第十一幕:real


 第十一幕:real



 季節はすっかり春へと移り変わり、桜の名所として名高い上野恩賜公園の並木道が花見客でもってごった返すとある木曜日の午前中、俺は秋葉原の駅前にそびえ立つヨドバシカメラマルチメディアAkibaの地上六階のゲームソフト売り場を訪れていた。

「お?」

 すると如何にもオタク然とした雰囲気を漂わせる眼鏡を掛けた小太りの青年が、レジの正面に設置された陳列棚へと歩み寄ったので、そう言った俺は彼の動向を横眼でもって注視する。そして俺が見守っている事にも気付かぬままに、そのオタク青年は陳列棚に並べられた『クラースヌイ・ピスタリェート』の最新作のパッケージを手に取ると、暫し吟味してからレジへと移動した。どうやら彼は、本日発売したばかりの我が社の新商品を発売日の午前中から購入してくれる、大事なお客様の一人だったらしい。

「お買い上げ、ありがとうございます」

 俺はレジで会計を済ませるオタク青年の、ややもすれば肥満気味の背中に向けて、周囲の買い物客達には聞き取れないような極めて小さな声でもってそう言った。するとそのオタク青年と行き違いになりながら、今度は大学生ぐらいの歳頃の数名の少年達が陳列棚へと歩み寄り、やはり『クラースヌイ・ピスタリェート』の最新作のパッケージを手に取って商品を吟味し始める。

「お? 有った有った、やっとこいつが発売されてるところを、この眼で直に確認する事が出来たよ。本当に新しい『クラースヌイ・ピスタリェート』が発売されるのかされないのか、こうして現物を見るまで実感が湧かなかったもんな」

「ああ、そうだな。前作をクリアしてから随分と待たされたし、もう新作は発売されないんじゃないかと思って、俺なんか半分諦めてたしさ」

「それ、面白いの?」

「おいおい、お前、馬鹿な事言ってんなよ? 面白いの面白くないのって、俺のこれまでの人生で『クラースヌイ・ピスタリェート』の一作目とそのシリーズこそが、一番没頭して遊び尽くしたゲームなんだぞ? これ以上面白いゲームなんて、この世に存在しないんだからな?」

「ふうん、だったら俺も買ってみようかな。ちょうど春休みが終わるまでする事も無かったし、暇を潰すにはちょうどいいだろうしさ」

「そうだそうだ、買え買え、買っちまえ! 買ってお前も、俺達と同じ戦場体験型TPSの沼にまれ!」

 口々にそう言って話に花を咲かせた大学生達は、やがてその全員が『クラースヌイ・ピスタリェート』の最新作のパッケージを手に取ると、ぞろぞろと肩を並べながらレジへと移動した。そして会計を済ませる彼らの背中に向けて、やはり俺は、周囲の買い物客達には聞き取れないような極めて小さな声でもって感謝の言葉を口にする。

「お買い上げ、本当に、ありがとうございます」

 俺は重ねてそう言って感謝の言葉を口にしながら、ホッと安堵の溜息を吐かざるを得ない。何故なら実に六年間近くにも渡る期間を費やして開発したゲームが、こうして店頭に並べられると同時に、サクラや仕込み客などではない生のユーザー達から支持されている事を実感出来たからである。

「良し、それじゃあ発売日恒例の店舗視察はこのくらいで切り上げて、そろそろ会社に戻るとするか」

 やがて十数人ばかりのユーザー達がパッケージを手に取る姿を見届けると、小声でもってそう言った俺は、ゲームソフト売り場から足早に立ち去った。そして駅前にそびえ立つヨドバシカメラマルチメディアAkibaの巨大な建屋からも退出し、頭上をJR山手線が通過する高架橋の下を潜れば、桜の花弁はなびらがはらはらと春風に舞い散る秋葉原UDXの正面玄関前へと辿り着く。

「け、けけけ、けん、賢人さん? けけけ賢人さんも、い、今、ししし視察から戻って来たところですか?」

 すると秋葉原UDXの1階のロビーに足を踏み入れた俺の背中に、激しくどもりながらそう言って声を掛ける者が居た。その特徴的な口調から件の人物の素性は事前に推測出来るものの、振り返ってみれば、やはりそこには俺の婚約者である柴小春その人が立っていたので特に驚きはしない。

「ああ、そうだよ、今しがたヨドバシでの視察から戻って来たところさ。小春さんも、今視察から戻って来たところ?」

「ええ、ソ、ソソソ、ソフ、ソフマップもビックカメラも順調な売れ行きでしたから、ぜぜぜ全国的にも順調な滑り出しで、さ、さささ、さい、最終的には予想通りの売り上げが期待出来るんじゃないですか?」

「そうか、そうだな。仮にそうなってくれれば、俺達も開発者クリエイター冥利に尽きるってもんだよ」

 俺がそう言って屈託無く微笑めば、彼女の言葉通り、ソフマップAKIBA アミューズメント館とビックカメラAKIBAに視察に赴いていた小春もまた屈託無く微笑み返す。

「さて、と。それじゃあ俺も小春さんも、問題無く店舗視察を終える事が出来たみたいだし、そろそろ一緒にオフィスまで戻ろうか。予定では午後の十三時から、渥見本部長が訓示を行うって話だったからね」

「はい、そそそそうですね」

 やはり屈託無く微笑みながらそう言った小春と共に、秋葉原UDXのエレベーターでもって地上24階へと移動した俺ら二人は、やがて通い慣れた㈱コム・アインデジタルエンターテイメントのオフィスへと足を踏み入れた。そしてオフィスの出入り口のすぐ隣に設置されたハンガーラックの前で、俺は本羊革の軍用ジャンパー、小春はウールのダッフルコートを脱いでいたちょうどその時、壁掛け時計に内蔵されたチャイムが鳴って昼休みの到来を告げる。

「ああ、もう昼休みか。外を歩いていたから気にならなかったけど、そう言えば、随分とお腹が空いて来たな」

「そ、それじゃあ、すすすすぐにお昼ご飯の準備をして来ますね? だ、だから賢人さんは、さささ先にコミュニケーションゾーンで待っててください」

 そう言った小春がプログラマーのデスクの方角へと姿を消したので、俺は彼女に言われた通り、コミュニケーションゾーンと呼ばれる会議や会食が出来るオフィスの一角へと足を向けた。そしてそこに並べられたテーブル席の一つに腰を下ろしたまま暫し待ち続ければ、やがて二人分の弁当箱と大きな水筒を手にした小春が再び姿を現し、俺の向かいの席に腰を下ろす。

「お、おおおお待たせしました」

「ああ、ありがとう。それじゃあ、さっそく食べようか」

 改めてそう言った俺と小春は、二人仲良く額を寄せ合いながら、彼女が持って来た弁当箱の中に詰め込まれていた色とりどりの料理の数々に箸を付け始めた。

「いただきます」

「い、いいいいただきます」

 礼儀正しくそう言って、二人分の弁当箱の中の料理に箸を付けながら、俺と小春は他愛も無い世間話に花を咲かせる。

「いつも悪いね、こうして俺の分までお弁当を作って来てもらっちゃってさ」

「いえ、いいいいいんです、き、気にしないでください。あ、あた、あたしが、すすす好きでやっている事ですから」

「そうは言っても、毎朝早起きして二人分のお弁当を作るのは、大変でしょう?」

「まあ、すすす少しは大変ですけれど、そ、そそそ、それ、それも加味した上で楽しんでいる事ですから、べべべ別に気になりませんよ? そ、それにあたしと賢人さんの分だけでなく、こ、こここ、こな、小夏の分も作っていますから、せせせ正確に言えば毎朝三人分のお弁当を作っているんですけどね。ふ、二人分作るのもも三人分作るのも、ろろろ労力はさほど変わりませんもの」

 冷凍食品のミニハンバーグを食みながらそう言った彼女の言葉を信じるならば、小春は毎朝俺ら二人分のお弁当だけでなく、彼女の双子の妹の分のお弁当もこしらえているらしい。

「成程、小夏さんの分も作ってるのか」

 俺もまたそう言って、やはり冷凍食品の一口サイズの唐揚げを食みながら得心した。するとそんな俺ら二人が腰を下ろすコミュニケーションゾーンのテーブル席に、一人の長身で渋谷のギャル風の容姿の女性が歩み寄るなり声を掛ける。

「お? なんだなんだワンコくん、早くもキミの新妻である柴くんに作ってもらった、愛妻弁当を食べてるのかい? 本当に初々しくて羨ましい限りだね、若いカップルって奴はさ!」

 果たして女性でありながらはきはきとした気風きっぷの良い表情と口調でもってそう言って、俺の事を『ワンコくん』と呼びながら姿を現した長身で渋谷のギャル風の容姿の女性は、アートディレクターとして俺の直属の上司を務める鍛治屋敷静香その人であった。

「か、かかか、かじ、鍛治屋敷さんってば、い、いいい今時はそう言う事を軽々しく口にしちゃうと、セ、セセセ、セク、セクハラ認定されちゃいますよ?」

 俺の新妻扱いされた小春が頬を赤らめながらそう言ってたしなめるものの、彼女にたしなめられた鍛治屋敷は一向に動じない。

「別にいいじゃないか、どうせキミら二人は、お互いのご両親への挨拶も終えて正式に婚約した仲なんだろう? だったらもう、後は入籍と挙式を待つばかりの親密な関係じゃないか。今更愛妻弁当の有無や是非を揶揄からかわれたからと言ったって、声高にセクハラを主張するまでもあるまい」

 まるで中間管理職のセクハラ親父の言い分にも似た強引な屁理屈を、さも当然とでも言いたげな表情と口調でもって主張しながら俺の隣の席に腰を下ろした鍛治屋敷は、改めて俺と小春に問い掛ける。

「ところでワンコくんも柴くんも、キミら二人の結婚式はいつ頃どこで挙げるつもりなのか、もう決定しているのかい? ん?」

 やはりさも当然とでも言いたげな表情と口調でもってそう言った鍛治屋敷の前世は、もしかしてもしかすると、本当に強引な屁理屈を捏ねて部下を困らせるばかりの中間管理職のセクハラ親父だったのかもしれない。

「まったく、さっきから一体何のつもりなんですか、鍛治屋敷さん? 藪から棒に、いきなり俺らの結婚式の予定を尋ねられたところで、今はそんな不確実な問題なんかに貴重な時間と脳のスペックを割いているだけの余裕なんてありませんからね? その事実は、他ならぬあなた自身こそが、誰よりも一番身に染みて理解している筈でしょう? 違いますか?」

「ああ、まあ、確かにそんな風に言われてしまえば、その通りなんだけどさ。だけどやっぱり、あたしも一人の女の端くれとして、可愛い部下である柴くんの艶やかで華やかな花嫁姿を是非一度この眼で拝んでおきたいと思ってね。だからついつい、キミら二人の結婚に想いを馳せてしまったとしても、そんなに悪し様に罵られるようないわれも無いだろう?」

「まあ、確かに、鍛治屋敷さんの言い分も否定はしませんけど……」

 俺は出汁巻き卵をむしゃむしゃと食みながらそう言って、小春の花嫁姿を拝んでおきたいと言う鍛治屋敷の言い分を否定しないばかりか、むしろある程度の同意をもって納得せざるを得なかった。しかしながらその一方で、決して本意ではないとは言え、今は結婚式の日取りや段取りと言った由無よしなし事に心血を注いではいられない事もまた揺るぎない事実である。

「……ですけど鍛治屋敷さん、鍛治屋敷さんはさっきから好き勝手な事を仰ってますけれど、こっちの事情も少しは理解してくれませんか? いくら㈱PFエンターテイメントの子会社への移籍が内定しているからと言ったって、未だ移籍先がどこの部署になるかも知らされていないし、そもそも勤務先だって東京都内とは限らないんですからね? もし仮に地方に転属させられたりしたら、結婚後の新居をどこにするかと言った点に関しても一から考え直さないといけないし、そうなったら結婚式どころじゃありません。そう言った事情でもって、俺と小春さんの二人で話し合った結果、入籍と挙式は暫くお預けにする事に決めたんです」

「成程」

 俺の解説に耳を傾けていた鍛治屋敷はそう言って、首を縦に振りながら得心している様子であった。

「だとすると、可愛い柴くんの花嫁姿は、未だ当分の間は拝めないと言う訳か」

「ええ、ご期待に沿えず恐縮ではありますが、少なくとも現段階ではそう言う事になりますね。とは言え、少なくとも結婚式そのものを取り止めるつもりはありませんから、式を挙げる際には鍛治屋敷さんも二人の職場の上司の代表として披露宴に招待させてもらいますよ。期待していてください」

「ああ、そう言う事なら、期待させてもらおうか」

 そう言って愉快そうにほくそ笑む鍛治屋敷を尻目に、やがて小春が準備してくれた弁当箱の中身の全てを平らげ終えた俺と彼女は、二人揃って箸を置く。

「ごちそうさま」

「ご、ごごご、ごち、ごちそうさま」

 テーブルを挟んだ向かいの席に腰を下ろす小春と共にそう言って箸を置き、彼女の手作り弁当による昼食を摂り終えた俺は、ちらりと壁掛け時計に眼を向けて現在の時刻を確認した。

「ところで小春さん、渥見本部長の訓示は、確か、午後の十三時からだったよね? 場所は、このコミュニケーションゾーンだったっけ?」

「いえ、あああ渥見本部長の訓示は、に、ににに、にじゅ、23階の大会議室で行われる筈ですよ? けけけ賢人さんのノートパソコンにも、ノ、ノーツメールが届いていましたよね? メメメメールの文面にはちゃんと最後まで眼を通さないと、だ、だだだ、だめ、駄目じゃないですか?」

「あれ? そうだっけ? ごめんごめん、うっかりノーツメールを飛ばし読みしていたみたいだ」

 コミュニケーションゾーンで訓示が行われると思い込んでいた俺はそう言って、ぽりぽりと意味も無く後頭部を掻きながら、小春にたしなめられてしまった事による気恥ずかしさを笑って誤魔化さざるを得ない。するとそんな俺と小春に発破を掛けるような格好でもって急かしつつ、コミュニケーションゾーンのテーブル席から腰を上げた鍛治屋敷が、訓示が行われる筈の大会議室への移動を促すべく口を開く。

「それじゃあ時間も無い事だし、そろそろワンコくんも柴くんも、あたしと一緒に大会議室まで移動するとしようか」

「あ、ちょ、ちょちょ、ちょっと待っていてください! おおおお弁当箱を片付けて来ますから!」

 そう言った小春が空になった二人分の弁当箱と大きな水筒を彼女の鞄の中に仕舞い直すのを待ってから、俺と小春、それに鍛治屋敷の三人は他の開発スタッフ達と共にぞろぞろと連れ立ってエレベーターに乗り込むと、やがて秋葉原UDXの地上23階の大会議室へと足を踏み入れた。以前この大会議室に足を踏み入れた際には、俺らが担当しているのとはまた別のタイトルを担当する開発スタッフ達もまたその場に居合わせていたので、まさに足の踏み場も無い程の混雑ぶりであった事を思い出す。しかしながら今回ばかりはどうかと言えば、この会社にはもう『クラースヌイ・ピスタリェート』の開発スタッフ達しか在籍していないが故に、その全員が一室に集合させられたとしてもそう大した人口密度ではない。

「それではこれより、渥見本部長から皆様にご報告があります。渥見本部長、どうぞ、一歩前へ」

 すると懲戒解雇されてしまった上別府美香とはまた別の若い女性アシスタントがそう言えば、やはり大会議室の正面の演壇上に、やや小柄な一人の男がマイクを握りながら登壇した。

「あーあー、皆さん、聞こえますか?」

 演壇上でマイクに向けてそう言った小柄な男は『クラースヌイ・ピスタリェート』のプロデューサーであり、また同時に㈱コム・アインデジタルエンターテイメントの制作本部長を務める渥見直也その人であって、遺憾ながらも本来ならば俺ら開発スタッフ達を統率すべき最高責任者の筈である。

「誠に心苦しい事ではありますが、今日は皆さんに、最後のお別れの挨拶をしなければなりません」

 まるで勿体ぶるかのような表情と口調でもってそう言った渥見本部長は、今日もまた無駄に高価で派手な柄のワイシャツを着ており、その姿は一見すると新宿二丁目界隈に出没するゲイかオカマの類に見えなくもない。

「何が最後のお別れの挨拶だよ、白々しい」

「しかも誠に心苦しい事だなんて出任せの台詞セリフでもって、口先だけでも取り繕おうとしちゃってさ」

 大会議室に居並ぶ開発スタッフ達の一部がぼそぼそと小声でもってそう言って、渥見本部長の口振りを揶揄するものの、そんな彼らの胸の内を知ってか知らずか、演壇上の渥見本部長は本題を切り出し始める。

「皆さんがこうして、この秋葉原UDXのオフィスで顔を合わせるのも、残すところ、今日と明日の二日間限りとなりました。明日になれば関係各所に我が社からのプレスリリースが配信、もしくは発送され、実に五十年以上もの歴史を有する㈱コム・アインデジタルエンターテイメントは倒産します」

 マイクを握る渥見本部長がそう言えば、古巣を失う事に対して一家言ありそうな開発スタッフ達はむしろ言葉を失い、図らずも静謐な空気が大会議室を支配した。

「しかしながら、皆さんは、会社が倒産するからと言って決して落胆する必要はありません! 何故なら今日ここに居合わせた皆さんには、栄光に満ち溢れた、明るい前途が待ち受けているんですから!」

 すると渥見本部長は、唐突に、心にも無い事を言い始める。

「まず何と言いましても第一に、皆さんはすっかり老いさらばえてしまった老害であるこの私と違って、未だ未だ持て余す程の若さに恵まれた働き盛りの青年男女ではありませんか! そして若さと意欲さえ持ち合わせていれば、たとえ眼の前にどのような艱難辛苦が立ちはだかろうとも、決して膝を突いて屈する必要はありません! 違いますか? 違いませんよね?」

 まず間違い無く彼自身の事を『老害』などとは思っていないであろう渥見本部長が、どれだけへりくだりながら自己卑下の言葉を並べ立てたところで、そんな空虚な妄言の羅列が俺ら開発スタッフ達の心を打つ筈も無い。しかしながら、その程度の事実にすら気付いていないと思われる渥見本部長は一旦咳払いを挟んで言葉を切ると、尚も訓示を継続する。

「そして第二に、幸いにも、皆さんの腕と頭脳には我が社に於ける業務でもってつちかった、何物にも代え難い技術と経験が存分に蓄積されているではありませんか! この蓄積された技術と経験さえあれば、たとえこの先どのような職種職場で働く事となったとしても、決して先達に負ける事の無い輝かしい成果を挙げてくださるものと私は信じています!」

 その何物にも代え難いと言う技術と経験を、むざむざドブに捨てようとしている会社の上層部の人間が一体何を言っているのだろうかと思えば、それらが存分に蓄積された貴重な人材である筈の俺ら開発スタッフ達は勢い鼻白まざるを得ない。何故ならどれほど歯の浮くような台詞セリフでもっておだてたり、褒めそやしたりしたところで、俺ら末端の平社員達が放逐されてしまう事に変わりはないのだから、白けてしまうのも当然の帰結と言うものだ。

「ところで余談ではありますが、私が㈱コム・アインデジタルエンターテイメントの倒産と同時に親会社である㈱コム・アインホールディングスへの栄転が内定している事は、既に皆さんもご存知の事かと思われます」

 何の脈絡も無いままに、大会議室の演壇上でマイクを握る渥見本部長は、今度はある種の自慢話とも解釈出来かねないような事を言い始める。

「私がこうして、親会社への栄転と言う輝かしい成果を挙げる事が出来たのも、ひとえに私のこれまでの実績と人徳の賜物であると自負しております! そして私に出来た事が、皆さんに出来ない筈もありません! ですからどうか、皆さんも私と同じように実績と人徳をフル活用し、これまで以上の地位と名誉をその手中に収めようではありませんか!」

 眼鏡の奥の眼をきらきらと輝かせながらそう言った渥見本部長の姿は、まるで自分自身の言葉や立ち居振る舞いにすっかり陶酔し切ってしまっているかのような、見るに堪えない醜悪さであった。そして興奮が絶頂に達したらしい渥見本部長は鼻息も荒いままに、やがて訓示を締め括る。

「それでは皆さん、宴もたけなわではありますが、そろそろこの辺りで私の訓示に幕を下ろしたいと思います! 笑門来福! これが私からの、最後の餞別の言葉となります! どうかこれからも、我が社でつちかったコム・アイン魂を忘れないでいてください! 皆さんの新天地での更なる活躍と繁栄を、心から願って止みません! お元気で!」

 最後にそう言ってマイクを置いた渥見本部長は、やはり自分自身の言葉や立ち居振る舞いにすっかり陶酔し切ってしまっているのか、訓示を終えた自分に向けて自ら盛大な拍手を送ってみせた。しかし当然の事ながら、彼の訓示を一方的に聞かされ続けていた俺ら開発スタッフ達は完全に白け切っており、演壇上の渥見本部長に拍手を送る者は極々僅かにしか存在し得ない。

「おいおいおい、宴もたけなわって、それはこんな、部下達が解雇される事が決定しているような別れの場で言うべき台詞セリフじゃないだろ? 本当に、自分の言葉の意味が分かって言ってんのかよ、あいつ」

 ほぼ渥見本部長唯一人だけの拍手が空しく反響する大会議室の一角で、彼の訓示を黙って聞いていた小太りで眼鏡を掛けた開発スタッフが、ぼそりと小声でもって吐き捨てるようにそう言った。

「しかも笑門来福って言ったら、とどのつまり、笑う門には福来たるって意味の四字熟語だよな? どう考えても笑うに笑えないような緊迫した状況下だってのに、そんな能天気な四字熟語なんかを餞別の言葉とするだなんて、自分の立場が安泰だからってふざけてんのか?」

 小太りで眼鏡を掛けた開発スタッフのすぐ隣に立つ、彼とはまた別の瘦身の開発スタッフもまた吐き捨てるようにそう言って餞別の言葉の意味と意図を問い正しながら、渥見本部長の思慮や見識の薄さと浅さを悪し様に罵って止まない。

「それでは引き続きまして、アートディレクターを務める鍛治屋敷さんにも、最後のご挨拶をお願いしたいと思います。鍛治屋敷さん、どうぞ、一歩前へ」

 すると渥見本部長が演壇上から退くのとほぼ同時に、若い女性アシスタントがそう言えば、今度は俺の直属の上司である鍛治屋敷が登壇してマイクを握る。

「えー、皆さん。この社屋から立ち去るための準備でお忙しいにもかかわらず、こうしてお集まりいただいて、誠にありがとうございます。只今ご紹介に与りました、鍛治屋敷静香です」

 登壇した鍛治屋敷が、日サロで焼いた小麦色の肌と、ド派手な金色に染められた長い髪を空調の風になびかせながらそう言った。女性にしては背が高く、はきはきとした気風きっぷの良い表情と口調でもって自らの名を名乗ってみせた彼女の立ち居振る舞いは、むしろ渥見本部長のそれよりもずっと様になっている。

「今更改めて説明するまでもない事ではありますが、今ここにお集まりいただいている皆さんだけでなく、このあたし自身もまた、明日を限りにこの会社から解雇される事となりました」

 演壇上の鍛治屋敷は、敢えて『解雇』と言う単語を強調するかのような口振りでもってそう言った。

「思えば、あたしが㈱コム・アインデジタルエンターテイメントの前身であるコム・アイン東京に入社したのはいつかと言いますと、それは今からおよそ二十年近くも昔の事になります。美術大学を卒業したばかりのあたしが右も左も分からない新人デザイナーとして配属されたのは、発足間も無い頃の『クラースヌイ・ピスタリェート』の第一作目の開発チームで、当時は未だ海の物とも山の物ともつかない企画の一つでしかなかったこのゲームの行く末に、スタッフ一同、期待と不安に胸を膨らましながら開発業務に邁進したものです」

 そう言った鍛治屋敷の、回顧録は続く。

「また今現在の恵まれた環境からは想像もつかない事ではありますが、当時は未だ『コンプライアンス』だの『ワーク・ライフ・バランス』だのと言った遵法意識や社員の心身の健康の維持管理を啓蒙するような言葉も概念も全く普及していなかったが故に、御多分に漏れず『クラースヌイ・ピスタリェート』の第一作目の開発環境は、それはもう酷いものでした」

 その当時の開発環境の劣悪さは、鍛治屋敷から数年遅れて入社した俺もまた、身に覚えがあると言わざるを得ない。

「連日連夜の徹夜にサービス残業、週末も泊まり込みで、自宅に帰ってぐっすりベッドで寝れたのは、一ヶ月間の勤務実態の内で僅か数日間だけと言う激務に次ぐ激務の連続。やがてスケジュールが逼迫すると同時に多くの開発スタッフ達が心身に異常をきたし始め、戦線から脱落し、残された不運なスタッフ達が彼らが抜けた穴を埋めるために更なる激務をこなさなければならないと言う悪循環。本当に、今となってはあんな劣悪な開発環境から一つのゲームを完成させられたと言う事実こそが、むしろ奇跡か何かのように思えてなりません」

 鍛治屋敷はそう言うと、一旦言葉を切りながら、昔を懐かしむかのような遠い眼を虚空に向けた。

「しかしながら、たとえどれだけの激務を課されようとも、ゲームの開発は楽しく充実したものでした。それに当時はちょうどPF2が爆発的に流通し始めた頃だったがために、ようやく発売された『クラースヌイ・ピスタリェート』の第一作目はハード普及の波に乗って売れに売れ、当時は未だ羽振りが良かった会社の成長を後押しすると同時に、あたしの様な開発スタッフ達の承認欲求もまた満たされたのです」

 やはり昔を懐かしむかのような表情と口調でもってそう言った鍛治屋敷は、不意に、にやりと不敵にほくそ笑みながら締め括る。

「ですから皆さん、これからもあたしと一緒に、ゲームを開発し続けましょう! ゲームを開発すると言う事は何よりも楽しくて、この上無い喜びなのですから、この特権をみすみす手放さなければならない理由はありません! ……勿論この会社、つまり㈱コム・アインデジタルエンターテイメントでの業務は、明日をもってその幕を閉じます。しかしながら、転職を希望しなかった一部の方々を除き、ここに居合わせたほぼ全ての開発スタッフの皆様方は、あたしと共に㈱PFエンターテイメントの子会社への完全移籍が既に決定している事は今更説明するまでもありません! そして新天地である㈱PFエンターテイメントの子会社に於いて、あたし達は、再びゲームを開発し続ける事が出来るのです! しかも幸運にも、あたしが皆さんにこうして語り掛けている今この瞬間も、㈱PFエンターテイメントと㈱コム・アインホールディングスとの間で『クラースヌイ・ピスタリェート』の知的財産権IPを有償で完全譲渡すると言う契約が締結されようとしています! この契約が締結されれば、今後もあたし達は、新天地で『クラースヌイ・ピスタリェート』の続編を開発し続ける事も不可能ではありません!」

 声高らかにそう言った鍛治屋敷の姿を目撃し、彼女の言葉を耳にした俺ら開発スタッフ達はしんと静まり返りつつ、我が眼と耳を疑いながらその場に立ち尽くさざるを得なかった。何故なら俺らの移籍だけでなく、まさか『クラースヌイ・ピスタリェート』の知的財産権IPまで完全譲渡されるかもしれないと言う吉報に、この時初めて接したからである。

「マジか! やったぞ!」

「また続編が作れるんだ!」

「さすが鍛治屋敷さん! やってくれるぜ!」

 そして一拍から二拍の間を置いた後にはっと我に返った開発スタッフ達は、口々にそう言って、拳を振り上げながら歓喜の雄叫びを上げるのだった。

「おい! ちょっと待て!」

 しかしながら、興奮を抑え切れない様子の開発スタッフ達の歓声に包まれた大会議室の壇上で、唯一人だけそう言ってその場の空気に水を差す者が居た。

「お、おおおお前らの㈱PFエンターテイメントの子会社への完全移籍が、既に決定しているだって? それに『クラースヌイ・ピスタリェート』の知的財産権IPの、有償での完全譲渡だと? 俺はそんな話、聞いてないぞ?」

 彼自身の一人称を『私』から『俺』へと変化させながらそう言ったのは、当然の事ながら渥見本部長その人であり、マイクを握る鍛治屋敷はそんな渥見本部長に涼しげな表情と口調でもって言ってのける。

「ええ、渥見本部長、勿論あなたはご存じないでしょうね。何故ならあなたにだけは、水面下で交渉を進めていた今回の一連の計画について一切相談も説明もしていませんでしたから、当然の結果ですよ」

 鍛治屋敷がそう言って皮肉交じりに挑発すれば、怒りと困惑が頂点に達したらしき渥見本部長は怒髪天を突き、無駄に高価で派手な柄のワイシャツの上の顔を真っ赤に紅潮させながらぎゃあぎゃあと口汚く喚き散らし始めた。しかしながらそんな戯言如きに耳を貸すような奇特な者は、広範な大会議室の室内をぐるりと見渡してみたところで、誰一人として存在し得ない事もまた自明の理である。

「渥見め、ざまあみろ」

 勿論この俺もまたそう言ってほくそ笑み、いつまでも地団太を踏みながら喚き散らし続ける渥見本部長のみっともない姿に、軽蔑と侮蔑、それに嘲笑の眼差しを向けざるを得ない。

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