第17話 君の名

「お早うアオ」


 眩しい朝の光が朝を告げていた。何かを煮炊きする音が聞こえ、目の前で祐之進が笑ってアオを覗き込んでいた。アオの夢見の悪さもこの明るい笑顔で霧散した。


「ああそうか、お主は昨日ここに帰って来たんだったな。早いな、昨夜あんなに喋り倒したのにお主は疲れていないのか?……っ、てて」 


 同じ格好で座り寝していたアオは固まった両足を思い切り伸ばした。


「年寄りみたいだな。私と二つしか違わぬのだぞ?

今日は私が朝飯を作ろうと思って。ほら味噌汁もあるぞ」


 焚き火の上に下がる鍋の蓋を開けると湯気と共に味噌のいい香りが立ち昇り、広げられた竹の皮の上には不恰好な握り飯が並んでいた。


「凄いな、若様が一人でここまでやるとはな」


 アオは感心気味にそれらを嬉しそうに眺めた。何も出来なかった両家の子息が、米を炊き味噌汁まで作れるようになった。一夏の成長ぶりは目覚ましものがあるなとアオは思ったが、同時に戦地に赴くこともない平和な時代に、家老の子息がこんな事に長けても仕方ないのでは無いかとも思ってしまう。


 果たしてこの暮らしは本当に祐之進のためになっているのだろうか…。


「なあ、ここでずっと俺と暮らすのも良いが、通いというのはダメなのか?学ぶこととか剣の鍛錬とかしなくて良いのか?」

「なんだ、其方はやっぱり私が邪魔なのだな」


 少しむくれて唇を尖らせた顔が微笑ましい。そう言うわけでは無いがと言うアオに、そのまんまの顔で祐之進は文句を垂れた。


「勉強ならここに本を持って来れば良いし、剣は…其方が教えてくれたら良いじゃ無いか」

「そんな簡単に言うなよ」


 そう言いながら面倒くさそうに首をかくアオに祐之進の尖った唇は更にへの字に曲げられた。


「また其方のケチケチが始まったな」

「なんだと?ケチケチ言うな!もう二年間もろくに素振りだってやってないんだ。お主に負けたら都合が悪いでは無いか!」

「あっはっは!そんな大袈裟な。どう都合が悪いのだ」


 そう意地悪く笑うと祐之進は握り飯をアオの口に押しつけて黙らせた。


「お主!やってくれたな!」


 アオも負けじと大きな握り飯を祐之進の口へと捩じ込んだ。そんな子供染みた悪ふざけに何だかとても可笑しくなって、二人揃って笑い転げて顔も髪も米粒だらけになっていた。


 こんな些細な事がこんなにも楽しい。


 アオは二年ぶりに人並みの幸せを噛み締めながら、長い一日を愉快に過ごした。


 こんな暮らしは深みに嵌る。アオはそう思いながら、期限付きだと思えば一生に一度くらい自分を甘やかしてやっても許されるのではないかと思う心の緩みを感じた。一頻り笑ったその後、祐之進が真面目な声でこう言った。 


「なあ、アオ。其方そなたは本当はぶっきらぼうでも無口でも無い。一緒に暮らしてみて私はそれがよくわかったのだ。本当は心優しく温かい皆に愛される人柄なのだ。村の者たちもアオの真の姿を知ってほしい」


 夕餉を終えて小枝を焚き火に投げ入れなら、炎の揺らぎをぼんやりと見つめていた祐之進はまだ村人との無用な確執の事を考えていた。アオは昼間はしゃぎ過ぎて破れた着物の袖を繕いながら、聞こえた言葉にむず痒ゆそうに顔を歪めた。


「何を突然そんな恥ずかしい事を言うんだ。新しい嫌がらせか?」


 照れ隠しにも程がある。アオの言葉に祐之進は眉根を寄せてため息をつく。


「…まったく、そう言うところを除けば其方はおおむね良いやつだと誉めているというのに…。そう言えば…」


 話の途切れた祐之進に何だと視線をやれば、祐之進は遠慮がちに言葉を続けた。


「あの時の話の続きを、まだ私は聞いていなかった」


 アオは急に真顔になって俯いた。


「…やはりそれを聞いてくるのだな」


 いつかは尋ねられると思っていた。覚悟はとっくに出来ていた。アオは大きく一つ息を吐くと祐之進の目を真っ直ぐに見た。


「俺の本当の名前は伊勢蒼十郎いせそうじゅうろうと言うんだ」

「…そうじゅうろう…。そうじゅうろうとはどう書くのだ」

「蒼い十郎だ」


 アオは小枝で焚き火の灰をなららして文字を書いて見せた。


「蒼い…十郎。そうか、だから其方はアオと名乗ったのだな。其方に似合いの清々しい名だ」


 好きな人の本当の名前を今日初めて祐之進は知った。その事が単純に嬉しかった。何度も心の中でアオの名前を呼んでいた。


「俺の念者が切腹して果てた経緯は話したな。そこから先の俺の大罪の話しをしよう」


 アオの顔はみるみる沈んでいった。十五の若者がまるで二十も歳をとったような落ち窪んだ目元がしばらくはじっと焚き火を見つめ、やがて乾いた唇が動いた。


「俺と念者の鴇忠殿はある約束を交わしていた。それは俺が十五になった暁には、晴れて衆道の盃を分かち合おうと言う約束だった。俺は鴇忠殿にそう告げられた時には天にも昇るような心地がしたよ。

初恋は大概は実らぬ。それなのに鴇忠殿も俺を好いていてくれたのだ。その事がどれほど嬉しかったか」


 己の想い人が深く愛した人のことを目の前で赤裸々に語る言葉からは深い恋情の残滓が立ち昇って来るようで、祐之進は苦しくなってアオから視線を外した。祐之進は早鐘を打つ胸を抑えるようにそっと着物の胸元を握りしめた。聞きたく無い筈なのに聞かねばきっと収まりはつかないだろう。祐之進は震える声でアオに先を急かしていた。それから何があったのだと。


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