2 プロポーズ


 ひと通り計画が立てられたので、明日に備えて寝ることにした。だけどベッドに入ると妙に目が冴えて眠れなかった。無理もない。俺は今朝そこそこ遅くまでのんびり寝ていたからだ。

 隣で目を閉じているみちるはどうなんだろうと顔を覗く。静かに寝息を立て、長い睫毛がごく微かに震えている。色白の頬が少しだけ赤みを帯び、ダウンライトの淡い光に反射して丸く輝いていた。

 可愛いな、なんかもう俺はそのへんバカになってんじゃねえかと思うくらい“萌え”が止まらない。明日は早いうちに起きて動かないといけないのは分かってるけど、セックスしたいなぁ、だって昨日もしてねえし。遠距離恋愛で一カ月ぶりに会って、こんな可愛い顔で隣に寝てる彼女を見て何もするなって、それはキツいだろ?――と、昨日はメンタルがひどくてそれどころじゃなかった自分を棚に上げ、しかも明日のハードスケジュールは自分の提案であることすら棚上げして俺は悶々とした。

 いや今回は我慢しろ、またきっと一週間もすれば会えるんだしと欲望を強引に押し込め、寝返りを打ってみちるに背を向けて目を閉じた。

「――ねえ」

「うわぁっびっくりしたぁ――!」

 俺は跳ね上がりそうになった。慌ててみちるに振り返る。「な、なに――?」

「……どうしてそんなに驚くの?」

 逆にまったく体勢を変えず、目だけを開いたみちるは冷静に言った。「何か変な想像してた?」

「い、いや――眠りかけてたから」

「エッチしたいな、とか思ってたんでしょ」

「……分かってんなら訊くなよ」俺はため息をついた。「いいよ、明日は大忙しなんだし」

「そう。仕方ないわよね――」

 みちるはもぞもぞと身体を動かして俺の背中に張り付いてきた。両腕を腰に回し、みぞおちのあたりで合わせてぎゅっと力を入れてくる。背中に胸の膨らみを感じた。

「――あーだめだ、そんなことされちゃ余計にしたくなる」

「だーめ、おあずけ」

「なんだよそれぇ――」俺はみちるに向き直った。「……ちょっとだけならいい?」

「ちょっとだけってどういうことよ」みちるはふんと鼻を鳴らした。「試食じゃないんだから」

「何でも食うことに例えるんだな」俺は仰向けになった。「いいよ、もう寝よう」

「……わたしはしてもらってないわよ」

「え?」

 なんとなく分かっていたけど、会話の流れでつい訊き直してしまった。

「ちゃんとしてもらってない。プロポーズ」

 やっぱりそのことか。

「でも、もうこうやって計画練って進めてるって事実があるわけだし――」

「それはあなたが婚姻届を見せて来たからでしょ」みちるは肘を突いて手で頭を支えた。「用紙を見せて『どうする?』なんていうの、プロポーズとして認めないし」

「だめなの?」

「少なくともわたしはね」

「だったらどんなのなら認められる?」俺もみちると同じ姿勢を取って向き合った。

「自分で考えなさいよ。正直な気持ちを、自分の言葉で言うの」

「みちると結婚したい」

「ほら、バカ」みちるは俺の鼻をぎゅっとつまんだ。

「いてて」

「軽いのよ。届を見せてきたときに軽かったのは理解してあげてもいいけど、今はダメ」

 そう言うとみちるはまた俺の腕を取って手繰り寄せ、顔を肩にくっつけると悪戯っぽい眼差しでをぱたぱたと瞬きした。

「ほら、ちゃんと言って。お洒落なレストランやロマンチックなデートスポットで指輪を添えて、なんて要求はしてないんだから良心的でしょ」

 それはそうだけど。と言うか、そんな要求されたら困る。婚約指輪を決めきれずにかれこれ二ヶ月近く迷走している鍋島のことを笑えない。そう言えば、鍋島は何と言って彼女にプロポーズしたのだろう。まぁ、十年来の親友を恋人にしたのだからそれこそ改まって言う必要なんて無かったのかな。

 俺は腕を回してみちるの肩を抱き、ゆっくりと撫でながら考えた。今朝まで結婚のの字も頭を過らなかった人間なのに、十二時間後に気持ちのこもったプロポーズをしろって言われても。ふと見るとみちるは満足げに口元に笑みを湛えて目を閉じ、身体を丸くしてぴったりと寄り添っている。俺は向きを変え、両腕で抱きかかえるようにして彼女を包み込んだ。


 ――そうなんだよな。この体勢がほんとに心地いいんだ。だって――


「――ちょっと語っていい?」俺はみちるの背中に言った。

「え、そんなに長いプロポーズなの」

「違う。その前にちょっと話したいなって――俺の正直な気持ちの確認。そしたらみちるにちゃんとしたプロポーズができるかも」俺はみちるのうなじに唇を寄せた。「かも、だけど」

 みちるはふふっと笑った。「いいわよ」

 俺はあらためてみちるを強く抱きしめた。

「――もう分かってると思うけど、俺、こうやってみちるを抱いてるのが好きなんだ」

「うん。わたしも好きよ」

「一年前、広域案件の捜査でみちるが大阪へ来たとき、俺たちガチでいがみ合ったよな。でもそのうち解り合えるところも出てきて、厳しい現場だったけど、どうにか事件の全貌を掴みかけてた。でも最後にみちるが犯人に襲われて――」

 そう言った瞬間にみちるの身体が僅かに硬直したのを感じ、俺は腕に力を入れた。

「――ごめん、思い出させた」

 大丈夫よ、とみちるは言った。あなたが包んでくれてるからと。

「そうなんだ。あのとき俺、夜中にうなされてたみちるをただ黙って抱いてただけだったけど、実は気づいてたんだ」

「何を?」

「……この女性ひとに、ずっとこうやって寄り添っていたいなって。包み込んでいられたらいいなって」俺は自嘲気味に笑った。「目の前の女性が怖い思いをして苦しんでるのに勝手にそんなこと思って不謹慎だし、想い合ってるわけでもないのにかなり気持ち悪いだろうけど、素直にそう思ったんだ」

 みちるは俺の腕に添えた手に力を入れた。俺はその手を取って撫でた。

「小さな身体を不釣り合いな大鎧で覆ってさ――あなどられないようにと虚勢を張って、自分から敵を作るのもいとわなかったよな。とにかく成果を上げるんだって、必死にもがいてた。結果的にその思いは叶ったけど、同時にひどく傷付きもしたろ。それでも最後まで一人で踏ん張ろうとして、でもとうとうオーバーヒートして崩れたのを見て、あぁ俺は、この人がまたもとの元気を取り戻すまで、ずっとこうして抱いていられたらいいのになって、きっとそれが俺にとっても心地いいことなんだなってさ――あのときから分かってたんだよ」

 みちるが振り返り、抱きついてきた。胸に顔を埋めて、小さく鼻を啜る。聞けばきっと泣くだろうなと思ってたけど、この際だし伝えておきたかった。ちゃんとしたプロポーズって言われるとどんなのがちゃんとしてるのかは分からないし、結婚の申し込みとは違うけど、素直な気持ちとしてはこういうことだ。

「――俺は自分がロクでもねえヤツだって、分かってるんだけどさ。人を信じなくて、永遠なんてものは嘘っぱちだと思ってて。昨日までは闇の中を歩きながら、世の中の現象はほとんどがクソだと思ってた。だけどその一方で、ぶつかっても倒れても起き上がって、高い壁に真っ直ぐ向かって行こうとする誰かを見たら――」

 俺はちょっとずかしくなってうーん、と言い淀んだ。するとみちるは顔を上げて「見たら?」と微笑んだ。そしてさらに言う。

「言って」

「……どうにも、愛おしくなっちまう。みちるはまさにそうだった。だからずっと、腕の中に包み込んでいたいと思うんだ」

 するとみちるはふふっと笑った。「――わたしもきっと、あのときから分かってたんだと思う。あなたが、いろいろ憎まれ口言いながらもわたしのことを見守ってくれてるんじゃないかって。だから事件のあとにまた大阪にあなたを訪ねて行くことに不安はなかったわ。きっと、何しに来たんだよって言いながら、またあのときみたいに寄り添ってくれると思ってた」

 俺はそのときのことを思い出した。確かにみちるは自信たっぷりだった。だけどその表情の下で、精一杯の勇気を振り絞っているのだと心が訴えているのも俺は気付いていた。

 みちるは言った。「……言ってくれるの? プロポーズの言葉」

 俺は頷いた。みちるの両手を取り、指を絡ませて彼女を見つめた。

「――みちるは、俺にとって奇跡なんだ。俺の前に現れてくれたのが奇跡」額どうしをくっつけた。「そんなきみと、ずっとこうしていたいから――結婚してください」

「ありがとう」みちるは目線で頷いた。「よろしくお願いします」 

 俺はみちるを抱きしめた。みちるは涙声になって、

「……夢みたい」

 と呟いた。

 それは俺もそうなんだ。自分にこんな日が来るなんて。

 みちるが顔を上げて、俺たちはキスをした。俺はみちるの髪に指を通し、みちるは俺の頬に手を添えた。そしてゆっくりと彼女に覆いかぶさりながら、彼女のカットソーの裾から手を入れ、上に登らせていった。

 みちるは顔を離した。「……ダメよ」

「……ちょっとだけ。試食でいいから」俺はみちるの首筋にキスをする。

 みちるはふんと笑った。「美味しいって分かってるでしょ。試食じゃ済まなくなるわ」

「……早めに済ませるよ」

「――は? 何よそれっ!」みちるは急に声を上げた。

「ええ〜っ……」俺はびっくりして仰け反った。

「フーゾクじゃないんだからね。その言い方は容認できないわ」

 みちるは立て肘で起き上がると人差し指を俺の鼻先に突きつけた。「あなた、分かってると思ってたけどどうやらそうじゃないようだから言っておくわ。わたしは確かに、喜怒哀楽どの感情もストレートにおもてに出がちで、その上貴志の前では泣き虫になるって自覚してる。だけどそのすべての状況において、頭の隅っこでは常に冷静な思考を巡らせてるんだから。不用心な言葉を口走ったら、即刻抗議するわよ。覚えておいて」

 一気にそう言うとみちるはまた横になり、俺の腕を取って引き寄せた。

「早く寝ないと。明日、目の下にくまを作って貴志のご両親に会うとかあり得ないから」

「……わかったよ」

 俺はみちるを抱き、またあの好きな体勢をとって目を閉じた。せめて少し、おっぱいくらい触らせてくれないかなと往生際の悪いことを考えながら。



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