6 二宮


 中華レストランの入っていたビルのすぐ隣のビルにあるデリカテッセンで、アイスコーヒーを前にした二宮は現れた俺とみちるを見て一瞬だけ目を見開いた。俺がいるのが意外だったことは明らかだ。そしてその直後から、僅かに緊張が緩んだのも分かった。仕事絡みの用件で内密に呼び出されたのではないことを察したからだろう。

 ただし、俺を見る目は相変わらず警戒の色に染まっていた。一昨日、みちるに内緒で俺と会い、俺の過去を暴いて糾弾したことをここでバラして抗議しに来たとでも思っているのだろうか。

 ――違うんだよ、二宮。でもその代わりに超びっくりさせることになるから。


「お疲れ様です」

 席にやってきた俺たちを二宮は立ち上がって迎えた。そして俺に向かって「ご無沙汰してます」と言った。一昨日のことはここでは伏せましょう、という意味だ。こっちもそれは分かっている。

 店のスタッフが俺たちの分のお冷やを運んできた。ご注文は、と訊くスタッフにみちるは「決まったら呼びます」と答えた。スタッフは頷いて去って行った。

「コーヒーでいいじゃん。時間ないんだから」俺は言った。

「飲食店でそういう安直な回答はしないことにしてるの」みちるはメニューを開いた。「いろいろ工夫してメニューを提供してくれるお店に対するリスペクトが足りないわよ」

「……今、要る? そのリスペクト」

 俺は二宮に振り返った。二宮は苦笑いしただけだった。

「出したり引っ込めたりするものじゃないわよ、リスペクトの気持ちは」

「あの警部、実際僕にはあまり時間がありません。その――用件次第ですが、できるだけ早めに済ませていただいた方が」二宮が腕時計を見ながら言った。「歯医者の予約が入ってるって言って出てきたんで。夕方には戻らないと」

「え、その用件で夕方までって、長くね?」

「僕の歯並びはちょっと厄介で、子供のころから通っている地元の歯医者でないとダメなんでって言いました」二宮はてへっと笑った。「鎌倉かまくらまでの往復なら、そのくらいになるでしょ」

「……嘘丸出しだな」俺はため息をついた。

「分かったわ」みちるは頷いてメニューを閉じた。「レモンとバナナのパンケーキに、アールグレイ」

「……やっぱパンケーキだ」

 二宮は呟いた。そしてすぐ後ろを通り過ぎたスタッフに声を掛け、みちるのオーダーと俺のブレンドコーヒーを注文し、自分もアイスコーヒーをお代わりした。

「――で、僕に何の用件でしょう? お二人お揃いで」

「その前に、頼んでたものは買ってきてくれた?」みちるが言った。

「もちろんです」

 二宮は言って隣の席に置いた紙袋を取り、中から綺麗に包装された二つの包みを出した。「崎陽軒きようけんの焼売三十個入り――真空パックのやつ。それと、フランセのミルフィーユの詰め合わせですね。こっちは二十四個」

「ありがとう。助かったわ」みちるはにっこりと微笑んだ。

 二宮は包みを紙袋に戻し、みちるに渡した。みちるはありがとう、と受け取った。

「――これで足りるかしら」みちるは俺に訊いた。

 いいんじゃないかな、と俺は答えた。うちの家族だけだったら、それで十分だ。ただし従業員さんたちも揃っていたら、悪いけどそれじゃ足りない。でも手土産にはそれなりの適したサイズってもんがあるだろうしな。

 みちるは用意していた代金の入った封筒を二宮に渡した。二宮は少し怪訝そうに会釈してそれを受け取った。

 そこで注文していた品が運ばれてきた。みちるの前にはうず高く盛り付けられたバナナとレモンスライスの飾られたパンケーキが置かれ、みちるはまたきらきらと瞳を輝かせた。

「ついさっき中華のコース平らげたばっかなのに、よくそんなの食えるな」俺は言って手で口元を押さえた。「見てるだけでこみ上げてくる」

「これはデザート」

 みちるはナイフとフォークで器用にパンケーキを切り分けた。「別腹よ」

「デザートならさっきもあったじゃん。杏仁豆腐」

「あんなのデザートに入らない」

 俺はやれやれと腕組みして椅子にもたれて二宮を見た。二宮はひょいと肩をすくめ、そして言った。

「それで、そろそろ用件を」

「ああ悪い、お互い時間ねえんだよな」

 そう言うと俺は上着の内ポケットから封筒を取り出し、中の婚姻届を開けて二宮の前に置いた。

「え?」

 二宮はまさに、鳩が豆鉄砲を食ったようにきょとんとして用紙を眺め、それから緩々と顔を上げて言った。

「……あの、どういう――」

「結婚するんだ」俺は早口で言った。「で、証人として署名してくれないか」

「は?」二宮はまだ唖然としている。「……何かのドッキリですか?」

「それな、分かるよ。でも違う」俺はちょっと笑った。「大真面目なんだよ」

「け、結婚って――」

「唐突すぎるだろ? けどまぁ、いろいろ考えて、そういうことにしたんだ」

 二宮は目を細めて俺をじっと見た。いったい何を企んでる? という目だった。何しろたった二日前までの俺は、遂げたところで救われない復讐心に十年にも渡って支配されているだけの人間だったのだから、これは当然の反応だ。

 すると二宮は黙々とパンケーキを食べているみちるに視線を移した。みちるはその視線を感じ取ったらしく、しかし食べる手を止めずに言った。(そんなに時間が無いのなら、食べなきゃいいのに)

「二宮くんには、何かとわたしたちのことを気にかけてもらってるから――適任だと思って」

 二宮はさらに驚いたように目を見開いた。マジなのかよこれ、とでも思ったのだろう。

「……警部、仕事辞めるんですか?」

「辞めないわよ」とみちるはにこやかに答えた。「新チームを発足させたばかりじゃない」

「ってことは――」

 と二宮は俺に振り返った。俺は頭を振った。「別居婚だ」

「……大丈夫なんですか?」

「何が」

「だってその……」

 二宮は言い淀んだ。二日前のことをここで言うわけにもいかず、しかし彼にはあのとき自分が指摘した俺に対する懸念材料が結婚という展開で拭えるはずもなく、むしろさらに俺への疑惑が膨らんだことは明らかだった。

 ――で、混乱の結果としてこんな着地点に至ったらしい。

「芹沢さん、浮気しますよ?」

「しねえよっ」俺は即答した。「諸々の疑念をそこへ集約させてんじゃねえ」

「だって、一緒に暮らさないんだったら今と変わらないじゃないですか。しかも遠距離。自由ですよね。言わなきゃ周りも気付かないんじゃないですか?」

「気付くよ。指輪とかするし」

「あ、逆に最近は指輪してる男性の方がモテるらしいですね」

「そんなの都市伝説じゃねえの?」

「おまけにそのルックス。もはや無双ですよ」

 ――コイツ。本当の疑念を口にできないとあって、些か力業ちからわざ的なこっちの決断を、雑にイジって来やがったぞ。

「いいなぁ。僕が芹沢さんだったら結婚なんて面倒なことしないで、一生独身で通しますけどねぇ」

 二宮はため息をついて椅子にもたれ、大仰に足を組んだ。「ちゃんと熟考しました? 一時的な気持ちの盛り上がりでは?」

「そんなことないんだって。とにかく、決して安易な考えでこの結論に至ったわけじゃないことは確かなんだ」

「まぁそこは自由ですけどね。僕には反対する権利は与えられていないんだし」

 食ってばかりいないで何とか言ってくれよとみちるに振り返ると、彼女は――

 俯いてぱくぱくとパンケーキを口に運びながら、不満気で、しかもちょっと悲しそうな表情をしていた。

「みちる――?」

「……大丈夫。貴志のこと、信じてるもの」みちるはやや震える声で言った。「……泣かない」

「ほらぁ~」俺は二宮を見た。「てめえぶっ飛ばすぞ」

「えっすっすいません――!」二宮がガバッと身体を起こした。「しますします、署名」

「無理にとは言わない。何ならそのへんの人に頼んだっていいんだし」

 みちるは鼻を啜り、顔を上げて店内を見渡した。「さっきの店員さんなんてどうかしら」

「いえ、僕がします。させてください」

 そう言うと二宮は上着のポケットからボールペンを取り出し、婚姻届けを手元に引き寄せて証人欄に記入を始めた。

「……手こずらせやがって。ごちゃごちゃ言ってねえで、さっさと書けよ」

 俺は思わず凄んだが、内心ではホッとしていた。ここで必要以上のタイムロスは避けたい。

 するとパンケーキを食べ終わったみちるが紅茶を飲んで言った。

「トイレに行ってくる。お化粧直しもしたいし」

「分かった」


 店内にはトイレは無く、みちるはバッグを持つとビルのトイレを探して店を出て行った。俺はそれを見送り、ため息をついてコーヒーを飲んだ。それから真剣な様子で文字を書いている二宮の様子を眺めた。

「……おまえ、ふざけんなよ」俺は苦々しく言った。「こっちが下手に出たからって、調子に乗ってんじゃねえぞ」

「……すいません。マジですいません」

「そりゃ、言いたいことは分かるけどよ」

「でしょう? あなたが僕なら、すんなり署名なんてしませんよね?」二宮は視線を上げた。「僕にバレたから、告げ口される前に自棄になって結婚しようって思いついたのかと」

「そんなんじゃねえよ」

「そう疑われるくらい展開が早すぎるんですよ」

 まぁな、と俺は腕組みした。「一昨日、あれからいろいろあってさ」

「何があったんです」

「今は詳しく説明してる時間はねえ。どうしても納得の出来る説明が欲しいのなら、あとで連絡くれよ。明日以降に電話するから」

「……別にいいですけどね」

 二宮は身体を起こし、書き終えた署名を眺めた。「あ、捺印が必要なんだ」

「そう。ハンコ持ってる?」

「いや、そんなアナログなものは――」

 俺は婚姻届を入れていた封筒から認印と小さな朱肉を取り出して二宮に差し出した。判子の刻印はもちろん“二宮”だ。

「……用意がいいんですね」二宮は苦笑して受け取った。

「新橋のドンキで買った」

 俺はにっと笑うと手を差し伸べた。「お願いします」

 二宮はしっかりと朱肉を付けると、丁寧に押印した。そしてテーブルの紙ナプキンで判子を拭くと、朱肉と共に俺に返してきて言った。

「怒られるのを承知でもう一度訊きます。本気なんでしょうね。この結婚」

「ああ、そこは誓って」俺は力強く頷いた。「もし俺が浮気なんかしたら、おまえが俺のことりに来い」

「……分かりました」

 二宮も頷くと、ボールペンをポケットにしまった。


 やがてみちるが帰ってきた。化粧直しを済ませて、すっきりとした表情に戻っている。

「署名してもらえたのね?」

 席に着いたみちるが訊いた。

「ああ、完了だ」

 するとみちるは二宮に向き直り、晴れやかな笑顔で言った。

「二宮くん、ありがとう。あなたに証人になってもらえて嬉しいわ」

「そう言っていただけて光栄です」

 二宮も笑顔で言った。「もう一人は、鍋島さんですね」

 そのつもりだ、と答えた俺に二宮は当然ですよねと頷いた。そしてすっと居住まいを正すと両手を膝に置き、真っ直ぐに俺たちを見て言った。

「ご結婚おめでとうございます。末永くお幸せに」


 そして二宮はテーブルに置かれた伝票を取って立ち上がろうとした。俺がその手を制し、伝票は預かると言った。さすがにコーヒー代を出させるわけにはかない。

「自分の分は出しますよ」二宮は言った。

「そういうわけには行かねえよ」俺は首を振った。「いいから、ここは」

 じゃあ、と二宮は手を引いた。「二杯も飲んじゃって」

「大丈夫よ」とみちるがにこにこと笑って言った。「その代わり――」

 二宮ははあっ、と深くため息をついて脱力し、席に座り直した。

「――何ですか」

「わたしたち、車で来てるの。今から羽田まで送ってくれない?」

「えっ⁈ どこへ行くんですか?」

「福岡。彼の実家よ」みちるは答えた。「十五時ちょうどの便なの」

「……ギリギリですね」二宮は腕時計を見て言った。「車は? 空港の駐車場に停めておいたらいいんですね?」

「そう。夜に戻って来て、それで家まで帰るから」みちるは頷いた。「鍵はスペアがあるから、明日返してくれればいい」

「分かりました」二宮はまた立ち上がった。「鍵を預かります。表に回して来ますから、支払いを済ませておいてください」

 そう言ってみちるから車の鍵を受け取ると、二宮は店を出て行った。

「――頼りになる部下だな」俺は言った。

「ええ。そしてあなたのいい友達ね」

 みちるは嬉しそうに笑った。



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