第18話 鴇忠の無念と親心

 パチパチと爆ぜる火の粉の音だけが小さな蛍のように舞い上がり、その中で静かに語り出すアオの声だけが祐之進の中へと流れ込んだ。


 御前試合はとんだ刃傷沙汰に発展し、幹尚は鴇忠に喉を切り裂かれたのにも拘らずしぶとく一命を取り留めていた。その事で、誰しも何某かのお咎めはあったにしてもよもや鴇忠の切腹は無いだろうと思っていた。

 ところがである。幹尚の恨みは深く、これは過ちなどでは無く鴇忠の一方的な衆道の恨みによる刃傷沙汰だと殿様へ訴えたのだ。

殿の弟である自分を切りつけた事は言語道断の所業であり、毛頭許すことの出来ない蛮行であると。

 そしてそんな弟の体面をおもんばかった殿様は良く吟味もせずに鴇忠の切腹を決めてしまった。幹尚にしてみれば蒼十郎を争った面白くない相手を葬り去る好機だった。

 一方、蒼十郎は覚悟して斬った筈の相手が一命を取り留めしまったのだ。その無念はいかばかりだった事だろうか。だが鴇忠殿は最初から覚悟を決めていた。幹尚を殺しても殺さずとも、己の命運は尽きるだろうと。ただ愛しい蒼十郎のため、非道な行いをした幹尚に一矢報いてやりたかったのだ。


 もはや覆らぬ切腹の時を、控えの間にて静かな気持ちで鴇忠は待っていた。待つまでの間、誰にも会ってはならぬ事になっていたが、鴇忠を良く知る近習きんじゅうが、最後に蒼十郎に会いたいと願う鴇忠を憐れに思い、人目を偲んでこっそり蒼十郎を部屋へと入れたのだ。二人に許された時は僅かしかない。呼ばれた蒼十郎は慌ただしく控えの間へと入った。


「鴇忠殿…!蒼十郎にございます!」


 平伏したまま顔も上げられぬ蒼十郎の耳にいつもの優しい鴇忠の声が聞こえた。


「顔を上げよ、顔を上げて私に其方の姿を良く見せてくれ」


 促されて蒼十郎が顔を上げると、そこには白一色の死に装束を身に纏った鴇忠が、背筋を伸ばして毅然と座っていた。対する蒼十郎の顔は泣き腫らして酷い有様だったが、それでも鴇忠の前では涙を堪えた。


「鴇忠殿…!元はと言えば私のせいでこのような事に…っ、この上は私も死んで詫びる他はありません!どうか私を共にお連れ下さい鴇忠殿!」

「馬鹿を言うな、お前が悪いわけではない。悪いのは不埒ふらちを働いた幹尚殿の方だ。お前に罪などあるものか。私ごとの恨みでこの様な仕儀にあいなったのだ。死ぬなどと言わず生きて私を弔ってくれ。花を手向けてくれる者がおらぬでは寂しいからな」


 全てを飲み込んだ鴇忠の憂いの無い眼差しが蒼十郎を見つめた。蒼十郎はいても立ってもいられずに鴇忠の膝にしがみついて涙を堪えた。


「契りも交わさなかった仲であったが、其方に出会えて真に私は幸せだった。私の分も達者で暮らせよ」


 そう言うと蒼十郎の背中を最後に鴇忠は優しく撫でた。


「鴇忠殿、刻限にございます」


 襖の向こうで近習が声を低めて別れを促す。鴇忠は膝にある蒼十郎の手をそっと押し戻すとすっくと立ち上がった。


「さらばだ、蒼十郎」


 そう言うとこの世の未練を振り切る様に、清々しい顔を上げて鴇忠は部屋を去っていった。


「鴇忠殿…っ!」


 その足に縋って引き止める事が出来たなら。武士の子としてみっともない振る舞いは許されず、蒼十郎はただ黙って這いつくばったまま襖が閉まる音を聞いていた。


 御前試合にかこつけた衆道の恨みによる刃傷沙汰は、藩の内外に醜聞として広まった。殿の末弟にも取り合いの相手である蒼十郎にもお咎めは無く、鴇忠ただ一人が全てを被った形となった。


 その夜、一束の遺髪が蒼十郎の元に届いた。それを前にして蒼十郎はもはや涙も出なかった。考えても考えてもこの度の切腹は納得がいかなかった。周りの者達は時が解決すると言うが、蒼十郎の中では日増しに幹尚への恨みは募っていった。討ち漏らした鴇忠の無念ばかりが胸の中に澱のように溜まっていくばかり。

 なのに幹尚は二ヶ月と経たずに回復し、性懲りも無く朝な夕なに男遊びに耽っている。許せなかった。その時既に蒼十郎の中に復讐の催芽は育っていた。息子の危うさを察知していた蒼十郎の父兵部ひょうぶは元服を願い出た息子にそれを許さなかった。もし、何か不祥事を起こしても元服前の前髪者なら罪を逃れられる事もある。蒼十郎の元服を許さなかった父の精一杯の親心であった。ところがそんな親心にも関わらず、蒼十郎は親子の縁を切ってほしいと言ってきた。


 何かやる気だ。


 その目に尋常ならざる光を宿した息子を見た時、兵部も覚悟を決めていた。何か事があれば一族に危害が及ぶは必定。血涙の末に二人は親子の縁をった切ったのだ。こうして蒼十郎は名字を持たない、この世にたった一人のアオとなった。


 月影も無いとある夜、馴染みの影間との密会を終えた幹尚はほろ酔い加減の千鳥足で共も連れず提灯一つをぶら下げながら、私宅への道をふらふらと歩いていた。忘れもしない茶屋町の薄暗い裏手の道で、柳の影に身を隠した蒼十郎がジリジリした気持ちで幹尚を待っていた。

 半時ほど待ったろうか、揺らめく提灯の灯りの中に待ちかねていた憎き男の姿が見えた。その刹那、蒼十郎の耳から全ての音が消えていた。咄嗟に履いていた草履を後ろへと脱ぎ捨て刀の柄を握り込み、蒼十郎は幹尚の元へと走っていた。相手は酔っているとは言え藩きっての手練れである。返り討ちは鼻から覚悟で幹尚の前へと立ちはだかった。


 己を意のままにした幹尚、鴇忠を死地に追いやった憎き仇!


 何が起きたか分からずに惚けた顔の幹尚目掛け、蒼十郎の剣が閃いた。


「亡き鴇忠殿の仇!お命頂戴つかまつる!ーー御免!」


 蒼十郎の放った一撃を、辛うじて幹尚の抜きかけた鞘が受け止めたが、間髪入れない蒼十郎の剣が偶然にも鴇忠が刺した首で炸裂した。真っ赤な血飛沫を浴びて鬼の形相と化した蒼十郎の前で、あっけなく幹尚は道端へと崩れ落ちた。

 やったと思ったのはその一瞬。打ち果たしたからといって爽快な気分になることも無く、あっけない終焉に蒼十郎は虚しさしか残らなかった。













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