第七幕:virtual


 第七幕:virtual



 遂にレオニードら『クラースヌイ ピスタリェート』の面々に、新たな、そしてこの部隊最後の作戦内容が通達された。それは広大な『連邦』の国土の半分が白く冷たい積雪でもって完膚無きまでに覆い尽くされる、まさに冬将軍がたけり狂う盛冬の頃の事である。

「レオニード、ヴァレンチナ、イエヴァ、キミら三人の健闘を祈る。必ずや三人揃って無事帰還し、任務を完遂するように」

 司令部の地下駐車場の一角で、そう言って部下達に発破を掛けるミロスラーヴァ少佐に見送られながら、レオニードら三人の実行部隊の面々は一般車輛に偽装した軍用車輛に乗り込んだ。そして運転席に腰を下ろす名も無き兵士の一人がシフトレバーを操作し、アクセルペダルを踏み込めば、彼らを乗せた軍用車輛は深夜の『連邦』の市街地を静かに疾走し始める。

「……とうとう、最後の任務ですね」

 新雪がうっすらと降り積もった深夜の街道を疾走する軍用車輛の車内で、ストックを折り畳み式にして銃身を切り詰めたカービンタイプの自動小銃アサルトライフル、つまりヴォルク08Kを胸に抱えたイエヴァがぼそりと呟くようにそう言った。

「ああ、そうだ、そうだとも。これが俺達の、俺達『クラースヌイ ピスタリェート』の最後の作戦行動となる筈だ」

 すると彼女の斜向かいの座席に腰を下ろすレオニードがそう言ってイエヴァに同意すれば、今度はその隣の座席に腰を下ろすヴァレンチナが顔を上げ、狙撃用に銃身とストックを伸長した自動小銃アサルトライフルであるヴォルク08Sを胸に抱えながら問い掛ける。

「だ、だけどレオニードもイエヴァも、ふ、ふふふ二人とも今回の作戦行動は、あ、あああ、あた、あたし達『クラースヌイ ピスタリェート』の力だけで完遂出来ると思いますか?」

「残念ながら、完遂出来るか否か、俺にはその結果を断言する事が出来ない。何故なら今回の作戦行動に於いて、遂に『連邦』と敵対する『共和国』本土へと侵攻する手筈が整えられた訳だが、果たして如何なる試練が彼の地で俺達三人を待ち受けているか予測不能であるからだ。こんな不確実性の高い要素が山積した状況を鑑みる事も無いままに、迂闊な軽口を叩くのは、能天気な愚か者のする事だろうからな」

 まるで全てを達観したかのような表情と口調でもってそう言ったレオニードの姿に、彼の後輩隊員であるイエヴァは改めて問い掛けながら、その不安な胸の内を吐露せざるを得ない。

「……でしたらレオニード、あなたはミロスラーヴァ少佐に命じられた『共和国』の最新兵器の極秘資料の奪取は、実行不可能だと考えているんですか? それって、ある種の反逆行為ですよね?」

「いや、反逆行為も何も、俺はミロスラーヴァ少佐の命令が必ずしも実行不可能だとは断言していない。しかしながら『共和国』の最新兵器、つまりシリアの大使公邸で知り得た情報によれば歩行戦車ウォーカータンクと呼ばれる多脚戦車の一種とやらは、その実態も性能も全くの未知数の謎の存在だ。そんな謎の存在を前にしながら、果たしてここに居る俺やヴァレンチナ、そしてイエヴァ、キミの力がどこまで通用するか否かは誰にも断言出来ないと言う訳さ」

「……成程。だとすれば、歩行戦車ウォーカータンクの極秘資料を奪取した上に可能であればその実機を破壊して来いと言う命令は、益々実行不可能なのでは?」

 モノトーンの都市型迷彩服に身を包むイエヴァはそう言って、狭く薄暗い軍用車輛の車内でレオニードに重ねて問い掛けた。するとレオニードは腰のシースからエストレイマラティオ社製のタクティカルナイフを抜き取り、そのエッジの研ぎ具合を確認しながら返答する。

「確かにキミが危惧する通り、歩行戦車ウォーカータンクの破壊命令の実行は、困難を極めるに違いない。しかしながら俺達『クラースヌイ ピスタリェート』の実行部隊は如何なる障害を前にしても、決して臆さず、後顧の憂いの無いよう全力を尽くしてこれに挑むまでだ。……違うか?」

「……」

 レオニードから少しばかり意地の悪い問いを投げ掛けられたイエヴァは口を噤み、沈黙を返答とする事によって、彼の言葉に暗に同意してみせた。そして口を噤んだままのイエヴァだけでなく、レオニードの隣の座席に腰を下ろすヴァレンチナもまた思いを新たにしながら、彼に同意する。

「そ、そそそそうですよね、ああああたし達は、ぜ、ぜぜぜ、ぜん、全力でもって任務を遂行する事しか出来ませんものね!」

 そう言ったヴァレンチナとイエヴァ、それにレオニードの三人を乗せた軍用車輛は多くの一般車輛が行き交う深夜の街道を疾走した後に、賑やかな市街地を抜けて高速道路に進入した。そしてそのまま夜を徹して高速道路を走り続ければ、やがて東の空がうっすらと白み始める頃になってから、とあるコンテナ埠頭ターミナルへと辿り着く。

「さあ、ここから先は、久々の船旅だ」

 そう言ったレオニードに先導されるような格好でもって、軍用車輛から降車した彼ら三人は眼にも眩い朝陽を浴びながら、明け方の海に浮かぶコンテナ船の一つに揃って乗り込んだ。数え切れない程の数の海上コンテナが甲板上にびっしりと隙間無く積載された、船舶の分類上は『フルコンテナー』と呼ばれる種類の、それなりに大規模なコンテナ船である。

「こ、ここ、こ、このコンテナ船で、ああああたし達は『共和国』の本土に上陸するんですよね?」

「ああ、そうだヴァレンチナ、キミの言う通りだ。それに海の上はどこにも逃げ場が無いから、絶対に『共和国』の海軍や海上警察に、密航する俺ら三人の存在を悟られる訳には行かない」

 レオニードがそう言ってヴァレンチナの疑問に返答すれば、コンテナ船の操舵室へと続く階段を上りながら、イエヴァもまた問い掛ける。

「……それにしても、こんなご時勢でも『連邦』から『共和国』に物資を運ぶコンテナ船なんて物が、存在していたんですね。てっきりあたし、とっくの昔にこの二つの国は、国交を断絶しているものとばかり思っていましたよ」

「ああ、そうだな。表向きは『連邦』と『共和国』は事実上の断交状態にあるものの、何も公然と正規軍を戦地に送り込んで全面戦争を繰り広げている訳ではない以上、こうして民間レベルでの物資の遣り取りは継続されていると言うのが偽らざる実情なのさ。とは言え『共和国』は全ての企業が国営なのだから、本来の意味での民間企業と言うものは一つも存在しないがね」

 やはりそう言ってイエヴァの疑問に返答するレオニードに先導されるような格好でもって、重く頑丈な水密扉を開けた彼ら三人は、コンテナ船の航行状態を管理する操舵室に足を踏み入れた。

「やあやあやあ、あんたが噂に名高いレオニードで、そっちの二人の美しいお嬢さん方がヴァレンチナとイエヴァだな? 三人とも、俺の自慢の船にようこそ! 小さくて狭苦しいオンボロコンテナ船だが、誰にも遠慮する事無く、思う存分ゆっくりして行ってくれよな!」

 すると顔の下半分がまるでジャングルを埋め尽くす熱帯植物の様な密生した髭で覆われた、如何にも海の男らしい一人の男がそう言ってレオニードらを出迎えると、右手を差し出しながら彼に握手を求める。

「ええ、俺がレオニードです。それと、こっちがヴァレンチナとイエヴァ。それで、あなたは?」

 がっちりと男同士の固い握手を交わし合いながらレオニードがそう言えば、髭面の海の男ははっと我に返り、どうやらうっかり彼自身が名乗り忘れていた事にようやく気付いたらしい。

「おっと、こいつは失礼。申し遅れたが、俺はこのコンテナ船の船長を務めている、ルドルフ・マスカエフってもんだ。こう見えてもかつては陸軍の特殊部隊に所属していた元中尉で、ミロスラーヴァ少佐とは旧知の仲さ。だから、今は一介の民間人とは言え、口は堅いぜ」

 髭面の海の男、つまりルドルフ・マスカエフと名乗った男はにやりと意味深にほくそ笑み、レオニードの肩を親しみを込めてばんばんと激しく叩きながらそう言った。

「ああ、目的地に到着するまでよろしく頼むよ、マスカエフ船長。それで、俺達はこの船のどこで休めばいい?」

 レオニードがそう言って問い掛ければ、マスカエフ船長は「ちょっと待っててくれ」と言ってから操舵室から退室し、やがて一人のにきび面の若者を背後に従えながら戻って来るなり命令する。

「おいイヴァン、こちらのお三方を、食堂の隣の一番上等な船室にご案内しろ。くれぐれも失礼の無いように、しっかりおもてなしするんだぞ? いいな?」

「はい、船長」

 イヴァンと呼ばれたにきび面の若者は如何にもやる気の無さそうな表情と口調でもってそう言って、マスカエフ船長の命令を承諾した。

「それじゃあレオニード、それにヴァレンチナとイエヴァの二人も、このイヴァンがあんたらが寝泊まりする船室まで案内するから、一緒に居住区に移動してくれ。それで飯の時間になったらイヴァンか誰かがあんたらを食堂まで呼び出すんで、それ以外の時間は、船室でゆっくり休んでいてくれればいい」

「ありがとう、マスカエフ船長。それではお言葉に甘えて、俺達は船室で休ませてもらう事にしよう。ご協力に感謝する」

 そう言って感謝の言葉を口にしたレオニードら三人はイヴァンに案内されながら操舵室を後にすると、長い鉄階段を下った先の居住区へと足を踏み入れ、やがてマスカエフ船長によれば一番上等な船室と通路とを隔てる水密扉の前へと辿り着く。

「ほら、ここがあんたらの船室だ。飯の時間は六時と十二時と十八時の、一日三回。呼んでも食堂に来なかった場合には一時間半後に全て廃棄されるから、忘れずに食堂に集合しろよな」

「ああ、分かった。ありがとう、イヴァン」

 船室まで案内されたレオニードがそう言って感謝の言葉を口にするものの、彼らを案内したにきび面のイヴァンは特に何も言わぬままさっさとその場を立ち去り、後には都市型迷彩服に身を包むレオニードら三人だけが取り残された。そこでさっそく水密扉を開けてみれば、そこにはお世辞にも上等とは言い難い、簡素な二段ベッドが二つ並ぶ狭く薄汚い船室が姿を現す。

「……これがこの船で、一番上等な船室ですか」

 先陣切って船室に足を踏み入れたイエヴァが、開口一番、如何にも不服そうな口ぶりでもってそう言って落胆した。しかしながらこのイエヴァの態度と発言に、彼女の先輩隊員であるレオニードは疑義を呈する。

「イエヴァよ、そう言ってくれるな。せっかく少佐殿が手配してくれたコンテナ船の船室なんだから、この際、少しくらい狭くて汚い事には眼を瞑れ。それに新兵の頃の基礎訓練で何度も経験した筈の、極寒の荒野での野営に比べれば、未だ屋根のある部屋でベッドで寝られるだけでもマシってもんだろう?」

「……」

 すると再びレオニードから意地の悪い問いを投げ掛けられたイエヴァは口を噤み、やはり沈黙を返答とする事によって、彼の言葉に暗に同意してみせた。

「お? どうやら出港したようだ」

 やがて狭く薄暗い船室にすっかり腰を落ち着けた頃になってから、そう言ったレオニードの言葉通りエンジンを始動させたらしいコンテナ船の船体がぶるぶると激しく震動し始め、汽笛を鳴らしながらゆっくりとコンテナ埠頭ターミナルを離れつつあるのが彼ら三人にもそれとなく感じ取れる。

「こ、ここ、これ、これから『共和国』の本土に到着するまで、い、いいい一週間も掛かるんですよね?」

「ああ、そうだ、その通りだ。しかしながら物事の捉え方と言い方を変えれば、今から一週間後には否応無しに、敵対する『共和国』の本土に上陸しなければならないと言う事でもある。だからヴァレンチナもイエヴァも、二人ともしっかり気を引き締めて、最後の作戦に取り掛かってくれ。いいな?」

 レオニードがそう言って彼女の疑問に返答しながら発破を掛ければ、発破を掛けられたヴァレンチナとイエヴァの二人は首を縦に振って同意した。何故ならコンテナ船に乗り込んだ彼ら三人は『共和国』の本土まで密航し、そこで『連邦』の軍部の特級秘匿部隊である『クラースヌイ・ピスタリェート』としての、最後の作戦を決行すると言う使命を帯びているからである。

「……それでレオニード、その『共和国』に到着するまでの一週間、あたし達はここで何をして過ごします?」

 しかしながら出港しつつあるコンテナ船の船室内で、イエヴァがそう言って問い掛ければ、問い掛けられたレオニードは肩を竦めざるを得ない。

「さあな、どうやって一週間も暇を潰したもんか、俺にもさっぱり見当がつかん。このまま沖に出たらスマートフォンのネット回線も繋がらないだろうし、機密保持の観点上、民間人である筈の他の船員達と過度に交流する訳にも行かない。とにかく寝るか食うかして暇を潰すか、もしくは初心に返って、暇を持て余した軍人らしく筋トレでもするしか無いな」

 肩を竦めながらそう言ったレオニードの姿に、深い深い溜息を吐いたイエヴァは簡素な二段ベッドから腰を上げると、船室の唯一の出入り口である水密扉のハンドルに手を掛ける。

「……だったらあたし、さっきの髭面の船長に掛け合って、トランプか何かを借りて来ます。そうすれば、少しはマシな船旅になる筈ですから」

 そう言ったイエヴァはハンドルを引いて水密扉を開けると、さっさと船室から出て行ってしまった。彼女が立ち去った後の船室に、レオニードとヴァレンチナの二人だけが取り残される。

「イ、イエヴァ、いいい、いっちゃ、行っちゃいましたね」

「ああ、そうだな。トランプか何かを借りて来ると言ってたが、仮にも年長者の立場から言わせてもらうとするならば、出来れば過度に船員達と交流するのは避けてほしいんだがなあ」

 船室に取り残されたヴァレンチナとレオニードの二人はそう言って、機密保持の観点から鑑みるに、果たしてイエヴァがどこまでトランプを借りに行ったのか危惧せざるを得ない。しかしながら彼女が船室から姿を消してしまった今となっては、幾ら気を揉んだところで詮無い事である。

「まったく、イエヴァの奴は相変わらずマイペース過ぎて、いつまで経っても一体何を考えているのかさっぱり分からんな」

 レオニードは溜息交じりにそう言うと、狭く薄暗い船室の壁沿いに設置された、二つの二段ベッドの内の一つの縁に腰を下ろした。するとそんな彼の隣に、少しばかり逡巡してから、愛銃であるヴォルク08Sを壁に立て掛けたヴァレンチナもまた腰を下ろす。

「ん? どうした、ヴァレンチナ?」

 するとレオニードはそう言って、彼に寄り添うようにそっとこちらに身を寄せるヴァレンチナに問い掛けた。

「や、やっと、ふ、ふふふ、ふた、二人きりになれましたね」

 彼に身を寄せながらそう言ったヴァレンチナは、どうやらレオニードと二人きりになれた事を喜んでいるらしい。

「ああ、確かにそう言われてみれば、そう言う風に考えられなくもない。なにせ格好良さげに大言壮語を吐いて、俺と結婚してくれなどと大口を叩いておきながら、今の今まで婚約者らしい事は何一つしてやれないでいたからな。勿論今この瞬間もまた婚約者らしい事をしてやれているとは言い難いが、久し振りに二人きりになれたのも、ちょっとした僥倖と言うものだろう」

 少しだけ申し訳無さそうな表情と口調でもってそう言ったレオニードは、ヴァレンチナの肩に手を回し、そのまま『共和国』の軍人にしては細く華奢な彼女の身体をそっと優しく抱き寄せた。抱き寄せたヴァレンチナの艶やかな黒髪から、それなりに高級そうなシャンプーの甘く爽やかな香りがぷんと漂って来て、レオニードの鼻腔を心地良くくすぐって止まない。

「しかしながらヴァレンチナ、今になってからこんな事を聞くのもなんだが、キミは本当に俺なんかと結婚する気なのかい?」

 レオニードがそう言って問い掛ければ、ヴァレンチナは如何にも不安げで悲しげな眼をこちらに向ける。

「ど、どどどどうしたの、レレレレオニード? きゅ、きゅきゅきゅ、急にそんな事を言い出すだなんて、ももももしかして、あ、あああ、あた、あたしと結婚する気が無くなってしまったの?」

 ヴァレンチナはそう言って問い掛けるが、レオニードはこの問い掛けを否定せざるを得ない。

「いや、済まないヴァレンチナ、決してそう言うつもりで言った訳じゃないんだ。もし仮に誤解させてしまったのだとしたら、今ここで、心から謝るよ。俺は何もキミと結婚したくなくなった訳ではなくて、遠からぬ未来に『クラースヌイ・ピスタリェート』が解散した後も、俺とキミの二人が本当に一緒に居られるかどうかが不安になってしまっただけの事さ」

 彼女の肩を抱きながらそう言ったレオニードに、やはり不安げで悲しげな眼をこちらに向けたまま、ヴァレンチナは重ねて問い掛ける。

「こ、こここ、こん、今後もあたしとあなたの二人が一緒に居られるかどうかが不安と言う事は、そそそそそれってつまり、い、いいい一緒に亡命出来るかどうかが不安って言う事?」

「ああ、その通りだ。キミもミロスラーヴァ少佐殿から伝え聞いている通り、俺達は『クラースヌイ・ピスタリェート』の解散を機に、既に希望者を募って『連合王国』へと亡命する手筈が整えられている。しかしながら亡命後の俺達の身の安全、そして身の振り方が保証されているとは、お世辞にも言い難いのが実情だ。だからこそ浮き足立って軽々にキミと結婚してしまうのは、いささか軽挙妄動に過ぎるのではないかとの思いが、ついつい頭をよぎってしまったと言う訳さ。まったく、今になってこんな些細な理由でもって怖気付くとは、かつて『連邦』の虎狼として恐れられたこの俺もすっかり落ちぶれたものとしか言い様が無いね」

 レオニードが深い深い溜息交じりにかぶりを振りながらそう言えば、過度に神経質ナーバスになってしまっていた彼の言動を、ヴァレンチナは決して責め苛んだりはしない。

「そそそそんな事無いですよ、レ、レオニード。あ、あああ、あな、あなたがついつい弱気になってしまうのは、あ、あたしとの結婚について、ほほほ本気で思い悩んでいてくれている何よりの証拠なんですから! だだだだからむしろ、あ、ああああたしは、よ、よよよ、よろ、喜ばしい事なんじゃないかと思うんですよね!」

「ヴァレンチナ……」

 心優しいヴァレンチナの彼を気遣う言葉の数々に、レオニードはそう言って彼の腕の中の婚約者の名を口にしつつ、細く華奢なヴァレンチナの身体をぎゅっと力を込めて抱き寄せた。ついつい力を込め過ぎて、抱き寄せられた彼女が思わず眉をひそめてしまった程である。そしてそのままより一層身体を寄せ合うと、どちらからともなくそっと静かに眼を閉じながら、レオニードとヴァレンチナの二人は互いの唇を重ね合った。

「……」

 暫し無言で身を寄せつつ、唇を重ね合った二人は愛する人の唾液を吟味するかのような格好でもって、互いの舌と舌を執拗に絡め合う事に余念が無い。そして一頻ひとしきり唇の感触と唾液の味を確認し終えると、やがてどちらからともなく、レオニードとヴァレンチナは互いの唇を別離する。

「レ、レレレレオニード……」

「ヴァレンチナ……」

 重ね合っていた唇を別離したレオニードとヴァレンチナはほぼ同時にそう言って、今度は熱に浮かされたかのような熱い視線を絡め合いながら、やはり眼の前の愛する人の名を口にする事によって互いの愛情を確認し合うのだった。しかしながら愛情の再確認を終えた次の瞬間、ようやく彼ら二人は、船室と通路とを隔てる水密扉が僅かに開け放たれている事を察知する。

「!」

 しかもその開け放たれた水密扉の隙間から、使い古されたチェス盤やトランプ、それにぼろぼろになった小説の文庫本などを手にしたイエヴァがジッとこちらを覗き見ていたのだから、思わず口から心臓が飛び出るかと思うほど驚いたのも無理からぬ事であった。

「イ、イイイ、イエ、イエヴァ?」

「イエヴァ、いつからそこに?」

 レオニードとヴァレンチナはあわあわと泡を喰って慌てふためきながらそう言うが、そんな彼ら二人を、イエヴァは妙に冷め切った眼差しでもってジッと静かに見つめるばかりである。

「……お二人は、そう言う関係だったんですね」

やはり水密扉の隙間からこちらを覗き見る眼差しと同様の、妙に冷め切った表情と口調でもってそう言ったイエヴァは、レオニードとヴァレンチナの痴態に呆れ返っている様子であった。そして彼女は無言のまま船室内へと足を踏み入れ、レオニードらが腰を下ろしているのとはまた別の二段ベッドのマットレスの上にチェス盤やトランプなどを放り出すと、抱き合ったまま固まってしまっている二人に改めて問い掛ける。

「……それで、あたしはこの部屋に居ても構わないんですか? それともお二人に気遣って、出て行けばいいんですか?」

「いや、その、別にここに居ても、構わないんじゃないかな?」

 イエヴァの疑問に対してレオニードはそう言って返答し、やけに気恥ずかしそうに、そして気不味そうにその場を取り繕うのがやっとの有様であった。何しろ『連邦』の虎狼として恐れられた彼が、まさか「婚約者ともっといちゃいちゃ乳繰り合っていたいから、今すぐ出て行ってくれないか?」などとは、口が裂けても言えない事は自明の理だからである。

「……それではレオニードもヴァレンチナも、あたしに構わず、どうぞお二人のお好きなように振る舞っていてください」

 ベッドの縁に腰掛けたイエヴァは小説の文庫本のページをぱらぱらと手繰りながらそう言うが、彼女から「お好きなように振る舞っていてください」と言われてしまったレオニードとヴァレンチナの二人も、まさか本当にお好きなように振る舞う訳にも行かない。

「……本当に、あたしは存在しないものと思ってもらって結構ですから」

 やはりマイペースが過ぎて一体何を考えているのか分からないとまで評されるイエヴァは、マスカエフ船長から借りて来たであろう小説の文庫本のページをぱらぱらと手繰りながら、こちらにはまるで興味が無いような表情と口調でもってそう言った。しかしながら彼女がそう言えばそう言うほど、狭く薄暗い船室内には、何とも言えない気不味くも重苦しい空気が無言の重圧となって充満するばかりである。

「……やっぱりあたしって、お二人にとっては、まるで空気が読めないお邪魔虫同然の存在らしいですね」

 やがて無言の重圧に耐えかねたからと言う訳でもなく、単に面倒臭くなったイエヴァはそう言って、ページを手繰っていた小説の文庫本をぱたんと閉じると同時にベッドから腰を上げた。

「あたし、もう暫くこの上の甲板で潮風を浴びて涼んで来る事にしますから、レオニードとヴァレンチナはここに残って思う存分仲良く乳繰り合っていてください。お二人が満足したであろう頃には戻って来ると思いますので、どうぞ、お構いなく。それじゃ、また後で」

 事も無げに、そしてやはり面倒臭そうにそう言ったイエヴァが狭く薄暗い船室からさっさと立ち去ると、彼女の愛銃であるヴォルク08Kだけがぽつんとその場に残される。

「ま、またイエヴァ、いいい、いっちゃ、行っちゃいましたね」

「ああ、そうだな」

 船室から立ち去るイエヴァの背中を見送ったレオニードとヴァレンチナの二人は、気恥ずかしさでもって紅潮した互いの顔を見合わせつつも、努めて平静を装いながらそう言った。しかしながらその内心はと言うと、後輩隊員である彼女に逢瀬の現場を見咎められてしまったと言う事実に激しく動揺しっ放しであって、立つ瀬が無いとはまさにこの事である。

「そ、そそ、そ、そう言えばイエヴァは、ああああたし達と一緒に『連合王国』に亡命するつもりなんでしたっけ?」

「いや、彼女は一貫して態度を保留している。どうやら俺達と違い、イエヴァは特殊工作員と言うこの仕事を続けたいとはあまり考えていないらしい。まあ、以前ミロスラーヴァ少佐殿に転属や除隊を申し出ていた彼女の事だから、無理もあるまい」

 狭く薄暗いコンテナ船の船室の、簡素な造りの二段ベッドの縁に腰掛けたレオニードはそう言って、後輩隊員であるイエヴァの今後の身の振り方を危惧するヴァレンチナの疑問に返答してみせた。すると彼の腕の中のヴァレンチナは気を取り直し、彼女の肩を抱く婚約者に逢瀬の再開を要求する。

「ねえ、レ、レレレ、レオ、レオニード? イイイイエヴァも気を利かせて居なくなってくれた事なんだし、キ、キキキ、キ、キスの続きはしなくていいの?」

 ヴァレンチナは少しだけ甘えるような表情と口調でもってそう言うが、一方の甘えられたレオニードはと言えば、どうにも気が乗らない。

「いや、勿論この俺だって、キミとこうして抱き合っていたいのは山々なんだが……イエヴァの奴がわざわざ気を遣って出て行ってくれたのかと思うと、却って気が引けてしまってな」

「だ、だけど、せせせせっかく気を遣ってくれたんだから、イ、イイイ、イエ、イエヴァの善意を無駄にしない方が彼女も喜んでくれる筈じゃない?」

「……ああ、それもそうだな」

 そう言って得心したレオニードは細く華奢なヴァレンチナの身体をぎゅっと固く抱き締めながら、お世辞にも清潔とは言い難い船室の二段ベッドのマットレスの上で、柔らかくも瑞々しい彼女の唇と自分の唇を改めて重ね合った。そして互いの唇の感触と唾液の味を再び確認し合っていると、不意にヴァレンチナがぷっと噴き出し、そのままくすくすと笑い始める。

「ん? どうした?」

「だ、だって、お、おおお、おか、可笑しいんですもん。イイイイエヴァってば、よ、よりにもよって「乳繰り合っていてください」だなんて、ああああんな下品でオヤジ臭い言葉を一体どこで覚えて来たのかしら?」

 くすくすと愉快そうに笑いつつそう言ったヴァレンチナの言葉に、彼女の肩を抱くレオニードもまた「ああ、そうだな。確かにキミの言う通り、あんな下品でオヤジ臭い言い回しなんかを、一体彼女はどこで覚えて来たんだろう」と言って、首を縦に振って得心しながら同意した。果たしてマイペースに過ぎるだけでなく、普段から何を考えているのか分からないイエヴァの素姓に関する謎と疑問の数々を前にして、彼ら二人は益々困惑するばかりである。

「さて、と。それじゃあ彼女が戻って来る前に、俺らはここで思う存分楽しませてもらおうじゃないか」

「え、ええ、そそそそうね、そ、そうしましょうか」

 気を取り直したレオニードとヴァレンチナはそう言って、仄かに紅潮した顔を寄せ合いながら、三度みたび唇を重ね合った。しかしながら今度は唇だけに留まらず、それぞれの乳房や性器と言った、平時であれば衣服でもって覆い隠されて然るべき身体の各所をも重ね合う。そして彼ら二人が互いの愛情の再確認に勤しんでいるその間に、長い鉄階段を上って通路を渡り切ったイエヴァは眼の前に立ちはだかる水密扉を開け放つと、やがてコンテナ船の甲板へと足を踏み入れた。

「……」

 暫し無言のまま、都市型迷彩服に身を包むイエヴァは、爽やかな潮風が吹き抜ける甲板上を特に行き先も決めぬままぶらぶらとそぞろ歩く。視界を埋め尽くすほどの無数の海上コンテナが整然と積み上げられたコンテナ船の甲板上に、早朝の浅く柔らかな陽射しが差し込んで、その陽射しを浴びる感触は何とも言えず心地良い。

「……」

 やはり無言のまま、大海原を航行するコンテナ船の甲板の中央で不意に立ち止まったイエヴァは、その身を包む都市型迷彩服の胸ポケットから紙巻き煙草のソフトパッケージを取り出した。そしてそのパッケージから取り出した一本の紙巻き煙草を口に咥えると、その先端にジッポーライターでもって火を点け、ぷかぷかと紫煙をくゆらせる。

「……馬鹿みたい」

 まるで吐き捨てるかのような表情と口調でもってそう言ったイエヴァは、彼女の頭上に広がる厳冬の大空に向けて、ふうっと肺一杯の紫煙を吐き出した。吐き出された紫煙の塊が、まるで淹れ立てのコーヒーに注がれたミルクさながらに、甲板上を吹き抜ける潮風にゆっくりと溶けて行く。

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