第十一幕:virtual


 第十一幕:virtual



 やがて漆黒の夜空に浮かぶ星々が北極星を中心にしながら天球を一周し、一日の内で最も気温が下がるであろう午前五時を過ぎた頃、無謀にも手負いのヴァレンチナを肩に担いだレオニードは徒歩による厳冬期の渡河に挑んでいた。

「大丈夫か、ヴァレンチナ? 太腿の傷が痛むだろうが、もう少しだけ、辛抱していてくれよ?」

 まるで凍り付くように冷たい、いや、実際問題として半分凍ってシャーベット状になってしまっている真冬の河の水に腰まで浸かりながら歩き続けるレオニードがそう言って彼女の身を案じれば、むしろ案じられたヴァレンチナの方こそ彼の身を案じ返さざるを得ない。

「あ、あああ、あた、あたしなら、だだだ大丈夫です! こ、この程度の怪我で、よよよ弱音を吐いてはいられません! そそそそう言うレオニードこそ、む、むむむ、むり、無理してあたしを担がなくてもいいんですからね?」

「いや、大丈夫だ。俺の事なら、キミが心配せずとも、何の問題もありはしない。こう見えても『連邦』の虎狼として恐れられたこの俺が、たかが河の水の冷たさ如きにを上げたとあっては、後世まで語り継がれる程の恥晒しにその身をやつしてしまいかねないからな。だからヴァレンチナ、キミはこうして大船に乗ったつもりで、俺に担がれていれば良い」

 そう言いながら渡河に挑み続けるレオニードとヴァレンチナは、今からおよそ一時間前に、彼岸の『連邦』と此岸の『共和国』とを隔てるこの河を渡るようミロスラーヴァ少佐から指示されたばかりである。そして彼ら二人の足跡が残された後方に眼を向ければ、南北から河を挟み込むような格好でもって敷設された鉄条網には穴が開けられ、更にその向こうの土手沿いには四輪駆動の軍用車輛が乗り捨てられていた。つまり『共和国』が極秘裏に建設した軍事基地を脱出したレオニードらは、その軍事基地の車庫から拝借した軍用車輛を駆ってここまで辿り着き、国境線を兼ねたこの河を渡る事によって『連邦』への帰還を果たそうとしているのである。

「ねえ、レレレレオニード? か、かかか、かわ、河の向こう岸は、ままま未だ遠いのかしら?」

 レオニードの肩に担がれながらそう言ったヴァレンチナの言葉通り、大河と表現しなければならない程の規模でこそないものの、およそ1kmにも達する凍れる河の此岸から彼岸までの距離は、まるで永遠に到達する事が出来ない無限の懸隔けんかくの様に思われてならなかった。しかしながら、厳冬期の寒冷地に於ける渡河がどれだけ困難であろうとも、決してその歩みを止める訳には行かない事もまた自明の理である。

「ううっ……」

 とは言え、思わずそう言って真っ白に凍り付いた呼気と共に苦悶の声を漏らさざるを得なかったレオニードもまた、一人の生身の人間である事に変わりはない。だからこそ、半分凍った河の水に一時間余りも晒され続けた彼の下半身からは触覚や痛覚と言った正常な感覚が失われ、果たして対岸まで辿り着けるか否かの確証を得る事が出来ずにいたのである。

「レ、レレレレオニード、だだだ大丈夫ですか? あ、あああ、あた、あたしも、じじじ自分の足で歩きましょうか?」

「いや、大丈夫だ。ヴァレンチナ、キミに気遣われずとも、俺の身体には何の問題もありはしない」

 うの昔に感覚が失われてしまった左右の足を、一歩また一歩と文字通りの意味でもって刺すように冷たい河の水の中で交互に前進させながら、レオニードはそう言って強情を張って止まない。そしておよそ二時間もの永きに渡ってシャーベット状に凍った河の水に晒され続けた後に、遂に厳冬期の渡河に成功したレオニードは、ようやく辿り着いた対岸の砂利に覆われた岸辺目掛けて昏倒する。

「レ、レレレレオニード! ししししっかりして、レ、レレレ、レオ、レオニード!」

「ううっ……」

 昏倒したレオニードと共に岸辺に投げ出されてしまったヴァレンチナが彼の身を案じるものの、既に重度の低体温症の兆候が見られるレオニードの意識は混濁し、瞳孔が拡大し切った眼の焦点は合っておらず、彼女の問い掛けに対して満足に返答する事も出来ない有様であった。

「レレレレオニード!」

 ヴァレンチナが異形鉄筋の破片が突き刺さった左太腿に走る痛みを押しながらそう言って、凍れる河の岸辺で昏倒したままぴくりとも動かないレオニードに彼の名を重ねて呼び掛け続けた、次の瞬間。不意に彼女の背後の『連邦』側の土手の方角から眼にも眩い光が照射されたかと思えば、はっと我に返ったヴァレンチナは振り返り、そちらの方角へと眼を向ける。

「!」

 背後の『連邦』側の土手の方角へと眼を向ければ、そこには数輛の軍用車輛と一輛の救急車輛が待機しており、こちらへと照射された眩い光はそれらの車輛の前照灯ヘッドライトが発するハイビームであった。

「レオニード! ヴァレンチナ! 無事か?」

 すると一人の背の高い軍服姿の女性が、軍用車輛のハイビームを背に受けて逆光にシルエットを浮かび上がらせながらそう言って、こちらへと駆け寄って来るのが眼に留まる。

「ミ、ミミミ、ミロ、ミロスラーヴァ少佐殿!」

 そう言ったヴァレンチナの言葉通り、土手を駆け下りながらこちらへと接近しつつある背の高い軍服姿の女性は、彼女らの直属の上官を務めるミロスラーヴァ少佐その人であった。

「おい、お前達! 何をしているんだ! いつまでもそんな所で、ぼうっと突っ立ってるんじゃない! 急げ! すぐに彼ら二人を、司令部の医務室まで搬送するぞ!」

 ミロスラーヴァ少佐がそう言って発破を掛ければ、土手の上で待機していた軍用車輛と救急車輛の車内から担架と毛布を担いだ数名の男達が姿を現し、彼女に遅れじと土手を駆け下り始める。

「レオニードもヴァレンチナも、済まなかった。河を渡るキミ達二人をここからずっと見守っていたんだが、迂闊に物音を立てたり、渡河の際の目印となる明かりを灯せば『共和国』の国境警備隊に発見されかねなかったので、こうして黙ってキミ達が河を渡り切るのを待ち続ける事しか出来なかったんだ。許してくれ」

 ミロスラーヴァ少佐はそう言って、凍れる河の岸辺で昏倒したままのレオニードとヴァレンチナの元へと駆け寄ると同時に深々とこうべを垂れながら、彼ら二人に謝罪した。

「い、いいい今はそんな謝罪なんかよりも、レ、レレレ、レオ、レオニードを早く病院に搬送しないと!」

「ああ、そうだな。確かにキミの言う通りだ、ヴァレンチナ」

 そう言ったミロスラーヴァ少佐が後方に向けて顎をしゃくって合図を出せば、彼女に遅れて到着した数名の男達がレオニードとヴァレンチナを担架に乗せて毛布を掛け、そのまま来た道を引き返すかのような格好でもって凍れる河沿いの土手を再び駆け上がる。ヴァレンチナを乗せた担架ががたがたと揺れる度に、異形鉄筋の破片が突き刺さった彼女の左太腿に激痛が走るものの、今はそんな些細な事で文句を言ってはいられない。そして土手の上で待機していた救急車輛は手負いの二人を担架ごと収容すると同時に発進し、土手から充分な距離を確保した早朝の学校の校庭でもって今度はタンデムローター式のヘリコプターに乗せ換え、間髪を容れずに離陸すると、彼ら彼女らは黎明の時が差し迫りつつある東雲色色の大空を舞い上がる。

「このヘリなら、すぐに司令部に到着する筈だ。レオニードもヴァレンチナも、二人とも安心しろ」

 激しく揺れながら大空を舞う機内でそう言ったミロスラーヴァ少佐の言葉通り、彼女らを乗せたタンデムローター式のヘリコプターは、やがて子供向け商品の百貨店『子供の世界』の隣に建つ『クラースヌイ・ピスタリェート』の司令部へと到着した。そして東雲色から茜色へと益々燃え上がりつつある朝焼け空の下、屋上ヘリポートに着陸したヘリコプターから降ろされたレオニードとヴァレンチナの二人を乗せた担架は、ミロスラーヴァ少佐が要請した通り司令部の建屋内の医務室へと搬入される。ちなみに単に医務室と呼称されてはいるものの、ここ『クラースヌイ・ピスタリェート』の司令部内に存在するそれはちょっとした地方の総合病院くらいの規模であり、簡単な手術程度であれば何の問題も無く執り行えるのだから是非も無い。

「低体温症の症状が顕著だ! 今すぐに、何としてでも体温を上昇させろ! 毛布とお湯と電気ヒーターを、用意出来るだけここに持って来い! 手足の末端のマッサージも怠るな!」

「加温酸素を吸入させる! それでも駄目なら、加温液を投与して、体内から深部体温を上昇させるぞ! 急げ! もたもたするな!」

 医務室へと搬入されたレオニードに対して、集中治療室ICUのベッドを取り囲む手術衣姿の医療スタッフ達は口々にそう言って指示を飛ばし合いながら、彼の身を蝕む重度の低体温症を速やかに寛解させるべく懸命の救急救命処置の数々を講じ続けた。そしてそんなレオニードの隣のベッドの上では、左太腿に重傷を負ったヴァレンチナもまた、医療スタッフ達の手による傷の治療と応急処置にその身を委ねている。

「さあ、これでもう大丈夫よ? 幸いにも太い血管も大事な筋肉も無事だったし、後は傷口を清潔に保ちながら充分な休息と栄養を摂り続ければ、すぐに後遺症も無く完治する筈ですからね?」

 やがてヴァレンチナの左太腿に突き刺さっていた異形鉄筋の破片を慎重に取り除き、丹念な傷口の消毒と洗浄、それに縫合を終えた手術衣姿の医療スタッフは医療用ゴーグルの奥の眼を細めながらそう言って、施術に問題が無かった事を彼女に告げた。

「そ、それで、レレレレオニードの容態は?」

「心配しなくても、彼なら、もう大丈夫。低体温症の症状の峠を越えて危険な状態からは脱したみたいだし、次第に体温も上昇しつつあるから、このまま温かくして寝ていれば明日には自力で立てるくらいの状態まで回復するでしょう。ですからあなたも安心して、今はゆっくり休みなさい」

「そ、そそそそうですか……良かった……」

 レオニードの容態について説明する医療スタッフの言葉を耳にしたヴァレンチナはそう言って、胸を撫で下ろしながら、ホッと安堵の溜息を吐かざるを得ない。そして肩の力が抜けたらしい彼女を、やにわに猛烈な疲労感と倦怠感、それに耐え難いほどの強烈な眠気が襲う。

「……」

 瞼の重さに身を委ねながらそっと眼を閉じたヴァレンチナは、ゆっくりと意識を混濁させると、そのまま深い深い眠りに就いてしまった。そして充分な休養を摂ってから眼覚めてみれば、彼女を乗せたベッドは救急病棟の集中治療室ICUから一般病棟の病室の一つへと移動させられ、窓から臨む『連邦』の街並みが鮮やかな茜色に染まっているのが見て取れる。

「ヴァレンチナ、キミも眼が覚めたのか」

 すると隣のベッドのマットレスの上で横になっていた入院着姿のレオニードがそう言って、ゆっくりと半身を起こしながら、ヴァレンチナの顔を覗き込んだ。

「レ、レレレ、レオ、レオニード、こ、ここは? ああああたしったら、ど、どどど、どれ、どれだけ寝ていたんですか?」

「ここは『子供の世界』の隣に建つ『クラースヌイ・ピスタリェート』の司令部内の、医務室の一般病棟だ。それとヴァレンチナ、キミは左脚の怪我の手術を終えてから眠りに就き、そのまま一昼夜余りも寝続けていた事になる。つまり、作戦行動を完遂した俺とキミが『連邦』への帰還を果たしたのは、もう二日前の早朝の出来事と言う訳だ」

「そ、そそそそうですか……」

 再びの安堵の溜息と共にそう言って得心したヴァレンチナが、愛すべき婚約者でもあるレオニードと視線を合わせるべくベッドの上で寝返りを打とうとすれば、未だ抜糸も終えていない彼女の左太腿の傷口に鋭く突き刺さるかのような痛みが走る。

「痛っ!」

「おいおい、大丈夫か? 無理に身体を動かそうとするなよ、ヴァレンチナ。既に低体温症から回復しつつある俺と違って、麻酔が切れたばかりのキミは未だ傷口が塞がっていないんだから、何か滋養になる物を食べてから朝までぐっすり休むといい」

「……はい……そ、そそそそうします……」

 レオニードの提言に対してそう言って承諾の意を示したヴァレンチナは、医務室の食堂でもって供される食事を毎日毎食残さず平らげ、夜はぐっすりと朝まで熟睡する事によって心身の休養と回復に専念し続けた。するとものの一週間と経たぬ内に、彼女の左太腿の傷口は塞がり、杖を突かずとも歩けるまでに回復したのである。

「俺達も、いよいよ退院だな」

 やがて敵対する『共和国』本土での作戦行動を完遂し、二人が司令部の医務室へと担ぎ込まれてからちょうど一週間が経過したとある冬の日の昼下がり、薄緑色の入院着からそれぞれの平服へと着替えながらレオニードがそう言った。

「ええ、そ、そそそそうですね。な、ななな、なが、永いようで、みみみ短い休息でしたね」

 彼の隣のベッドの傍らで、ヴァレンチナもまた薄緑色の入院着から平服へと着替えながらそう言えば、ちょうど彼女らが着替え終えるタイミングでもってミロスラーヴァ少佐が病室に姿を現す。

「やあ、二人とも。久し振りだな」

「これはこれは、少佐殿」

「しょ、しょしょしょ少佐殿、ご無沙汰しております!」

 敬礼と共にそう言ったヴァレンチナの言葉通り、ミロスラーヴァ少佐が彼女らが入院する病室に姿を現すのもまた、実に一週間ぶりの事であった。

「本来であれば、もっと頻繁に顔を見せに来る筈だったんだが、何分なにぶんにもこの一週間ばかりは色々と忙しくてな。結局今日まで一度も見舞いに来れなかった事を、先に謝罪しておこう。申し訳無い」

「いえいえ、そんな事を仰らずに。こうして退院する日に合わせてわざわざ迎えに来てくれただけでも、我々としては有り難い限りですよ、少佐殿」

 平服に着替え終えたレオニードがそう言えば、ヴァレンチナもまた無言のまま首を縦に振って頷いて、彼の意見に同意する。

「そうか、キミ達二人にそう言ってもらえれば、こちらとしても不義理を働いた罪悪感から解放されると言うものだ。……さあ、それではそろそろ準備が整ったようだし、あたしと一緒に『クラースヌイ・ピスタリェート』の司令部に顔を出してもらおうか。今回の作戦行動に協力してくれた他の隊員達も、キミ達二人の帰還を首を長くして待っている筈だからな」

「ええ、そうですね」

 そう言ったレオニードとヴァレンチナの二人は、軍靴の踵を高らかに打ち鳴らしながら前を歩く軍服姿のミロスラーヴァ少佐に先導されるような格好でもって、特にこれと言った感慨も無いまま一週間の時を過ごした病室を後にした。そして消毒液の匂いがぷんと漂う医務室の廊下を渡った先でエレベーターに乗り込み、階上へと移動してから更に短い廊下を渡って自動扉を潜れば、やにわに満場の拍手と歓声が彼ら三人を出迎える。

「お帰りなさい、レオニード! それに、ヴァレンチナ!」

「作戦の完遂を祝して、神に感謝を!」

「退院おめでとう!」

 自動扉を潜った彼ら三人が足を踏み入れたのは『クラースヌイ・ピスタリェート』の司令部の中枢たる作戦指揮所であり、そこで待ち構えていた多くの同僚達が口々にそう言って歓迎しながら、レオニードとヴァレンチナによる作戦の完遂と彼らの帰還を祝福するのであった。

「ありがとう、皆、本当にありがとう!」

 レオニードは朗らかな笑顔と共にそう言って、手を振りながら同僚達からの拍手と歓声に応えてみせるが、対人恐怖症のがあるヴァレンチナは真っ赤に紅潮した顔を伏せたまま頭を下げるばかりである。

「皆、静粛に!」

 すると作戦指揮所に寄り集まった『クラースヌイ・ピスタリェート』の隊員達に自制を促すような格好でもって、レオニードとヴァレンチナの二人をここまで先導して来たミロスラーヴァ少佐が、やおら手を上げながらそう言って沈黙を命じた。そして満場の拍手と歓声が鳴り止み、一時の静寂がその場の空気を支配すると、彼女ら三人に注目する隊員達に向けて訥々と語り掛け始める。

「皆も知っての通り、この度、我が『クラースヌイ・ピスタリェート』の永きに渡る『共和国』との戦いに、一つの終止符が打たれる事となった! 言わずもがな、ここに居るレオニードとヴァレンチナの二人の手によって、にっくき『共和国』が極秘裏に開発していた最新兵器たる歩行戦車ウォーカータンクに関する機密情報の奪取、及び、この試作機の破壊に成功したからである!」

 ミロスラーヴァ少佐が声高らかにそう言ってレオニードとヴァレンチナの偉業を称賛すれば、興奮冷めやらぬ様子の『クラースヌイ・ピスタリェート』の隊員達は再びの拍手と歓声と共に、勢い色めき立たざるを得ない。

「それではこれより、今回の作戦行動の最大の功労者たるレオニードとヴァレンチナの二人に向けて、この司令部の最高責任者を務めるスタニスラフ大佐から、是非とも労いの言葉をたまわりたいと思う! それではスタニスラフ大佐、どうぞ、よろしくお願いいたします!」

 軽い会釈と共にそう言ったミロスラーヴァ少佐の言葉を合図にしつつ、その場に居合わせた隊員達は、作戦指揮所の最奥の鉄扉の前に立つスタニスラフ大佐へと一斉に眼を向けた。すると彼の御付きの副官が、反射的に傾注を促す。

「総員、傾注!」

 若い隊員である御付きの副官がそう言えば、隊員達は反射的に背筋を伸ばし、姿勢を正した。こうなってしまっては、彼自身の意志に関係無く、つまりスタニスラフ大佐はミロスラーヴァ少佐の思惑通り、レオニードとヴァレンチナの二人に労いの言葉を掛けざるを得ない。

「皆、その場で楽にしたまえ」

 そう言った小柄なスタニスラフ大佐の身を包む軍服の胸元には、今日もまた、簡素な略綬ではなく仰々しい勲章や記章がずらりと並んでいる。

「今更言うまでも無い事ではあるものの、早晩『クラースヌイ・ピスタリェート』は解散し、この司令部もまた閉鎖される事が上層部の意向により決定している。しかしながら幸運にも、この解散劇の最後の花道を作戦行動の完遂と言う揺るぎない勝利でもって飾れた事は、まさに僥倖ぎょうこうであったと言っても過言ではあるまい! そしてこの輝かしき勝利をもたらしてくれた最大の功労者たるレオニードとヴァレンチナの二人に、今ここで、最大の賛辞を贈ろうではないか! 二人とも、よくやってくれた! ありがとう! 感謝する!」

 スタニスラフ大佐がややもすれば芝居掛かった表情と口調でもってそう言えば、彼の言葉に耳を傾けていた隊員達は益々をもって色めき立ち、その興奮がもたらす拍手と歓声は最高潮に達するのであった。

「では次に、作戦行動の実行部隊を代表し、中尉から大尉へと昇級する事が決定したレオニードからも、何か一言だけでも皆に向けて語ってもらおう!」

 ミロスラーヴァ少佐がそう言って水を向ければ、水を向けられたレオニードが一歩前へと進み出る。

「ありがとう! ミロスラーヴァ少佐殿とスタニスラフ大佐殿に、そして今ここに集まってくれた多くの仲間達に、心から感謝する! しかし、残念ながら、最も感謝すべき人物は、今この場には存在しない! その人物とは俺の部下であり、皆の仲間であり、また同時にその身をして我々を勝利へと導いてくれた、イエヴァである! そこで俺の話の前に、まずは今は亡きイエヴァの崇高なる魂に黙祷を捧げたいと思うのだが、どうだろうか?」

 そう言って問い掛けるレオニードの言葉に、わざわざ異論を挟むかのような真似でもって、場の空気を盛り下げるような無粋な者は存在しない。

「さあ、それでは皆、異論が無いようならレオニードの提案に従い、惜しむらくも道半ばで倒れた我らが同志であるイエヴァの崇高なる魂に、黙祷を捧げたいと思う! 総員、姿勢を正し、黙祷!」

 再びそう言ったミロスラーヴァ少佐の言葉を合図にしつつ、その場に居合わせた隊員達は一斉に眼を閉じて顔を伏せ、ある者は胸に手を当てながら、しんと静まり返った作戦指揮所の中央で黙祷を捧げ始めた。すると彼の御付きの副官も含めた全ての隊員達が眼を閉じたこの瞬間を好機と捉えたスタニスラフ大佐は、黙禱を捧げる事無くくるりと踵を返すと、背後の鉄扉を潜って作戦指揮所を後にする。

「ふん、まったく、何が黙祷だ、馬鹿馬鹿しい!」

 人知れず鉄扉を潜ったスタニスラフ大佐は、その鉄扉から続く廊下をずかずかと大股でもって渡りながら、まるで苦虫を嚙み潰したかのような忌々しげな表情と口調でもってそう言った。そして廊下を渡り切った先の将校専用のエレベーターに乗り込み、佐官階級の将校の執務室が在るべき階層へと移動すると、重く頑丈な扉を開けて彼専用の執務室へと足を踏み入れる。

「所詮お前らは、この俺が軍部内で昇級し、政界へと進出するための便利な駒に過ぎないんだよ!」

 彼自身の一人称を『私』から『俺』へと変化させながらそう言って独り言ちたスタニスラフ大佐は、彼の執務室に設置された文机の元へと歩み寄り、その文机の一番大きな引き出しを開け放った。するとそこには顔全体をすっぽりと覆う形状のガスマスクが準備されており、スタニスラフ大佐はそのガスマスクを装着すると、今度は鍵付きの引き出しを開けに掛かる。

「……」

 果たして開け放たれた鍵付きの引き出しの中には、安全装置でもって誤操作と誤作動を防ぐように設計された、小さな赤いボタンが納められていた。そしてプラスチック製のカバーによる安全装置を解除すると、スタニスラフ大佐はその小さく赤いボタンに指を掛けながら、再び独り言ちる。

「さあ、これでお別れだ、我が愛すべき部下達よ。お前らに特段の恨みは無いものの、証拠隠滅と俺の政界進出のために、死んでもらうぞ」

 不敵にほくそ笑みながらそう言ったスタニスラフ大佐が、今まさにボタンを押し込もうとした、その刹那であった。不意に一発の乾いた銃声が執務室内に響き渡るのとほぼ同時に、ボタンに掛けられていた彼の右手の人差し指が、まるで肉挽き機に放り込まれた生の豚肉の様にぐちゃぐちゃになって砕け散る。

「ぎゃあっ!」

 人差し指が砕け散ったスタニスラフ大佐はそう言って苦悶と驚愕の声を上げながら、体勢を崩し、その場にどさりと尻餅を突いてしまった。そして真っ赤な鮮血と千切れた皮膚と肉片、それに乳白色の骨の断面が露出した指先を左手で押さえたまま痛みを堪える彼が銃声の発生源へと眼を向ければ、そこには手入れが行き届いた軍服に身を包む一人の背の高い女性の姿が見て取れる。

「そんな事だろうと思いましたよ、大佐殿」

 果たしてガスマスクを装着したままその場にうずくまるばかりのスタニスラフ大佐の視線の先の、彼の執務室の入り口付近に立つ背の高い女性こそ、女丈夫として知られるミロスラーヴァ少佐その人であった。そして彼女の手には、レオニードの愛銃と同じカシン12自動拳銃が握られており、その銃口の周囲には無煙火薬ニトロセルロースが燃焼した際に発生する硝煙の匂いがぷんと漂う。

「仰々しくもガスマスクなんかを装着していらっしゃると言う事は、おおかた青酸ガスか何かでもって、あたし達を皆殺しにしてやろうと言う魂胆だったのでしょう? 違いますか、スタニスラフ大佐殿?」

「ああ、そうとも、その通りだ。このボタンさえ押せば司令部内に青酸ガスが充満し、お前らを苦も無く処分出来る手筈だったと言うのに、まったく、余計な事をしてくれるじゃないか、ミロスラーヴァ少佐」

 青酸ガスによる粛正計画の概要を、ミロスラーヴァ少佐の手によって看破されてしまったスタニスラフ大佐はガスマスクを装着したままそう言って、忌々しげに彼女を睨み据えざるを得ない。

「おお、怖い怖い。そんなに睨まないでくださいませんか、スタニスラフ大佐殿? これではあたし達二人の内の一体どちらが加害者で、どちらが被害者なのか、まるで判別がつかないではありませんか?」

 そう言ったミロスラーヴァ少佐はうずくまったままのスタニスラフ大佐の元へと歩み寄り、まずは青酸ガス噴霧装置の起動ボタンが納められた彼の文机の鍵付きの引き出しを閉じてから鍵を掛け直すと、その鍵を自分の軍服の胸ポケットに無造作に放り込んでしまった。これで暫くの間は、司令部内を行き来する『クラースヌイ・ピスタリェート』の隊員達を青酸ガスでもって粛清出来なくなった事を確認してから、ミロスラーヴァ少佐はカシン12自動拳銃の銃口を再びスタニスラフ大佐の急所に向ける。

「それでは大佐殿、甚だ名残惜しくはありますが、そろそろお別れの時間です。最早あたし達『クラースヌイ・ピスタリェート』の隊員一同に、政界に進出するために自分の可愛い部下達を青酸ガスでもって皆殺しにしようとするような血も涙も無い非情な上官は、必要ありませんからね」

「ミロスラーヴァ少佐め、こんな大それた事をしておいて、只で済むと思うなよ? 上官殺しは、まず間違い無く軍法会議でもって死刑か終身刑の判決が確定すべき、重罪なのだからな?」

 至近距離からカシン12自動拳銃の銃口を向けられたスタニスラフ大佐はそう言うが、彼の言葉を耳にしたミロスラーヴァ少佐は一向に意に介さない。

「おっと、申し訳無いがスタニスラフ大佐殿、そうは問屋が卸してくれないものでね」

「は? それは一体、どう言う意味だ?」

「大佐殿、どれだけあなたが死刑や終身刑に処せられるあたしの惨めったらしい姿を拝みたがったとしても、残念ながら、その機会は永遠に訪れはしない。何故ならこのあたしも含めた『クラースヌイ・ピスタリェート』の隊員一同と、その親類縁者は、これから揃って『連合王国』へと政治亡命するのだからね」

「何だと?」

 ミロスラーヴァ少佐から政治亡命の件を告げられたスタニスラフ大佐はそう言って、文字通りの意味でもって眼を真ん丸に見開きながら、驚きを隠せない様子であった。

「ええ、スタニスラフ大佐殿、勿論あなたはご存じないでしょうね。何故ならあなたにだけは、水面下で交渉を進めていた今回の一連の計画について一切相談も説明もしていませんでしたから、当然の結果ですよ」

 ミロスラーヴァ少佐がそう言って皮肉交じりに挑発すれば、怒りと困惑が頂点に達したらしきスタニスラフ大佐は怒髪天を突き、仰々しい勲章や記章に映り込む顔を真っ赤に紅潮させながらぎゃあぎゃあと口汚く喚き散らし始めた。しかしながらそんな戯言如きに耳を貸すような奇特な者は、彼の執務室の室内をぐるりと見渡してみたところで、誰一人として存在し得ない事もまた自明の理である。

「さようなら、スタニスラフ大佐殿。あたしはあなたの事が、初見のその瞬間から大嫌いでしたよ」

 最後にそう言ったミロスラーヴァ少佐は、手にしたカシン12自動拳銃の引き金を躊躇無く引き絞った。再びの乾いた銃声と共に射出された銃弾の弾頭が、スタニスラフ大佐の喉笛を正確に撃ち抜き、俗に『喉仏』とも呼ばれる喉頭隆起を粉々に破壊すると同時に気道と食道に直径0.45インチの穴を穿つ。

「ごぼっ……」

 喉笛に穴を穿たれたスタニスラフ大佐はその穴から止め処無く溢れ出て来る鮮血に溺れるような格好でもって、ごぼごぼと血のあぶくを吐き出しつつも喉を掻き毟りながら窒息し、やがて眼を真ん丸に見開いて怒りと困惑の表情をその顔に浮かべたまま息絶えた。そして彼の死を確認したミロスラーヴァ少佐は、手にしたカシン12自動拳銃を腰のホルスターに納め直すと、スタニスラフ大佐の執務室を後にする。

「お疲れ様です、少佐殿」

「お、おおお、おつ、お疲れ様です!」

 鮮血にまみれたスタニスラフ大佐の遺体をその場に残したまま彼の執務室を後にしたミロスラーヴァ少佐が司令部の廊下に出てみれば、そこで待機していたレオニードとヴァレンチナの二人が背筋を伸ばして姿勢を正しながらそう言って、うやうやしい敬礼と共に彼らの直属の上官を出迎えた。

「ああ、ご苦労。二人とも、待たせてしまったな。それではそろそろあたし達も荷物を纏めて、空港に向けて出発する事にしようか」

「ええ、お供します」

 再びのうやうやしい敬礼と共にそう言ったレオニードとヴァレンチナ、それに彼らを先導するミロスラーヴァ少佐の三人は廊下を渡ってからエレベーターでもって階下へと移動し、司令部を後にすると、やがて路肩に停車していた一輛の大型バスに乗り込んで座席に腰を下ろす。

「良し、いいぞ、発車してくれ」

 座席に腰を下ろしたミロスラーヴァ少佐がそう言って命じれば、彼女も含めた『クラースヌイ・ピスタリェート』の隊員一同と、その親類縁者を乗せた大型バスはゆっくりとエンジンを唸らせながら発車した。これから彼ら彼女らは最寄りの国際空港へと移動し、そこで大使館が用意したチャーター機に乗り換え、晴れて『連合王国』目指して政治亡命の空の旅にその身を投じると言う手筈である。

「さようなら『子供の世界』、また会う日まで」

 司令部から遠ざかりつつある大型バスの車内で、その司令部の隣に建つ子供向け商品の百貨店『子供の世界』の立派な建屋を窓から臨みながら、レオニードはそう言って別れを告げた。彼は遠からぬ未来のとある冬の日、再びこの地へと舞い戻って来る事となるのだが、それはまた別の物語である。

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