からびた皮が巻き付いているだけの細い指から、何かが音を立てて滑り落ちた。血溜まりに侵食されていないアスファルトの上で小さく跳ねて、せわしなく光りを反射しながら、乾いた音を立てた。

 それは、ダイヤとルビーをあしらった、特徴的デザインの指輪。皺くちゃの皮だけになった運転手の顔と指輪を交互に凝視していたシンイチの瞳から、赤いものが一筋頬を伝い流れ落ちた。


 お母さん


 血溜まりに突っ伏す前に彼の口から最後に漏れた息の下で呟かれのは、確かにその言葉のようだった。

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