5 一条家(後)


 親父さんは話し始めた。

「実は、わたしは再婚なんです。過去に離婚経験がありましてね」

「あ――」

 意外だった。家族は、すべてにおいて順風満帆、何のつまづきも経験していないと勝手に思っていた。

「――入庁して四年ほど経った頃です。上司の薦める相手と、特に拒絶する理由がないという安易な気持ちで結婚しました。上司に気に入られると取り立ててくれるんじゃないかという幼稚な出世欲もあって」

 親父さんはまるでその頃を懐かしむように言った。お母さんもみちるも(そしておそらくは俯いている弟くんも)、穏やかな表情で聞いている。どうやら家族にとってさほどのタブー案件じゃないらしい。

「相手はその上司の親戚で、なかなかの良家のお嬢さんでした。私の実家もまぁ――一応はそれなりの家でしたから、釣り合いとしてはちょうどと言ったところでした」

 そこで弟くんがふん、と笑った。親父さんが黙ると、彼は緩々と顔を上げ、食事の手を止めて言った。

「いつものことだけど、その『なかなかの』とか『それなりの』ってのが、曖昧すぎて気持ち悪いと思っただけ」

 親父さんは表情を変えなかった。暁輝ちゃん、とお母さんがやんわり制し、みちるははぁっと大きくため息をつく。どうやら彼のこの態度はこれが初めてではないらしい。

 すると親父さんは言った。「些細なことでも一つ一つクリアに表現していたら、情報が多すぎて論点がぼやけるだろう。それに、直接的表現を避けることで相手にニュアンスを察してもらう、という意図もあるんだよ」

 親父さん、偉いなあ。子供の他愛もない“難癖”にもちゃんと対応してあげるんだ。俺の親父なら、「そんなところで話の腰を折るな、場を弁えろ」と一蹴して終わりってとこだろう。

 すると弟くんはなおも言った。

「そういう曖昧さが日本人の美徳なのかも知れないけど。でもデリケートでシビアな話をしてるのに、そこをふわっとされたら、どうにも納得しにくいよ。まぁ、納得するもしないも、聞く側の自由だからいいんだけど、それは分かっておいた方がいいと思うな。あと、お父さんはこの話に限ったことじゃないよ」

 そして彼は俺を見ると、

「ごめんなさい。話の邪魔をするつもりはないんだけど」

 と言ってひょいと頭を下げ、また食事に戻った。

「あ、いや――」

 俺が返事に困っていると、お母さんが申し訳なさそうに首を傾げた。

 ――なるほど。みちるの言うとおり、なかなかのひねくれ者だな。だけどちょっと面白いかも――

 やがて親父さんが話を再開した。

「結婚生活は僅か一年ほどで終わりました。原因は、相手の浮気です。と言うか、本気の恋愛を忘れることができなかったのです」

 親父さんは少し悲しそうに俯いた。「相手は、大学生のときに海外留学をしてましてね。そこで知り合った現地の男性と恋に落ちて、結婚の約束をしていたそうです。男性はまだ修行中の料理人でした。ところが彼女の両親の猛反対に遭い、無理やり別れさせられた過去があって――」

 元嫁さんは親父さんとの結婚後も密かにその男性とずっと連絡を取り合っていたようだ。親父さんは仕事が忙しくてそのことに気づいていなかった。やがて一年が経とうとする頃、親父さんは元嫁さんからすべてを聞かされ、離婚に同意したそうだ。元嫁さんはその後、半ば“駆け落ち”のような形で男性の祖国へ渡ったという。

「いわゆる相手の“不貞”が原因だということで、結婚を勧めてきた上司にも謝られましたが」親父さんは言った。「私にも責任の一端はあると思いました。相手の思いを察することが出来なかったのだから」

 どうなんだろうなと俺は思った。要するに、元嫁さんには最初から親父さんへの気持ちがまるで無かったってことだ。だったら、そこまでの責任を感じる必要はないような気がするけど。

「上司の勧める相手なら、お互いに釣り合いが取れているんだろうなどと、安易で思い上がった気持ちだけで生涯の伴侶を決めるなんて、本当に馬鹿でした。それでもう、自分は結婚などしないでおこうと決めてたんですよ。それまで以上に仕事にのめりこんで、不摂生極まりない生活を続けて――ある日気がついたら、体脂肪率が二十九%、BMIも二十六を超えていました。三十歳にもなっていないのに、完全に肥満、メタボです」親父さんは苦笑いを浮かべた。「そう言えばスーツのズボンがきつくなったななんて、分かっていたくせにやっと気づいたふりをして」

「芹沢さんは体脂肪率とか、測られます?」お母さんが唐突に訊いてきた。

「……たまに、ですけど」

「どれくらい?」

 え、俺の体脂肪率、今関係ねえよな。あと軽くセクハラになってるけど。

「さあ……十一とか二とか、それくらいですかね」

「お母さん、セクハラよ」みちるが言った。遅いよ言うの。

「あら、じゃあのお父さん、芹沢さんの三倍近いわね!」

 お母さんは親父さんに振り返ってうふふと笑った。天真爛漫だな。と言うか、え、『あのとき』って――?

 そう俺が疑問を持ったのを見透かしたように、親父さんは笑って俺に頷いた。

「この女性ひととは、わたしが大慌てで通い始めたフィットネスジムで知り合ったんです。インストラクターでね」

「あ、なるほど」

 だからこんなに若々しいのか。他人の体脂肪率にも興味あるわけだ。

「まあ、そこでその――“意気投合”しましてね。でもインストラクターと会員の恋愛はご法度と言われていましたから、彼女は悩んで――ならば、と、翌年結婚したというわけです。同時に私の担当からは外れましたが、みちるを産む前の年まで勤めていました」

 そこでお母さんが話を引き取った。

「大学で食物学を勉強して管理栄養士の資格を取って、そのままその大学の病院に勤めるつもりだったんですけどね。昔から身体を動かすのが好きで、インストラクターの仕事にも興味があったんです。インストラクターは、食生活を含めた健康にまつわる知識が必要ですから、管理栄養士の資格も活かせますし。それで、二年生の頃にはジムでアルバイトを始めて、いろいろ勉強するうちにすっかりそっちの仕事に魅力を感じちゃって。卒業後はそのままインストラクターになってました」お母さんは明るく笑った。「みちるは、食べることが大好きでしょう? わたしの影響なんですよ」

 好きを通り越してもはや食欲と心中する勢いだけど。そう言えば――

「みちるもジムに通ってるよな」

「うん。仕事が忙しくてあんまり行けてないけど」

「私と妻が知り合ったジムです。私たちも通ってます」親父さんが言った。

 ――へえ、そうなんだ。ってことは弟くんも――

「僕は通ってません」

 弟くんは先まわりするかのように俺に言った。「家族全員で同じジム通いなんて、気持ち悪い」

 俺は造り笑顔で頷いた。そりゃそうだ。

 親父さんは言った。「――私やみちるのいる職場には、わたしの最初の結婚のときのような考え方をする人間が多くいることは事実です。実際、その方が結婚生活も仕事も上手くいくのかも知れません。でも、少なくとも私はそれは違うと分かった。釣り合いとか、相応しさとか、そんなものは必須条件じゃない。当たり前のことですが、お互いの気持ちが一番大切です。そこのバランスこそ取れているべきだと思っています」

 そして親父さんはお母さんと顔を見合わせると互いに頷き、俺に振り返った。

「芹沢さん、そこは信頼して大丈夫なんですね? 正直、こうも結婚を急ぐことにいささか不信感は拭えないのですが」

「大丈夫です、約束します。無理を言って申し訳ありません」俺は答えた。「もしも約束が果たせないようなことがあったら、お父さんの力で、全力で僕を潰しに来てください」

 あはは、そんなことはしませんよと親父さんは笑ったが、そのくせ大きく頷いていた。やる気満々だ。

「みぃちゃんも、覚悟してるのね?」お母さんがみちるに言った。

「うん。大丈夫よお母さん」みちるはちょっとベソをかきながら言った。

 それならよかった、とお母さんは両手を胸に当てた。そして俺に振り返ってよろしくお願いしますねと頭を下げた。俺もそれに答えた。

 すると親父さんは暁輝、と弟くんに声を掛けた。弟くんは顔を上げる。

「おまえは何か言っておきたいことはないか? あるのなら遠慮なく言いなさい」

 弟くんは肩をすくめ、手元のスマホに視線を落とした。どうにも退屈そうだ。そんなことわざわざ発表するなんて気持ち悪い、とか言うんだろうなと思っていると――

「芹沢さん」

 え、なに? なんかあるのかよ?

「あ、はい」

「うちの姉ちゃんは、たぶん今でもそうだと思うけど――お嫁さんにしたら、もっと大変だと思いますよ」

「え? なんで?」

 分かってるけど、ここは分かってるよとは言えない。隣でみちるもなによ、と口を尖らせる。

 すると弟くんははあっ、と大きくため息をつくと、俺をまっすぐに見て言った。

「昔から正義感がやたら強くて、だから警察官になりたいって言ってて。そのくせ世間知らずのお嬢様育ちで、上から目線。しかもずっと勉強ができたから、東大出て官僚になって――相変わらず、高飛車でさ。なのに涙もろくて、すぐに泣く。とにかくもうサイアク」

「暁輝――」みちるは眉を下げた。

「めちゃくちゃ迷惑なんだけど、それだけ正直に生きてる人なんだなって。だから、結婚してもそのまま正直でいられるようにしてあげるのが結局は周りの平和が保たれると、俺なんかは思ってて」弟くんは肩をすくめた。「そしたら、姉ちゃんももっと周りのために頑張れる人だから、芹沢さんも幸せになれるんじゃないかなって思います」

「――分かりました」

「すごく手がかかるけど、素直で真っ直ぐな人だから――裏切らないであげてくださいね」

「はい」と俺は頷いた。

 すると弟くんはふふっと笑って、みちるを指差して俺に言った。

「――ほら、もう泣いてんじゃん」



 こうして無事に会食は終わった。一条家への挨拶は完了だ。

 店の前で三人と別れ、俺とみちるは次の約束の場所へと向かった。

「――五分過ぎてる。もう来てるかしら」

 みちるは腕時計を見ながら言った。

「遅れねえだろ。上司命令なんだから」

「そうよね」

 みちるはうん、と頷いた。「二十分で済ませましょ」

 俺は一昨日会ったときの二宮を思い浮かべた。

「……無理だと思うけどな」


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