第九幕:real


 第九幕:real



 俺と警察官に暴力を振るった寛治が現行犯逮捕された事を理由に依願退職し、俺達『クラースヌイ・ピスタリェート』の開発スタッフ達の前から姿を消したあの日から、一週間が経過した。

「はあ……」

 今日も今日とて秋葉原UDXの地上24階の㈱コム・アインデジタルエンターテイメントのオフィスへと出社した俺は、ほんの一週間前まで寛治が座っていた筈の自分のすぐ後ろのデスクが空になってしまっているのを見る度に、そう言って深い深い溜息を吐かざるを得ない。しかしながら幾ら溜息を吐こうとも、マスターアップの日が刻一刻と迫り来つつある事もまた事実なので、寛治抜きでデバッグとバグ修正に邁進せざるを得ないのが今の俺を取り巻く現状である。

「やあ、ワンコくん。調子はどうだい?」

 するとデバッグ作業に邁進し続けるそんな俺のデスクに、一人の長身の、まるで一昔前に流行った渋谷のギャルの様な風貌の女性が歩み寄るなりそう言った。果たして俺の事を『ワンコくん』と呼称するその女性とは、言わずもがな、この開発チームのアートディレクターを務める鍛治屋敷静香その人に相違無い。

「あ、鍛治屋敷さん、お疲れ様です。俺の調子ですか? そうですね、まあ、ぼちぼちですね」

 PF5と繋がったゲームパッドを握る俺がそう言えば、そんな俺に向かって、鍛治屋敷は手招きする。

「だったらぼちぼち忙しそうにしているところを邪魔立てするのもあれだけど、今後のデバッグの方針とスケジュールに関して打ち合わせをしたいので、ちょっとばかり手を休めて会議室まで来てくれないかい?」

「ええ、分かりました」

 そう言った俺はおもむろに席を立ち、先導する鍛治屋敷の背中を追いながらオフィスを縦断すると、やがて彼女と共に会議室の一つへと足を踏み入れた。

「ああ、済まんね、ワンコくん。実は打ち合わせをしたいと言うのは、キミを呼び出すための方便なんだ」

 会議室の扉を後ろ手に閉めるなり鍛治屋敷がそう言ったので、彼女にまんまと騙される格好になってしまった俺は、驚かざるを得ない。

「方便? つまり、嘘って事ですか?」

「ああ、まあ、そう言う事になるな」

 少しばかり申し訳無さそうにそう言った鍛治屋敷は、種明かしついでに本題切り出し始める。

「小林くんが依願退職してしまってから今日でちょうど一週間が経過した訳だが、この一週間で、何か気付いた事は無いかい?」

「何か気付いた事、ですか? いや、別に、無駄に身体が大きかった寛治が居なくなったせいで、なんだか背中が寂しくなってしまったような気はしますが……それ以外には、特にこれと言って、何の変化もありませんけど?」

 俺がそう言えば、そんな俺の鈍感さに、鍛治屋敷は呆れ返らざるを得ない。

「ワンコくん、やっぱりキミは、少しばかり人が良過ぎる嫌いがあるね。それはキミの長所でもあるが、また同時に、短所でもある。実はそんな人が良いキミの耳には入っていないのかもしれないが、ここ最近、開発スタッフ達の間であまり良くない噂がまことしやかに囁かれてしまっているんだよ」

「良くない噂? それは具体的に、どんな噂ですか?」

「ああ、具体的には、小林くんが起こしてしまった傷害事件に関する噂なんだがね? なんでも彼がキミに暴力を振るうように、小菅くんが小林くんを言葉巧みに焚き付けて、彼を扇動したと言うんだよ。だから今、噂を信じた開発スタッフ達の間では小菅くんは小林くんを依願退職に追い込んだ、男を惑わせる悪女だと言う事になってしまっている。ワンコくん、キミにも一応確認しておくが、決して小菅くんが小林くんを扇動した訳ではないよね?」

「当然です! 小菅さんは、そんな悪意に満ちた噂を立てられなければならないような悪女なんかではありません! ……まあ、寛治がとち狂って俺と警察官を殴った原因に、彼女がちょっとだけ関与しているのは疑いようの無い事実ですが」

 俺がそう言って噂を否定すれば、鍛治屋敷は胸を撫で下ろし、ホッと安堵している様子だった。

「そうか、それならいいんだ。噂が只の噂に過ぎないと言うのなら、あたしはそれを否定し、噂を信じてしまっている開発スタッフ達を諭せばいいだけの事だからね。だからワンコくん、キミも彼らを諭すのに、協力してくれるかい?」

「勿論です!」

 そう言って彼女の要請を快諾した俺に、鍛治屋敷は礼の言葉を述べる。

「ありがとう、ワンコくん。キミがそう言ってくれれば、キミや小菅くんの上司であるあたしとしても力強い限りだよ。それじゃあ、この話は一旦これでお終いだ。キミも小菅くんの事を気遣いながら、デバッグ作業に精を出してくれたまえ」

「ええ、分かりました」

 そう言って彼女の要請を重ねて快諾した俺は鍛治屋敷をその場に残したまま会議室を後にすると、暖房が効いたオフィスを縦断し、自分のデスクに腰を下ろすと同時に業務を再開した。そして時が経つのを忘れてデバッグ作業に没頭し続ければ、やがて終業時刻が差し迫る頃になってから、不意にとんとんと肩を叩かれたので背後を振り返る。

「やあ、小菅さん。どうしたの?」

 果たしてそう言った俺の言葉通り、そこに立っていたのは、開発スタッフ達の間で囁かれる噂の張本人である小菅千里その人であった。

「……実は、犬塚さんにお伝えしておきたい事がありまして」

「うん、何かな?」

「……急な話ですけど、あたし、本日付けで退職します。もう明日からは、ここには顔を出しません」

 何を考えているのか分からない無愛想な表情と口調でもってそう言った小菅の突然の報告に、まさに虚を突かれる格好になってしまった俺は眼を剥いて言葉を失いながら、驚きを隠せない。

「え? 退職? 本日付けで? それはまた随分と急な話だけど……勿論、鍛治屋敷さんや親会社の人事部には、もう話は通してあるんだよね? それにしても、どうせあと数ヶ月もすれば会社が倒産して自動的に解雇されるって言うのに、何でまた急に退職する事にしたんだい?」

「……まあ、そうですね。どうせ解雇されるなら再就職が決まっている次の職場に、今すぐにでも顔を出して、一日も早く慣れ親しんでおきたいと思っただけの事です。どうせこの会社には、もう、何の未練もありませんから」

 驚くばかりの俺の問い掛けに、やはり何を考えているのか分からない無愛想な表情と口調でもってそう言って、新人デザイナーである小菅は返答した。そしてそんな彼女に、俺は遺憾と悔恨の言葉を投げ掛ける。

「そうか、それは非常に残念だ。出来れば小菅さんには、俺達が開発している『クラースヌイ・ピスタリェート』の最新作に最後まで関わってもらって、是非ともゲームを完成させる喜びを実感してから再就職してほしかったんだけどね。うん、返す返すも、残念で仕方が無いよ」

「……はあ、そうですか。ですけどあたしは、もう人を殺すようなゲームにも何の未練もありませんので、どうぞ気にしないでください。それでは、もうこれで帰らせていただきます。短い間ですが、お世話になりました。さようなら」

 ぺこりと小さく頭を下げながらそう言って踵を返し、反射的に「ああ、うん、さようなら」と言った俺と眼も合わさぬままとっととオフィスから立ち去ってしまった小菅の立ち居振る舞いは、まさに鰾膠にべも無いとでも表現すべき無愛想な態度そのものであった。

「……」

 小柄で痩せぎすであった小菅の、人並み外れて小さな背中を見送った俺は眼を瞑って言葉を失いながら、オフィスの一角の自分のデスクに腰を下ろしたまま沈痛な面持ちで思い悩まざるを得ない。

「ケ、ケケケケンケンさん? こ、こここ、こす、小菅さんは、ももももう帰っちゃいましたか?」

 すると不意にそう言って至近距離から問い掛けられたので、沈痛な面持ちを維持したまま瞑っていた眼をそっと開けてみれば、そこには気遣わしげな表情の柴小春が立っていたので少しばかり驚く。

「ああ、誰かと思ったら、柴さんか。うん、小菅さんだったら突然の退職の報告もそこそこに、脇目も振らずにとっとと帰っちゃったよ。いくらこの会社と仕事に未練が無いからと言ったって、もう少しくらい別れを惜しんでくれても罰は当たらないと、俺は思うんだけどさ」

「そ、そそそそうですか……さ、最後に一言くらい別れの挨拶を交わしておきたかったんですけど、ざ、ざざざ、ざん、残念です」

 義理人情に厚い性質たちらしい柴はそう言って、退職を希望する小菅との暇乞いとまごいの機会を逸してしまった事を、殊更残念がっている様子であった。そしてそんな柴は、沈痛な面持ちを崩さない俺の様子を訝しみながら、やはり気遣わしげな表情と口調でもって問い掛ける。

「ケ、ケンケンさん、どどどどうしたんですか? も、ももも、もし、もしかしてケンケンさんってば、こここ小菅さんが退職したのは、じ、じじじ、じぶ、自分のせいなんじゃないかとか考えてしまってはいませんか?」

 そう言った柴に、まさに俺は、図星を突かれる格好になってしまっていた。

「まあ、うん、確かに柴さんの言う通りかな。俺が居なければ寛治は俺と小菅さんとの間に男女の関係があるんじゃないかと早合点する事も無かった筈だし、そもそも寛治のコンプレックスの原因の一端を俺が担っている訳だし、そう思うと、どうしても責任を痛感せざるを得ないよ」

 自分のデスクに腰掛けた俺が溜息交じりにそう言えば、キャラクターの表示周りを担当するプログラマーであり、また同時に口約束とは言え俺の婚約者でもある柴は慰撫と慰安の言葉を口にする。

「か、かかか、かん、考え過ぎですよ、ケ、ケンケンさん。ケケケケンケンさんは優しい人ですから、じ、じじじ、じぶ、自分は全ての親しい人達を助けられると過信しているのかもしれませんが、ひひひ一人の人間が為し得る事なんて、た、たたた、たか、高が知れているものなんですからね? だだだだからいつまでもうじうじと思い悩まずに、も、ももも、もう、もうちょっとだけ無責任になってしまっても、かかか構わないんじゃありませんか?」

「もうちょっとだけ無責任になってしまっても構わない、か……確かに、その通りなのかもしれないな」

 柴に諭された俺はそう言って天を仰ぎ、肩の荷が下りたと言うか不安が取り除かれたと言うべきか、とにかく少しだけ心が軽くなったような気がした。

「と、ところでケンケンさんは、ももももう小菅さんに関する噂は、み、みみみ、耳にされましたか?」

 すると話題を変えるような格好でもってそう言って、小菅の噂に関して柴が問い掛けたので、問い掛けられた俺は再びの溜息と共に返答する。

「ああ、聞いてるよ。小菅さんが寛治を焚き付けて、俺と警察官を殴らせたって言うんだろ? 一体どこの誰が最初に吹聴し始めたんだか知らないが、そんな根も葉も無い噂を信じる人が居る事が信じられないね」

「え、ええ、ま、ままままったくです。ああああの小菅さんが、そ、そそそ、そん、そんな事する筈が無いじゃありませんか! ほ、本当に一体誰が、ああああんな噂を流し始めたんでしょうね!」

「ああ、そうだな、まさにその通りだ」

 俺と柴はそう言って、我らが『クラースヌイ・ピスタリェート』開発チーム内でまことしやかに囁かれている噂の出所に対し、まるでその発生源である人物を糾弾するかのような言葉を口々に述べ合った。そしてそろそろ話を切り上げて帰宅の途に就こうかと思ったところで、不意に一人の背が高い女性がこちらへと歩み寄り、雑談を交わす俺ら二人に問い掛ける。

「あらあらあら? ケンケンさんと柴さんってば、さっきから見ていれば随分と仲が良さそうに、話に花を咲かせているんじゃなくて? ですけどね、柴さん? ケンケンさんはあたしの未来の旦那様なのですから、たとえ仕事の上で話し合わなければならないとしても、あまり馴れ馴れしくしないでいただけるかしら?」

 果たしてそう言った背の高い、乳や尻が大きくスタイルが良いものの顔立ちばかりは十人並みかそれ以下と言ったちょっと残念な容姿の女性は、このチームのアシスタントを務める上別府美香その人であった。

「それとも柴さん、まさかあなた、人の未来の旦那様を横取りしようって言う魂胆じゃありませんよね? 駄目ですよ? そんな恥知らずで、人の道に外れた行為は御法度ですからね?」

 そして柴を睨み据えながらそう言った彼女の言葉から察するに、どうやら一度噛み付いたら雷が鳴るまで放さないと言われるスッポンの様に執念深い性分の上別府は、いつかは俺と結婚するつもりだと言う自分本位で自分勝手な願望を未だ未だ諦め切れないでいるらしい。

「あら? な、ななな、なに、何を言ってるんですか、ううう上別府さん? ケ、ケケケケンケンさんはあなたではなく、あ、あああ、あた、あたしと結婚するつもりなんですからね?」

 すると彼女を嘲笑うかのような格好でもって柴がそう言えば、嘲笑われた上別府はその十人並みの顔に浮かべていたにたにたとした湿った薄ら笑いから一転し、まるで鬼か般若の様な憤怒の形相をこちらに向ける。

「何ですって? ケンケンさんが、あなたと結婚つもりですって? ちょっとケンケンさん、この女の言っている事は、本当なのかしら?」

「ああ、本当だ。未だ口約束の段階ではあるけれど、俺は近い内に、柴さんと結婚するつもりだよ」

 首を縦に振りながら、毅然とした態度でもってそう言った俺の言葉に、勢い上別府の怒りと困惑の度合いは頂点に達さざるを得ない。

「は? 何なんですの、それ? ケンケンさんってば、あたしと将来の約束をしておきながらこんな女と結婚するつもりだなんて、一体どう言う事なのかしら? 説明してくださる?」

 口調こそ丁寧でありながら、そう言って鬼気迫る剣幕でもって俺を問い詰める上別府の眼はぎらぎらと怪しく光り輝き、少しでも彼女の意に反する言動を選択すれば今にも殺されてしまいそうな悪意と殺意に満ち満ちていた。

「えっと、それはその……」

 上別府に問い詰められた俺はそう言って、彼女の剣幕に圧倒されるような格好でもって言い淀んだ。するとそんな俺と上別府との間に、事の成り行きを見守っていた柴が割って入る。

「ちょ、ちょっと上別府さん、やややめてください! ケ、ケケケケンケンさんが困っているじゃありませんか! そ、それにあたし、ききき聞きましたよ? あ、あなたはケンケンさんに付き纏ってばかりいますけど、かかか肝心のケンケンさんはあなたの事を、な、何とも思っていないって話じゃありませんか! そ、そんなあなたがあたしの婚約者であるケンケンさんを未来の旦那様呼ばわりするのは、は、ははは、はっき、はっきり言って迷惑です! そそそそんな迷惑行為は、い、いいい、いま、今すぐめてください!」

 俺と上別府との間に割って入ったどもり症の柴はそう言って、彼女が俺の婚約者である事をはっきりと明言しつつ、事実無根の狂言を吹聴して回る上別府の行為の迷惑千万ぶりを断罪してのけた。すると互いの立場が完全に逆転し、今度は彼女自身が問い詰められるかのような格好になってしまった上別府は進退窮まったのか、その十人並みの顔を歪めながら逆ギレし始める。

「ちょっと柴さん、人聞きの悪い事を言わないでくださるかしら? あたしは別にケンケンさんに付き纏ってはいませんし、ケンケンさんだって、あたしの事を何とも思っていない訳じゃないんですからね?」

「そそそそんなもの、く、くくく、くち、口先だけで何とでも言い繕えるような、ああああなたの感想に過ぎないじゃないですか! そ、そそそそれにあたしはケンケンさんから直接、あ、あああ、あな、あなたがケンケンさんの只のストーカーに過ぎないって言う言質を取っているんですからね?」

「何ですって?」

「な、ななな、なに、何よ!」

「このどもり女!」

「ううう嘘吐き女!」

 売り言葉に買い言葉の様相を呈しつつ、柴と上別府の二人はそう言って互いを口汚く罵り合い、溜め込んでいた日頃の鬱憤を吐き出すかのような格好でもって口喧嘩が勃発してしまった。

「何だ何だ?」

「喧嘩か?」

 すると同じオフィス内で業務に邁進していた他の開発スタッフ達が彼女らの様子に気付くと、口々にそう言って色めき立ちながらこちらへと歩み寄り、口喧嘩を繰り広げる女二人を物珍しそうにぐるりと取り囲む。

「一体何様のつもりなのよ、この泥棒猫!」

 ざわざわとざわめく開発スタッフ達に遠巻きに取り囲まれた衆人環視の状況下で、フィクションの世界以外では聞き慣れない『泥棒猫』と言う比喩を駆使しながらそう言った上別府は、柴の少しばかりカールしたボブカットの髪を強引かつ力任せに掴み上げた。

「痛っ!」

 女の命とも言える髪を掴み上げられた柴は苦悶の表情を浮かべながらそう言うと、眼には眼を、歯に歯をとでも言わんばかりに、眼の前の上別府の髪を負けじと掴み上げ返す。

「ちょっと、痛いじゃない! 何すんのよ!」

 自分が先に手を上げたにもかかわらず、髪を掴み上げ返された上別府はそう言って悪態を吐き、まるで自分こそが被害者だとでも言いたげな口振りであった。

「ああああんた、そ、そそそ、その、その手を放しなさいよ! ぶ、ぶぶぶ不細工で陰険な女狐のくせに!」

「あんたこそ放しなさいよ、満足に化粧も出来ないような根暗の陰キャのくせに!」

 そして柴と上別府はそう言って悪し様に罵り合いながら、互いの髪の毛をむしり取らんばかりに掴み上げたまま女同士の醜くも美しくない痴話喧嘩を繰り広げ続けるものの、俺自身もまた喧嘩の当事者の一人として二人のキャットファイトを黙って見過ごす訳にも行かない。そこで今度はこの俺が彼女らの間に割って入るような格好でもって、二人の喧嘩を仲裁する。

「ちょっとちょっと、二人とも、いくら見解が食い違うからと言って、無暗に暴力を振るうのばかりは感心出来ないよ。ほらほら、柴さんも上別府さんもかっかせずに、そんな風にお互いの髪の毛を毟り合ったりしないでさ。少しは冷静になって、落ち着いて話し合おうよ。ね?」

 俺は努めて平静を装いながらそう言って二人の女達の痴話喧嘩に終止符を打とうとするものの、既に怒りのボルテージが最高潮に達してしまっている柴と上別府が、そんな俺の仲裁の言葉を黙って聞き入れる筈も無い。

「ケンケンさんは、黙っててくださらないかしら?」

 すると激しく興奮しつつもそう言った上別府は、柴に髪の毛を掴み上げられたまま、痴話喧嘩を仲裁すべく彼女らに歩み寄った俺の胸を力任せに突き飛ばした。突き飛ばされた俺は「おっとっと」と言って足をもつれさせながら体勢を崩し、その場に後ろ向きに倒れ込んで、どさりと床に尻餅を突く。

「ちょ、ちょちょちょちょっとあんた、あ、あああ、あた、あたしのケンケンさんに、ななな何するのよ!」

 尻餅を突く俺の姿を眼にした柴はそう言って、やはり彼女もまた髪の毛を掴み上げられたまま構えた右手を振り抜き、渾身の力でもって上別府の左の頬を引っ叩いた。頬を引っ叩かれた上別府は頭蓋骨の中で脳髄が揺られた事によって一瞬だけ意識が飛んだのか、柴の髪の毛を掴み上げていた手を放し、よろよろとよろめいて踏鞴たたらを踏む。

「ケ、ケケケケンケンさん、だだだ大丈夫ですか?」

「え? あ、ああ、俺はこの通り何ともないが、そう言う柴さんの方こそ、大丈夫なのかい?」

 上別府が手を放した事によって自由の身となった柴の問い掛けに、俺は床に尻餅を突いたままそう言って、逆に彼女に問い返した。

「ああああたしは大丈夫、ちょ、ちょちょちょちょっとだけ、かかか髪の毛が抜けちゃっただけだから」

 柴はそう言って俺の問い掛けに返答するものの、そんな彼女に引っ叩かれた上別府は飛んでいた意識が回復すると同時に、引っ叩かれた事による痛みと屈辱でもって最高潮に達していた怒りのボルテージがとうとう限界を突破する。

「きいいいぃぃぃっ!」

 怒りに我を忘れた上別府は眼を白黒させて全く意味の分からない奇声を発しつつも、俺のデスクの天板の上のペン立てから一振りのペーパーナイフを抜き取ると、それを逆手に持って構えながら勢い良く振り下ろした。そして普段俺が封書の開封に利用しているそのペーパーナイフの切っ先を、呆気に取られている柴の胸元に深々と突き刺してしまったのである。

「あ……?」

 怒りに我を忘れた上別府の手による反撃の憂き目に遭ってしまった柴はそう言って、彼女の胸元に深々と突き刺さったペーパーナイフの刀身を不思議そうな眼差しでもって凝視したまま、言葉を失わざるを得ない。

「柴さん!」

 床に尻餅を突いていた俺はそう言って彼女の名を呼びながら立ち上がると、刺された事によるショックでもって膝から力が抜けたのか、その場にへなへなとへたり込んでしまった柴の元へと駆け寄った。

「柴さん! しっかりしてくれ、柴さん! 柴さん!」

 俺はそう言って柴の名を連呼しつつ彼女の身を案じるが、そうしている間にも白いタートルネックのニットに包まれた柴の胸元はじわじわと滲み出た鮮血によってじっとりと濡れそぼり、そこに突き刺さったままのペーパーナイフの刀身を中心にしながら真紅の警告色に染まり始める。

「ケ、ケケケケンケンさん……ああああたし……こ、こここ、この、このまま死んじゃうのかな……?」

「大丈夫だ、人間はこの程度の事で死んだりしないから! 俺が、絶対に、キミを死なせたりはしないから! だから柴さん、気を確かに、そのまま身体の力を抜いて深呼吸を繰り返して!」

 彼女自身の胸元から滲み出る結構な出血量に怯えながら弱気になる柴を、俺はそう言って懸命に鼓舞し続けるものの、実を言えば本当に彼女が死なないかどうかの確証はどこにも無い。そしてそんな俺と柴の背後では、やはり自分がどれほど大それた事をしてしまったのかに気付いたらしい上別府もまたショックでもって膝から力が抜けたのか、焦点の合わない虚ろな眼でもって虚空を見つめたままその場にへたり込んでしまっていた。勿論彼女が今更、刑事責任を問われるべき自らの凶行を悔い改めたとしても、それは詮無い事である。

「どうした! 一体何があった!」

 するとようやく騒ぎを聞き付けたのか、他の開発スタッフ達に遅れて姿を現した長身で渋谷のギャル風の容姿の女性、つまりアートディレクターとして俺の直属の上司を務める鍛治屋敷がそう言って人垣を掻き分けながらこちらへと駆け寄った。

「柴さんが、上別府さんに刺されました!」

「何だって?」

 俺の状況報告の言葉を耳にすると同時に、床にへたり込んだまま真っ赤な鮮血にまみれつつある柴の様子を眼にした鍛治屋敷はそう言って驚くと、日サロで小麦色に焼いたその顔から見る見る内に血の気が引いて行く。

「誰か、早く救急車を! ああ、横澤よこざわくん、キミが通報してくれ! それと、刺さったナイフは抜くんじゃないぞ? 塞がっていた傷口が開いて、かえって大量に出血するかもしれないからな!」

 顔面蒼白の鍛治屋敷がそう言って指示すれば、彼女に指名された横澤と言う名の開発スタッフ達の内の一人がジャケットの内ポケットからスマートフォンを取り出し、119番に通報して救急車の出動を要請した。

「ワンコくん、一体どうして、こんな事になったんだ?」

「はい、俺と柴さんが雑談していたら、そこに上別府さんがやって来て、彼女ら二人の内のどちらが俺と結婚するのかを争点にしながら激しい口論になってしまったんです。それで、柴さんに頬を叩かれた上別府さんが逆上し、机の上に置いてあった俺のペーパーナイフでもって柴さんを刺してしまったと言う訳なんですよ」

「そうか、成程」

 首を縦に振ってうなずきながらそう言った鍛治屋敷は、俺だけでなく、虚ろな眼でもって虚空を見つめたままの上別府にも事情を聴取する。

「上別府くん、今ワンコくんが言った事は、事実なのかい? 本当にキミが、キミ自身の手でもって、柴くんを刺してしまったんだな?」

「あたしは……あたしは……」

 直属の上司である鍛治屋敷に問い質された上別府は、やはり虚空を見つめたままぶつぶつと譫言うわごとを呟くかのような表情と口調でもってそう言うばかりで、どうにも要領を得ない。

「……あたしは、悪くありません!」

 すると床にへたり込んでいた上別府は不意にかっと眼を見開き、まるで捲くし立てるかのような早口でもって、自己弁護の言葉を並べ立て始める。

「あたしは、何も悪くありません! そこに居る、根暗のどもり女が悪いんです! せっかくあのチビを会社から追い出す事に成功したって言うのに、そこのどもり女はいつまでも会社に居座って、あろう事かケンケンさんと結婚するつもりだとか言い始めるじゃありませんか! しかもよりにもよって、顔を、このあたしの顔を引っ叩きやがって! 許せない! 許される筈が無い! だからナイフで刺したって、あたしが罪に問われるいわれはありません!」

 上別府はそう言って自らの正当性を声高に主張するものの、そんな彼女の支離滅裂な言い分に軽々に納得するような奇特な者が、この場に居合わせる筈も無い。そして鍛治屋敷は、上別府の「あのチビを会社から追い出す事に成功した」と言う発言にこそ関心を寄せる。

「ん? あのチビ? 上別府くん、今キミが口にしたあのチビと言うのは、一体誰の事なんだい?」

「あのチビは、あのチビに決まってます! ケンケンさんを殴った禿げのデブをけしかけたって言う噂を流したら、まんまと退職してくれたんだから、清々するじゃありませんか!」

 すっかり気が動転した様子でもってそう言った上別府の言葉から推測するに、どうやら『あのチビ』と言うのは小菅の事で、『ケンケンさんを殴った禿げのデブ』と言うのは寛治の事だと思われた。

「つまり、小菅くんが小林くんを焚き付けてワンコくんを殴らせたと言う噂を開発チーム内に吹聴して回ったのは、キミなんだな?」

「ええ、そうですよ? それが、何か?」

 事も無げに、さも当然とでも言いたげな表情と口調でもってそう言った上別府は、何故だか分からないが突然声を上げて愉快そうに笑い始めてしまったのだから手が付けられない。そして声高らかに笑い続けた末に、興奮のあまり頭に血が上り切った彼女は不意に白眼を剥くと、そのままふっと気を失って、まるで糸が切れた操り人形の様にその場に昏倒してしまった。後に残された俺と鍛治屋敷、そして胸を刺された柴とその他大勢の開発スタッフ達は気を揉みながら、救急車の到着を待ち侘びるばかりである。

「ああ、全く、こんな大事な時期に何て事だ。これは本当に、大変な事になってしまったぞ」

 俺の腕の中で精神的なショックと肉体的な苦痛に耐え忍び続ける柴の姿と、気を失って昏倒した上別府の姿を交互に眺め渡しながら、まるで解決策の存在しない難問を出題されてしまった苦学生の様に頭を抱えつつも鍛治屋敷がそう言った。そしてそんな彼女の不安と予感が的中したのか、やがて到着した救急車でもって病院に搬送された上別府は懲戒解雇され、一命を取り留めた柴は会社に顔を出さなくなってしまうのである。

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