3 指輪


「――てかそもそもさあ、指輪なんてどうして着けるんだ? 結婚してるってことのアピールなんて、今どき何の意味があるわけ?」

 朝七時。二人で作った朝食を食べながら、向かいで熱心にノートパソコンを見ているみちるに俺は言った。

「カタチにこだわりたいって言ったのは貴志よ」

 みちるはタッチパッドに指を滑らせながら冷静に言った。「そういう人が意味なんて考えないの」

「そうかもしんねえけど」

「――あ、これなんてどう?」

 みちるは小さく手招きをした。こっちへ来て画面を見ろということだ。俺はコーヒーカップを手にみちるの後ろに移動した。

 表面にキュービックカットを施したプラチナのペアリングだった。内側に小さなダイヤモンドがはめ込まれ、“Eternal Love”(永遠の愛)という文字が刻まれている。

「エターナルラブねえ――」

 思わず呟いた俺に、みちるは振り返った。「……シラけないでくれる?」

「ああ、ごめん」

「これだからひねくれモノは」みちるはぷっと頬を膨らませて画面に戻った。「別にわたしだって、この言葉が気に入ったってわけじゃないから。デザインと値段よ」

 俺はあらためて画面を見た。「うわっけ!」

 ペアで七万円の値段がつけてあった。

「本当の結婚指輪なら、この四倍程度が相場らしいわよ」

「ええー……」――二十八万円も? なにそれ。「婚約指輪の相場は?」

「年齢と収入によるんじゃない」みちるは依然として冷静に言った。「えっと――平均四十万円くらいだって」

「合計七十万弱……」俺は両手で顔を挟んだ。「今まで一回も考えたことなかったから、驚き」

 するとみちるはくすくすと笑った。

「え、なに?」

「――だって、何だか新鮮だなと思って。彼女のいる三十歳手前の男性が、結婚指輪や婚約指輪の金額にまるで興味無かったなんて。鍋島くんはそんな話はしてこないの?」

「あいつの場合、選ぶ段階で辛気臭すぎて。相場がどうとかこうとか、そんな話にならねえよ」

 ふうん、とみちるは頷き、改めて画面を見た。「お店に行って、これがあったら見せてもらいましょうよ」

「サイズとかどうなんだろ」

「貴志もわたしも平均的なサイズだろうから、あるんじゃない」

 そう言うとみちるはにこやかな笑顔を見せた。「この支払いはわたしが持つわ」

「えっ、いいの」

「だって、貴志には本当の指輪の方を負担してもらうんだし。さっきまで知らなかった、高い金額の方」

「でもカタチにこだわってるのは俺だぜ?」

「わたしもそれに乗っかったから。貴志にばかり負担を強いるのは心苦しいわ。それに――」みちるは肩をすくめた。「言いにくいんだけど、わたしは――」

「俺より稼いでるもんな」俺はあえて笑顔で言った。「じゃあ、お言葉に甘えるよ」

「……気を悪くした?」

「してない。するようじゃ結婚しない」

 そもそも、東大卒のキャリア官僚で現時点で二階級も上のみちるに対して、コンプレックスを感じるくらいなら好きにならない。みちるや周りが気にするほど俺は抵抗を感じていなくて、今どきこういう状況は珍しくもないと思っていた。

「――そうだ、その店って虎ノ門にあるんだよな」俺は言った。

「うん」

「だったら、そこへ行く前でもあとでもいいから、ちょっと寄り道させてくれよ」

「時間ないわよ? どこへ行くの?」

新橋しんばしにわりと大きな老舗の酒屋があるんだ。海外や全国からいろんな酒類を仕入れてる。そこに俺んの作った焼酎が置いてあるから、それをみちるのご両親への手土産に持っていこうと思って」

「俺んって――貴志の実家の?」

「うん。本業は酒販だけど、実は醸造所と提携して、オリジナルの焼酎を作ってるんだ。気軽に飲めるものから高級品まで、いろいろ揃えててさ。その新橋の酒屋にも卸してるんだ」

「わざわざいいわよ、そんな」

「いや、さすがに手ぶらってわけにはいかねえよ」俺は首を振った。「少しでも評価を上げないと」

「だから、別に低評価だなんて言ってないじゃない」

「分かってるって。とにかく、社会人の常識として手土産は必要だろ」

「分かった。じゃああとに行きましょ。とりあえず指輪が先決よ」

「そうだな」

 食事がほぼ終わったので、俺はテーブルを片付け始めた。みちるはまだパソコン画面とにらめっこだ。眉間と鼻のふもとに小さな、しかしくっきりと皺を寄せ、文字なのか画像なのか、何だか分からないけど懸命に追いかけている。

「おでこに皺が寄ってるよ」俺は笑って言った。「跡がつくぜ」

「えっそうなの、ヤバい」みちるは慌てたように額を撫でた。

 ごしごしと擦りながら、みちるは手元のスマホを取り、自撮りの要領で画面に自分を映し出した。額を撫でたあと顔を左右にゆっくりと回し、じっと見つめている。今日の肌の調子でも確認しているようだ。そしてもう一度額をこするように触ると、最後になぜか一つペチっと叩いてうん、と頷いた。こういうところが素直で、ホント可愛いなと思う。

 そしてみちるはスマホの時刻表示を見ると「いけない、そろそろ支度しないと」とパソコンを閉じた。

「ん、早くね?」

 全然、とみちるは首を振った。「気合い入れてお洒落しなきゃ」

「え、でも俺って普通のスーツだぜ。替えのシャツとネクタイは昨日買いに行ったけど」

「いいのよ貴志は、セオリーから極端に外れてなければ。服装の適否より、どうせその顔にしか注目集まらないんだから」

「やな言い方するな」

「だってそうでしょう? あなたのこと、初見の人間は男女問わずみんなそうなんだもの」みちるは不服そうに口を歪めた。「ポカンと口を開けて、見惚みとれてるの」

「それを俺に言われても」

「分かってるわよ。でも事実そうなんだから」

「みちるはどうだった? 俺のこと初めて見たとき」

「……わたし?……」

 みちるは肩をすくめた。少しだけ目線を泳がせ、そして手元に落とす。「特に何も」

「嘘つけぇ~」

 俺は後ろからみちるの肩を抱いた。「見惚れてたんじゃないの?『わ、なにこの人、かっこいい~』って」

「……ホント、呆れちゃう」とみちるは笑いながら言って俺の腕を抱えた。「来年三十歳でしょ。そろそろそういうヘンに無邪気なの、やめた方がいいわよ」

「話を逸らしたな」

「逸らしてない。言ったじゃない、特に何も思わなかったって」

 そう言うとみちるは振り向いた。「今は思ってあげてるわよ。『わたしの彼氏、めちゃくちゃかっこいい!』って」

「だろぉ?」

 そう言ってみちるの頬にキスしようとすると、みちるは「ハイ調子に乗らない」とすり抜けて立ち上がった。

 そして、ちぇっ、と悔しがる俺をじっと見つめて神妙な顔になり、ぽつりと呟いた。

「……良かった」

「えっ?」

「昨日より明るくなった」みちるは嬉しそうに笑った。「ちょっと安心した」

 そうか、と俺も笑った。たぶんぎこちない笑顔だったと思う。

「わざとじゃないわよね?」

「違うよ」

 まったく自覚はなかったが、そんな風に思われてたんだなと思うと何だか申し訳なかった。

「ならいいの。少しでも無理してるんだったら、そんな必要はないって言いたくて。ゆっくりでいいって」

 俺はみちるを抱き寄せた。何か言おうとしたけどちょっと胸がいっぱいで何も言えなかった。みちるは俺の背中をさすり、ゆっくりと離れると頬にキスをしてきた。

 そしてふんと笑うと言った。「調子に乗っちゃダメよ」

 俺は黙って頷いた。

 さてと、とみちるは両手を腰に当てた。「じゃあ準備するわ。貴志も支度して。ご実家に連絡するのも忘れないでね」

「もうしたよ」

「え、いつの間に?」みちるは目を見開いた。「……どうだった? 反応」

「そりゃ、大騒ぎしてた。今日は臨時休業だってさ」

「福岡に着くのは夕方よ?」

「向こうにも準備があるんだって。寝耳に水状態だったし」俺はちょっと顔をしかめた。「結婚して神戸にいる二番目の姉貴も呼ぶってさ」

「……そっちも勢揃いじゃない」みちるは小さくため息をついた。「やっぱり少し気が重いわね」

「だろ? でも越えなきゃならないハードルだ」

「そういうことね」

 みちるは大きく頷いた。



 約一時間後。支度を終えて寝室から現れたみちるはその言葉通りに「やり切って」いた。

 ベージュ色のブラウスに幾何学的な地模様のある白のAラインスカートを合わせ、ブラウスと同系色のハンドバッグを手にしていた。ブラウスは七分袖くらいで、腕のあたりが膨らんでいて袖口は巾着みたいになっている。バルーンスリーブと言うらしい。スカートは膝がすっぽりと隠れる長さで、“ミモレ丈”だそうだ。髪をふんわりと仕上げ、小さな白い花のピアスに揃いのネックレスが可愛い。メイクは自然かつ柔らかな色合いで、これで完璧に清楚なお嬢様の完成だ。もともとその気質を持っているとは言え、なんかもうすごいぞ、拍手って感じ。でも完璧すぎて、逆に俺の家族は引くかもって心配すらでてきた。

「貴志は――」

 みちるは俺の格好を見た。そもそも今回横浜に来た俺の目的は墓参で、ダークグレーのスーツに黒ネクタイだったのを、昨日買った細かいドット柄のネクタイと新しいシャツに替えた。まあ一応は合格点なんじゃないかなと思っていると、みちるは、

「いいんじゃない。結局は顔に目がいくと思うし」

 と素っ気ない評価だった。俺はちょっと自棄やけになって、

「どうせ何着ても似合うからな」

 と言い返した。

 やっぱり調子に乗ってる、とみちるは顔をしかめ、すっと引き締まった表情になると言った。

「――さあ、じゃあ始めましょ」



 ジュエリーショップにほぼ開店と同時に着き、ネットで調べていた商品を見せてもらった。実際に見た方がずっと上質な感じで、キュービックカットがもたらす輝きもネットの画像より綺麗だった。何ならこれを本当の結婚指輪にしてもいいくらいだと思ったが、そこはやはり値段の意味を無視できない。とりあえず今はこの指輪を買うことだけに留めて、それぞれのサイズを測り、在庫があったので速やかに購入した。


 商品の包装と支払処理を待っているあいだ、俺たちは案内されたテーブル席でグラスの緑茶を飲みながらこれからの予定について話した。このあと新橋の酒屋に行って焼酎を買い(さっき電話で注文を済ませた)、戻ってきてみちるの家族の待つ霞が関のショッピングビルにある中華レストランに向かうのだ。会食が順調に行ったとすると一時間後には終わるんじゃないかと俺たちは予測した。

「そのあと――二宮には連絡した?」

「うん。中華レストランのすぐ近くのパスタ屋さんに来るように頼んである。時間は一応一時。少し遅れるかもとは言っておいたわ」

「え、まさかみちるもパスタ食べるつもり?」

 俺は思わず訊いた。彼女はちょっとしたフードファイターなのだ。

「そのときの状況によるわ」みちるは平然と言った。「家族との会食では、話の展開によってはあまり食が進まないかも知れないし」

「……そんなことないと思うけど」

 俺は腕組みして椅子にもたれ、店内をぐるっと見渡した。俺たちの他に、みちると同じくらいの年頃の女性とその母親らしき中年女性、三十代前半のカップル、俺と同年代の男性の三組の客がそれぞれ指輪やアクセサリーを見ながら店員と話していた。俺はその中の母娘連れを眺めながら、本当ならみちるもあんな風に母親とあれこれ相談しながら指輪を選びたいんじゃないかと思った。

 そこで、その娘らしき女性が俺の視線に気づいたのか、俺を見て気恥ずかしそうに微笑んだ。俺も少し笑って彼女を眺めた。

 するといきなり右のふくらはぎに激痛が走った。みちるに蹴られたのだ。

「――ってえ。何だよ」

「……信じられない」みちるは鼻を膨らませて怒っていた。「結婚相手と指輪買いに来て、他の女に色目使うってどういうこと?」

「使ってねえよそんなの」俺は鼻白んだ。「そんなヤツいたらバカだろ?」

「そんなバカがここにいるのよ」

「たまたま目が合っただけだよ」

「だとしても、赤の他人を見て微笑むのやめなさいよ――!」

「向こうが笑ってきたんだろ。ガン飛ばせとでも言うのかよ」

「ええ、それくらいでちょうどよ」みちるはふんと鼻を鳴らした。「イケメンのくせにやなヤツ、って思われておきなさい」

「何だよそれ。なんで俺、自分で悪評ばらまかなきゃなんねえの?」俺もちょっと憤慨した。

「……わーやだやだ。これからずっとこんな思いするなんて」みちるは眉根を寄せた。

「思わなきゃいいじゃん。俺のせいじゃねえよ」

「だって――」

「――あの、一条様」

 振り向くと、クレジットカードとレシートの乗ったトレーと小さな手提げ袋を持った店員の女性が困ったように首を傾けて微笑んでいた。

「……あ、はい」みちるは恥ずかしそうに笑った。

「大変お待たせいたしました。まずはクレジットカードをお返しいたします」

 ありがとうございます、とみちるは受け取った。

「それから――こちらのメンバーズカードを拝見したところ――一条様はみなとみらい店の方によくお越しいただいているようで」

「……ええ、はい」

「それで、さきほどあちらの店長に連絡しましたら、大変喜んでおりました。よろしくお伝えしてほしいと」

「あ……そ、そうですか」

 みちるはバツが悪そうに肩をすくめた。行きつけの店の系列店だったことを思い出したようだ。

「また、当店も御贔屓にお願いいたします」

 そう言うと女性店員はにっこりと微笑み、紙袋を差し出した。

 そして俺にも笑顔を向けてきたので、俺はみちるに振り返り、わざとらしく首を傾げた。(どうする? 笑っていいの?)という意味だ。

「……はぁ? こっち向かないでよ」

 みちるは鼻のふもとに皺を寄せて言った。

 俺は満面の笑みを浮かべて女性店員に会釈した。彼女は両手を合わせて口元に添え、肩をすくめて少し仰け反った。

 みちるは肩で大きく息を吐くと、「お世話さま」と言ってさっさと出入口に歩いて行った。


 しょうがねえじゃん。俺って大概こうなんだから。


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