第八幕:real


 第八幕:real



 そして今日もまた、俺は秋葉原UDXの地上24階の㈱コム・アインデジタルエンターテイメントのオフィスへと出社し、自分のデスクに腰を下ろしながらデバッグとバグ修正に邁進していた。

「ふう」

 デバッグに勤しんでいた俺が一旦デスクの天板の上にゲームパッドを置き、そう言って一息吐きながらごしごしと眼を擦っていると、すぐ後ろのデスクに腰を下ろす寛治がぼりぼりとスナック菓子を貪り食いながらそんな俺に声を掛ける。

「お? どうしたケンケン、疲れ眼か?」

「ああ、そうだな。デザインデータをフィックスしてからこっち、もう一ヶ月以上も週末の土日以外は早朝から深夜まで一日中モニタと睨めっこしっ放しだから、眼精疲労が酷くて今にも眼が潰れちまいそうだよ」

 俺は如何にもわざとらしく眼を擦りながらそう言って、俺と同じくデバッグに勤しむ寛治と共に、げらげらと声を上げて笑い合った。そして壁掛け時計をちらりと一瞥して現在の時刻を確認し、そろそろ休憩すべき頃合いだと判断すると、自分のデスクから腰を上げる。

「ん? ケンケン、どこに行くんだ?」

「ああ、ちょっと廊下の自販機で、コーヒーか何か眠気覚ましになりそうな物でも買って来る事にするよ。こんな暖房を効かせまくった蒸し暑い部屋に閉じ篭もって、ジッと椅子に座ったまま延々と単純作業を繰り返し続けていたら、眠くて眠くてどうにも仕方が無いからな」

 そう言った俺はおもむろに席を立ち、数多の開発スタッフ達が業務に邁進するオフィスを縦断して廊下に出ると、その廊下に設置された清涼飲料メーカーの自動販売機でもってペットボトルの無糖のコーヒーを購入した。そしてさっそくその場でキャップを開けて苦く酸っぱいコーヒーをちびちびと飲み始めれば、ちょうど女子トイレの方角からこちらへと歩み寄って来る、背が高くて乳や尻が大きくスタイルが良い一人の女性の姿が眼に留まる。

「あ、上別府さん……えっと……お疲れ様」

 果たしてちょっとだけビビりながらそう言った俺の言葉通り、こちらへと歩み寄りつつあるスタイルの良い女性は、以前俺の自宅に強引に上がり込んで一悶着起こした事もある上別府美香その人であった。

「ふん、だ!」

 するとそう言ってふんと鼻を鳴らした上別府は俺の眼の前を素通りし、ぷいと顔を背けながら廊下の先の扉の向こうへと姿を消してしまうばかりで、取り付く島が無いとはまさにこの事である。

「どちらかと言うと、あの一件の被害者は俺の方なんだけどなあ……」

 上別府に無視されてしまった俺はそう言って深い深い溜息を吐くものの、果たして彼女の様にエキセントリックでアバンギャルドな性分の女性が一体何を考えているのかいないのか、その行動原理は男の俺にはさっぱり理解する事が出来ない。そして無糖のコーヒーを飲み干し終えた俺が空になったペットボトルをゴミ箱に放り込み、廊下を渡った先のオフィスに再び足を踏み入れると、そんな俺を上別府とはまた別の女性が背後から呼び止める。

「ああ、ワンコくん、ちょうど良いタイミングでもって通り掛かってくれたね。今から少しばかり、キミと話し合いたい事があるんだが、ちょっとだけ時間を都合してもらえるかい?」

 果たしてそう言って俺の事を『ワンコくん』と呼ぶこの世で唯一の人物、つまり長身で渋谷のギャル風の容姿の女性は、アートディレクターとして俺の直属の上司を務める鍛治屋敷静香その人であった。

「ええ、大丈夫ですよ? それで、一体俺に、何の用ですか?」

「それなら、今から会議室を予約するのも面倒だし、コミュニケーションゾーンに行こうか」

 そう言った鍛治屋敷に先導されながら、俺と彼女の二人はコミュニケーションゾーンと呼ばれる会議や会食が出来るオフィスの一角へと移動し、そこに設置されたソファに腰を下ろすなり鍛治屋敷が口を開く。

「実を言うと、あたしがデバッグ作業を委託していた外部の会社が今度の祝日も含めた連休中も休みだった事をすっかり忘れていたせいで、デバッグのスケジュールに穴が開いてしまったんだ」

 彼女の向かいの席に俺が腰を下ろし切るその前に、申し訳無さそうな表情と口調でもって、鍛治屋敷は開口一番そう言った。

「え? だとしたら、その日の分のデバッグの予定は、どこで穴埋めするつもりなんですか? もう既に、マスターアップまでのデバッグのスケジュールはぎちぎちに組んでありますから、一日の余裕もありませんよ?」

「ああ、その通りだ。だから申し訳無いが、キミら正社員のデザイナー達は全員今度の連休中も出勤し、外部の会社が消化する予定だったデバッグのスケジュールの穴を埋めてはもらえないかい? 勿論休日出勤の分だけマスターアップ後に代休を取得する事を認めるから、どうか、頼む! この通りだ!」

 鍛治屋敷はそう言って、まるで神仏をあがたてまつるかのように合掌しながら俺を拝み倒そうとするものの、拝まれてしまった俺にとってはまさにいい迷惑そのものである。

「そうは言ってもですね、鍛治屋敷さん? 今はワークライフバランスに関する社内規定に則って、基本的に、休日出勤は許可されていない筈じゃありませんでしたか? それでも休日出勤してくれと仰るのであれば、当然の事ながら、人事部と渥見本部長の許可は得ているんですよね?」

「ああ、勿論だ。既に人事部と渥見本部長の許可は得ているから、その点は、キミが心配しなくても何の問題も無い。だからワンコくん、頼む! 連休中の休日出勤に同意した上で、デバッグに協力してくれ! この通りだ!」

 何が問題無いのかはさっぱり分からないものの、直属の上司である鍛治屋敷からここまで執拗に懇願されてしまっては、最早一介のデザイナーに過ぎない俺に彼女の要請を断る術は無い。

「分かりました、鍛治屋敷さんにそこまで真剣に頼まれたら、いくら俺だって協力する事にやぶさかではありませんからね。だからスケジュールを調整し直して俺自身も出勤しますし、これから皆のデスクを巡回して、他のデザイナー達も休日出勤に協力してくれるよう説得してみるつもりです。それでいいですか?」

「ああ、勿論だ。ワンコくん、キミにそう言ってもらえると、上司であるあたしとしても助かるよ」

 俺の返答を耳にした鍛治屋敷はそう言って、渋谷のギャル風の衣服の下の胸を撫で下ろしながら、ホッと安堵の溜息を漏らしてみせた。

「それではさっそくですが、皆を説得して回りましょうか。責任の所在をはっきりさせるために、鍛治屋敷さんも、俺に同伴して説得に協力してくださいね?」

 しかしながらデザイナー達を説得する事を決意した俺がそう言った次の瞬間、不意に小柄で痩せぎすの第三の女性が姿を現し、コミュニケーションゾーンに設置されたソファから腰を上げようとした俺と鍛治屋敷に問い掛ける。

「……あの、鍛治屋敷さんも犬塚さんも、ちょっとよろしいですか?」

「ん? 何だい、小菅くん?」

 すると鍛治屋敷はそう言って、俺ら二人に問い掛けた小柄で痩せぎすの第三の女性、つまり新人デザイナーである小菅千里に逆に問い返した。

「……ええ、実はお二人に、ちょっと相談したい事がありまして」

「そうか、それじゃあついでだから、今ここで聞こうか」

 鍛治屋敷はそう言ってコミュニケーションゾーンに設置されたソファに座り直し、小菅の相談とやらに耳を傾けようとするものの、彼女はそれに応じない。

「……いえ、それがですね、出来ればここ以外の場所でお話ししたいんですが……駄目ですか?」

 小菅がそう言えば、鍛治屋敷は腕を組んで暫し逡巡し、壁掛け時計をちらりと一瞥して現在の時刻を確認してから提案する。

「だったら今日はもう終業時刻が差し迫ってる事だから、これから一緒に退社して、どこかで三人揃って夕食でも食べながら小菅くんの相談とやらに乗る事にしよう。小菅くんもワンコくんも、それで構わないかい?」

「……はい、構いません」

「ええ、そうですね。俺もそれで構いませんよ」

 小菅と俺がそう言って彼女の提案を承諾すれば、提案した鍛治屋敷は「よし、それじゃあ終業の打刻を終えて退社したら、1階のエントランスで待ち合わせする事にしよう。二人とも、それでいいね?」と言ってから再び席を立ち、そのまま彼女のデスクの方角へと立ち去った。そこで俺と小菅の二人もまたそれぞれのデスクに腰を下ろしてデバッグに勤しみ続け、終業時刻を迎えると同時に帰り支度と打刻を終えると、秋葉原UDXの1階のエントランスを目指して移動を開始する。

「よし、行こうか」

 やがて仕事を終えた数多のサラリーマン達が忙しなく行き交う秋葉原UDXの1階のエントランスで合流すると、そう言った鍛治屋敷に先導されながら、俺ら三人は秋葉原駅の方角へと足を向けた。

「それで鍛治屋敷さん、これから、どこで話し合います?」

「そうだな、ちょっとあたしはヨドバシで買いたい物があるから、その上のレストラン街の店にでも入って、小菅くんの相談とやらに乗る事にしよう。小菅くんも、それで構わないね?」

「……はい」

 小菅がそう言って鍛治屋敷の提案に同意すれば、俺ら三人は秋葉原駅から程近い位置にそびえ立つヨドバシカメラマルチメディアAkibaを目指して歩き始め、やがてその巨大な店舗の正面玄関前へと辿り着く。

「ああ、これだこれだ」

 巨大なヨドバシカメラマルチメディアAkibaの店舗内へと足を踏み入れた俺ら三人は一旦5階へと移動し、照明器具売り場でそう言った鍛治屋敷がLED電球を購入するのを見届けてから、やがて8階のレストランフロアへと移動した。そして少しだけアルコールを摂取したいと言う小菅の要望に従って、ビアレストランである『クラフトビールタップヨドバシAkiba店』に入店すると、壁際の四人掛けのテーブル席に腰を下ろす。

「特に理由も無いけど、取り敢えず、乾杯しようか?」

「ええ、そうしましょう」

「それじゃあ、乾杯!」

「乾杯!」

「……乾杯」

 鍛治屋敷の音頭でもってそう言って、乾杯を唱和した俺ら三人は各自が手にしたグラスをかちんと打ち鳴らし、そのグラスに注がれたクラフトビールをごくごくと豪快に飲み下した。小規模な醸造所ブルワリーの手によって醸造されたクラフトビールの濃厚な風味と爽やかな苦みが喉と胃腸を潤すと同時に、鼻を抜ける麦芽とホップの香りが、何とも言えず心地良い。そしてビールと一緒に注文したスペアリブやフィッシュ&チップスをむしゃむしゃと咀嚼しつつも、やがて程良くアルコールが脳を麻痺させ始めた頃合いを見計らって、鍛治屋敷が本題を切り出し始める。

「それで、小菅くん? あたし達に相談したい事と言うのは、具体的に、どう言った事なのかな?」

 都合三杯目のクラフトビールが注がれたグラスを手にした鍛治屋敷がそう言って、彼女の向かいの席に腰を下ろす小菅に問い掛けた。すると問い掛けられた小菅はじっくりと言葉を選びつつ、おずおずと口を開く。

「……実は、以前から鍛治屋敷さんから打診されていた、PF社への移籍に関してなんですが……」

「うん、正確にはPF社の子会社への移籍に関してだが、それがどうかしたのかい? 確か小菅くんは、移籍するかどうかの返答を保留していた筈だが?」

 そう言った鍛治屋敷の言葉からすると、どうやら彼女は既に、新人デザイナーである小菅にも㈱PFエンターテイメントの子会社への移籍を打診し終えているらしい。

「……ええ、そのPF社の子会社への移籍に関する件なんですが、その移籍する予定のメンバーの一覧から、あたしの名前を除外してもらいたいんです。あたしはわざわざ犬塚さんのコネを頼って移籍する気もありませんし、そもそもゲーム業界そのものに、これ以上身を置く気もありませんから」

 俺の斜向かいの席に腰を下ろす小菅はきっぱりとそう言い切って、彼女自身は㈱PFエンターテイメントの子会社に移籍するつもりが無い事を、この上無くはっきりと断言してみせた。

「そうか、そうなのか。出来ればもう少しだけでもキミと一緒の職場で働いてみたかったんだが、残念で仕方が無いよ。しかしながら小菅くん、キミが自らの意志でもってこの業界から去ると言うのなら、あたしにそれを引き止める権利は無い。ああ、返す返すも、残念で仕方が無いね」

 ゲーム業界から足を洗う事を決意した小菅の言葉に、鍛治屋敷はかぶりを振りながらそう言って、深い深い溜息交じりにひどく落胆せざるを得ない。そしてそんな鍛治屋敷の様子を横眼でうかがいつつ、俺は少しばかり酔ってしまっているらしい小菅に改めて問い掛ける。

「それで、小菅さん? 小菅さんは俺や鍛治屋敷さん達と一緒に移籍するつもりが無いのだとしたら、うちの会社が倒産して解雇された後の身の振り方は、もう決まっているのかな?」

「……ええ、あたしも犬塚さんと同じく学生時代のコネをフル活用して、ファンシーグッズを製作している会社のデザイン部に中途入社させてもらう事になりました。ですからどうぞ、お気遣い無く」

「そうか、それを聞いて、俺も安心したよ。何と言っても小菅さんは、以前も忘年会の席で「本当は『トゥムトゥム』や『どうぶつの村』なんかの、もっと可愛いらしいキャラクター達が夢の世界で幸せに暮らすようなゲームが開発したかった」って言ってた程だからね」

「……ええ、本当に、まさに文字通りの意味でもってその通りですね。これでもう、人を殺すための武器や兵器をデザインし続けるような、何の意味も無い荒んだ毎日とはおさらばです」

 俺の問い掛けに対してそう言って返答した小菅は、やはり少しばかり酒に酔ってしまっているのか、普段の彼女らしからぬ歯に衣着せぬ直接的な物言いでもって不平不満を吐露して止まない。

「……とにかくですね、昨年の春先に入社してから今日こんにちまでに任された仕事の数々は、あたしにとってはどれもこれも地獄そのものでした。毎日毎日機関銃やら装輪装甲車やら指向性散弾地雷やらと言った、人を殺すための武器や兵器のデザインばかり任されて、入社する際に希望した筈の可愛らしいキャラクターのデザインなんて一切任される気配もありませんものね。それでも心を殺して我慢しながら不本意なデザインに従事し続ければ、何を勘違いしたのかデザインの依頼は益々増え続ける一方で、あたしの希望は無視され続けるだけですよ? だからあたしは自分の机の上にぬいぐるみやキャストドールを並べまくって、本当は自分はこんな仕事はしたくはないんだぞと言う事実を必死でアピールし続けていたと言うのに、いつまで経ってもその事実に誰も気付いてくれないじゃありませんか? 一体このチームのスタッフ達はどれだけ鈍感な感受性の持ち主なんだろうかと思い知らされつつも、あたしはいつか報われる日が来るんじゃないかと期待しながら、来る日も来る日も苦痛に耐え忍び続けるばかりで……」

 どうやら完全に酒に酔ってしまっているらしい小菅はクラフトビールが注がれたグラスを手にしたままぐちぐちとそう言って、虚空を見つめるその眼の焦点は合っておらず、もはや延々と愚痴を漏らし続けるだけの機械仕掛けのトーキングドールと化してしまっていた。そしてそんな彼女を前にした俺と鍛治屋敷の二人もまた同様に、いつ終わるとも知れない小菅の愚痴を延々と聞き続けるだけのマシーンと化さざるを得ない事は、自明の理である。

「……とにかく鍛治屋敷さんにしても犬塚さんにしても、もっと部下達や後輩達が何を望んでいるのかと言った点に気を配って、しっかりしてもらわないと困るのはあたし達なんですからね? ですからお二人とも……」

 その後も完全に酒に飲まれた小菅はそう言って、いつまでもいつまでも、彼女が置かれた境遇についての愚痴の数々を時間が許す限り延々と漏らし続けた。そして雪崩を打つような小菅の愚痴に終止符が打たれる気配も見せぬまま、やがて時計の針が午後十時を回るのを見計らい、不意に俺の隣の席に腰を下ろす鍛治屋敷がわざとらしく驚きながら立ち上がる。

「おっと、もうこんな時間じゃないか! 小菅くんの貴重な意見に最後まで耳を傾けていたかったものの、残念ながらあたしは所帯持ちなので、幼い子供達を寝かし付けるために急いで家に帰らねばならない! だからワンコくん、済まないが、あたしの代わりにキミが最後まで小菅くんの愚痴に付き合っていてあげたまえ! それとこれは、あたしからのせめてもの餞別だから、タクシー代だと思って受け取っておくように! それじゃあ、また明日!」

 まるで捲し立てるかのような早口でもってそう言った鍛治屋敷は、彼女の財布の中から抜き取った二枚の一万円札をテーブルの天板の上に素早く並べると、多くの酔客達で賑わう『クラフトビールタップヨドバシAkiba店』から脇目も振らずに足早に立ち去った。彼女が立ち去った後のテーブル席には俺と小菅の二人だけが取り残されており、つまり鍛治屋敷は姑息にも、俺に小菅の世話を押し付けたままさっさと逃げ帰ってしまったと言う訳である。

「マザファッカ!」

 俺はつたない英語でもってそう言ってサミュエル・L・ジャクソンばりの悪態を吐くものの、如何にハリウッドの著名な黒人俳優の真似をしてみたところで、泥酔した小菅と二人きりにされてしまったと言う状況は一向に好転しない。

「……マザ……ファカ? 一体何なんですか、犬塚さん? さっきから訳の分からない事を言ってないで、鍛治屋敷さんの分も、あたしの相談に乗ってくださいよ。そもそも犬塚さんはですね……」

 小菅はそう言って、その後もぐでんぐでんになるまで酒に酔ったまま、相談とは名ばかりの愚痴の数々を延々と飽きる事無く漏らし続けた。それはもはや愚痴と言うよりも、むしろ恨み節とでも表現した方が的を射ているのではないかと思われるほどの、聞くに堪えないような罵詈雑言の嵐そのものである。そしてそんな彼女の恨み節のボルテージが最高潮に達したところで、遂に『クラフトビールタップヨドバシAkiba店』が午後十一時の閉店時間を迎えた事により、俺と小菅の二人は半ば強制的にヨドバシカメラマルチメディアAkibaから退店させられたのであった。

「ほら、小菅さん? コーヒーを買って来てあげたから、これを飲んで、そろそろ酔いを醒ましなさいよ?」

 溜息交じりにそう言った俺が自動販売機で買って来てやった缶コーヒーを手渡せば、手渡された小菅はプルタブを引き開けたその中身をごくごくと飲み下し、カフェイン臭い小さなげっぷを漏らす。

「……ありがとうございます」

 そう言って感謝の言葉を口にした小菅と俺の二人は、退店させられたばかりのヨドバシカメラマルチメディアAkibaのすぐ傍の、秋葉原公園の中央にそびえ立つ街路樹の周囲のベンチに並んで腰掛けていた。ちなみにこの『秋葉原公園』と言うのは名前ばかりは立派だが、街路樹が一本だけ生えた駅前の僅かな空き地をそう呼称しているだけに過ぎない、芝生も遊具も何も無い只の広場である。

「どう? 少しは落ち着いた?」

「……はい」

 言葉少なにそう言った小菅はようやく酔いが醒めて来たらしく、今度は自分の数々の言動を顧みて猛省する、いわゆる『自己嫌悪ネガティブモード』に突入しているものと思われた。

「……すいません、何だかあたし、一人でべらべらと勝手な事ばかり言っちゃって。駄目なんですよね、昔っからお酒を飲み過ぎると愚痴が止まらなくなっちゃう事が分かっている筈なのに、どうしても他人に愚痴を聞いてもらおうとする欲求を抑え込む事が出来ないんです」

 今にも小雪が舞いそうな寒さの深夜の秋葉原の街の一角で、俺の隣のベンチに腰を下ろす小菅はそう言って反省しきりだが、俺はそんな彼女の失態を殊更に責め立てたりはしない。

「いや、別に、そんな些細な事は気にしないでいてくれよ。新入社員の愚痴を聞くのも上司や先輩社員の仕事の内なんだし、そうする事によって小菅さんの肩の荷が少しでも下りるなら、それに越した事は無いからね。だからこれからも、俺や鍛治屋敷さんに、どんどん仕事の愚痴をぶつけて来てくれればいいからさ。……ああ、だけど俺らと一緒の移籍はしないつもりなんだから、小菅さんの愚痴を聞けるのはこれが最後の機会なのかな? 何だかちょっと、寂しくなるね」

 俺が冗談交じりにそう言えば、小菅は未だ酔いが醒めてはいないのか、そんな俺の横顔を妙に熱っぽい眼差しでもって見つめている。

「……犬塚さん……」

 するとそう言って俺の名を口にした小菅は、何を思ったのかこちらへと身を寄せたまま俺の腕をぎゅっと抱き締め、更には俺の肩に彼女の小さな頭をそっと乗せてしまった。そしてぴったりとお互いの身体を隙間無く密着させながら、ちょっとだけ酒臭い小菅は再び俺の名を口にする。

「……ねえ、犬塚さん? もうちょっとだけ、こうしていてもいいですか?」

 しかしながら、まるで飼い主に甘える子猫の様な表情と口調でもってそう言った小菅の肩に手を回した俺が、彼女を抱き寄せようとした次の瞬間であった。不意に俺ら二人の眼の前にニット帽を被ってぶくぶくに太った肥満体の成人男性がぬっと姿を現し、その豚足の様な肉々しい手を伸ばしたかと思えば、秋葉原公園の中央のベンチに腰掛けていた俺の襟首を強引に掴み上げる。

「おい、ケンケン!」

 果たして俺の襟首を強引に掴み上げながらそう言った肥満体の成人男性は、俺や小菅や鍛治屋敷と同じ職場で働く同僚である筈の、小林寛治その人であった。

「か、寛治? どうしてお前がここに?」

 そのぶくぶくに太った巨大な体躯に見合うだけの結構な怪力でもって強引に襟首を掴み上げられ、まるで不良にカツアゲされる気弱なオタク少年の様な格好になってしまった俺はそう言って驚くが、すっかり頭に血が上ってしまっているらしい寛治はそんな俺を恫喝する。

「どうしたもこうしたもあるもんか! ケンケン、お前って奴は柴さんだけでは飽き足らず、黙って見てたら俺の小菅さんにまで手を出しやがって! 許さねえ! 絶対に許さねえからな!」

 逆上した寛治は顔面を真っ赤に紅潮させながらそう言って俺を怒鳴り付けるが、彼に怒鳴られている俺自身はと言えば、一体全体、何故自分が怒鳴られなければならないのかがさっぱり理解出来ない。

「おい寛治、お前、さっきから一体何を言って……」

「うるさい! 黙れ! どうせ小菅さんが言っていた好きな人って言うのも、お前の事なんだろう? そうだ、そうに決まってる!」

 やはり逆上した寛治は尚もそう言って、反論を試みる俺の言葉を遮りながら怒鳴り続けるものの、彼が怒鳴れば怒鳴るほど俺ら二人を取り巻く状況は混迷の度合いを深めるばかりであった。

「おい、ケンケン! そもそも俺は昔っから、お前の事が心底大嫌いだったんだ! いつもいつもお前ばっかり女にモテやがって、会社の仕事でも俺を出し抜いて一人で勝手に昇進しやがって、どうせお前だって俺の事を、デブで禿げで無能なブ男だと思って陰で見下してたんだろう? どうだ、違うか? 違わないよな? あ? 何とか言えよ、この卑怯者!」

 一体何が卑怯者なのかも理解出来ぬまま、てっきり同期入社の親友同士の間柄だと信じて疑わなかった寛治から「昔っから、お前の事が心底大嫌いだったんだ!」とまで言われてしまった事にショックを隠し切れないでいると、そんな俺と寛治の間に小菅が割って入る。

「……めてください、小林さん! 犬塚さんは、あたしと小林さんとの一件には何の関係も無いんです!」

「は? 何の関係も無いだって? それじゃあ小菅さんが言っていた好きな人って言うのは、こいつの事じゃないのか?」

「……違います! あれは適当に、その場の勢いでついつい口を突いて出てしまった真っ赤な嘘に過ぎなくって、そもそもあたしには好きな人なんて居ないんですから!」

 そう言った小菅と寛治との遣り取りから察するに、どうやら寛治は小菅にフラれたらしく、しかもその際に小菅には好きな人が居ると言う虚偽の理由でもって交際を断られてしまった事が推測された。

「だったら小菅さん、何故、どうして、わざわざそんな見え透いた嘘を吐いたんだ?」

 肥満体の寛治がそう言って問い質せば、彼に問い質された小菅は、情け容赦無い一言を口にする。

「……だってあたし、デブも禿げも中年のおじさんも、生理的に無理だから……」

 非情にもそう言った小菅の言葉に、彼女が生理的に無理だと言ったデブで禿げの中年男性に分類されるべき寛治は怒り心頭に発し、気が動転して錯乱せざるを得ない。

「うわああああああぁぁぁっ!」

 すると突然そう言って、真冬の夜空に向けて絶叫した寛治は襟首を掴み上げられたままの俺の無防備な顔面を、やはりそのぶくぶくに太った巨大な体躯に見合うだけの結構な怪力でもってしたたかにぶん殴った。

「ぷおっ!」

 顔面をしたたかにぶん殴られた俺は頓狂な声を上げながら、硬く冷たいインターロッキングブロックでもって舗装された秋葉原公園の地面に背中から転倒し、そんな俺の左右の鼻腔からは熱く真っ赤な鼻血が勢い良く噴出する。

「うわああああああぁぁぁっ! 糞っ! 糞っ! 糞っ! 畜生! 畜生! 畜生!」

 やはり完全に気が動転してしまった寛治はそう言って絶叫しながら、地面に仰向けの状態で転倒していた俺の腹の上に馬乗りになると、そのまま俺の顔面を繰り返し何度も何度も殴打し始めた。本来ならば小菅に向けるべき怒りと暴力による衝動を、さすがに女性は殴れないので俺を殴る事によって解消しているのだろうが、一方的に殴られ続ける俺としては堪ったものではない。

「おい、キミ! 何をやってるんだ!」

 その時不意に、多くの通勤客が行き交う秋葉原駅の方角から、二つの人影がそう言いながらこちらへと駆け寄って来るのが見て取れた。そしてその二つの人影は、俺を殴打し続ける寛治の両腕を背後から羽交い絞めにするような格好でもって抱きかかえ、俺と彼とを引き離そうと試みる。

「その人を殴るのを今すぐめて、大人しくしなさい! めろと言ってるんだ! めろ!」

 果たしてそう言って寛治を俺から引き離そうと試みた二つの人影は、濃紺色の制服と制帽に身を包んだ、秋葉原駅の駅前を巡回パトロール中の警察官達であった。

「ええい、うるさい! 黙れ! お前らなんかに、今の俺の気持ちの何が理解出来るって言うんだ!」

 しかしながら寛治はそう言いながらぶんぶんと腕を振り回して暴れ回り、彼を制止しようとする警察官達に対しても、そのぶくぶくに太った巨大な体躯に見合うだけの結構な怪力でもって抵抗し続ける。

「暴れるな! 大人しくしろ! 大人しくしなければ、この場で逮捕するぞ!」

「黙れ、この税金泥棒の腐れポリ公どもが! 俺みたいな善良な市民を逮捕出来るもんなら、やってみやがれってんだ!」

 すると寛治はそう言って彼らを挑発しながら、遂に最後の一線を軽々と乗り越えて、二人の警察官達の内の一人の顔面を有らん限りの力でもってぶん殴ってしまった。ぶん殴られた警察官はその場に尻餅を突き、俺と同じく彼の左右の鼻腔からも、熱く真っ赤な鼻血が勢い良く噴出する。

「確保! これより公務執行妨害の容疑者を、確保する!」

「事件発生! 応援を要請する!」

 彼が警察官をぶん殴ってしまった事によって、腰のベルトからアルミ合金製の特殊警棒を抜いた彼ら二人は勢い色めき立ち、無線機でもって万世橋警察署に応援を要請すると同時に寛治を現行犯逮捕しようと試みた。

「放せ! 放せよ、この税金泥棒の腐れポリ公どもが! 俺は納税者様だぞ! お前らの給料を払ってやってるんだぞ!」

 寛治はそう言って暴れながら抵抗するものの、公務執行妨害の容疑者として現行犯逮捕されてしまった彼は遂に観念したのか、応援に駆け付けたおよそ十人ばかりの警察官達の手によって地面に組み伏せられたままぴくりとも動かない。

「大丈夫ですか? もしよろしければ容疑者との関係と、事件の経緯をお聞かせ願えますか?」

 やがて手錠を掛けられた寛治が半ば強制的にパトカーの後部座席に乗せられると、そう言った警察官の手を借りながらどうにかこうにか起き上がった俺は、事件の当事者の一人として訥々と事情聴取に応じ始めた。そしてそんな俺の隣では、小柄で痩せぎすの小菅もまた別の警察官を相手に、ぼろぼろと両の瞳から大粒の涙を零れ落としつつも事情聴取に応じている。

「寛治……」

 俺はそう言って、彼の名を口にしながら真冬の夜空を改めて見上げると、かつて親友だと思っていた男の行く末を暗澹たる思いのまま案じるばかりであった。しかしながらこの一件の数日後、釈放された寛治が依願退職したと言う社内メールが届いたのを最後に、彼と再会する機会は二度と訪れなかったのである。

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