第七幕:real


 第七幕:real



 やがて俺らが開発する『クラースヌイ・ピスタリェート』の最新作はデザインデータのフィックスを終え、残る業務はデバッグと、そのデバッグで発見されたバグの修正のみと相成った。

「ああ、糞、やっぱり駄目だ!」

 ヘッドホンを外した俺はそう言って溜息を吐き、PF社が販売する最新型の家庭用コンシューマーゲーム機であるPF5のゲームパッドを自分のデスクの天板の上に少しばかり乱暴に置いてから、ノートパソコンを開いてバグ報告の準備を始める。PF5と繋がった液晶モニタの画面上ではゲームの主人公であるレオニードが完全にフリーズしており、進行不能を意味するAバグが発生してしまっている事を如実に物語って止まない。

「やっぱりレオニードを全裸にした状態でリアルタイムレンダリングのイベントに突入すると、ほぼ100%の確率でフリーズするな」

 小声でもってそう言いながらノートパソコンのキーボードを叩き、既定のバグ報告書にバグの発生条件や発生場所を記入し終えた俺は、録画キャプチャしておいたバグ発生時の動画を添付してから担当プログラマー宛てに送信した。するとバグを報告し終えたのを確認してからPF5を再起動し、再びゲームパッドを手にした俺に、すぐ後ろのデスクに腰を下ろす寛治が問い掛ける。

「なんだケンケン、またAバグを発見したのか? これで何度目だ?」

「ああ、今日になってから、もうこれで通算十件目のバグだよ。それもAバグは三件目だから、一体どれだけのバグが未だ発見されずに眠っているのかと考えると、気が遠くなるね」

 俺はそう言ってかぶりを振り、天を仰ぎながら、再び深い深い溜息を吐いた。デザインデータがフィックス、つまり止むを得ない場合を除いてもうこれ以上データを更新してはならない事が決定されたため、手が空いた俺らデザイナー達はデバッグ業務に駆り出されているのである。

「それにしても、こうして俺らがデバッグを手伝うようになると、いよいよ開発も佳境を迎えたって実感が犇々ひしひしと湧き上がって来るな! そう思えば、なんだか妙にテンションが上がらないか?」

「ああ、そうだな。とは言え俺らはデザイナーだから未だいいが、プログラマーは今がまさに地獄のデスマーチの真っ最中なんだから、あんまり浮かれた事を言ってると睨まれるぞ?」

「別にいいじゃないか、そのくらい。そもそも開発スケジュールの初期の頃は、実装されるかどうかも分からんような素材を作り溜めするデザイナーの方がデスマーチを味わったんだから、そこはお互い様ってもんだろ? 違うか? ん?」

 ぼりぼりとスナック菓子を貪り食いながら、まるでこの俺に同意を求めるかのような表情と口調でもってそう言った寛治は、にやりと意味深にほくそ笑んだ。そして人工甘味料たっぷりの炭酸飲料をごくごくと飲み下す事によって口の中のスナック菓子を胃の腑へと流し込むと、揚げ油でべたべたになった手でもってゲームパッドを握り直し、デバッグ業務を再開する。

「さあ、それじゃあケンケン、今日もまた終業時刻までデバッグを頑張る事としましょうか!」

「分かったよ、頑張ろう」

 改めてそう言った俺もまた自分のデスクに向き直り、ヘッドホンを装着してPF5のゲームパッドを握り直すと、寛治と同じくデバッグ業務を再開した。ちなみにここで言うところの『デスマーチ』とは、残業や徹夜、それに休日出勤などが常態化した破綻寸前のスケジュールを意味する業界用語の一つである。

「……」

 ゲームパッドを握り直した俺は刻一刻と時が過ぎ去るのも忘れつつ、無言のまま液晶モニタとヘッドホンに意識を集中させながら、飽きる事無く淡々とデバッグ業務に邁進し続けた。勿論バグを発見する度に、それを既定の報告書に纏め、担当プログラマー宛てに専用のアプリ経由でもって報告する事も怠らない。

「おっと、もうこんな時間か」

 やがて真冬の太陽も西の地平線の彼方へと姿を消し、窓から臨む街並みがすっかり宵闇に沈んでしまっている事に気付いた、その時だった。不意に一人の女性がこちらへと歩み寄って来て、俺の肩を背後からとんとんと軽く叩く。

「ケ、ケンケンさん、い、いい、今、ちょちょちょちょっとよろしいですか?」

「ん?」

 果たしてヘッドホンを外した俺がそう言って振り返れば、そこにはキャラクターの表示周りを担当するプログラマーである柴小春が立っていた。

「柴さん、何?」

「ちょ、ちょっと、みみみ見てもらいたいものがあるんですけど、あ、あた、あたしの席まで来てもらえます?」

「ああ、うん、構わないけど?」

 そう言った俺は自分のデスクから腰を上げ、柴に先導されながら同じオフィスの隣のブロックの彼女のデスクの方角へと足を向けるが、その時ふと異変に気付く。

「あれ? 柴さん、ちょっと痩せた?」

 俺が前を歩く彼女の後姿をそれとなく観察しながらそう言えば、柴はこちらを振り向いてちょっとだけ困ったような悪戯っぽい笑みをこちらに向けるものの、その笑みは力無く顔色も悪い。

「な、ななな何ですかケンケンさん、じょ、じょじょ、じょせ、女性の体型について言及するだなんて、セセセセクハラで訴えちゃいますよ?」

 柴は空元気を振り絞るような声でもってそう言うが、やはりその声は力無く、よく見れば両眼の周囲が落ち窪んでうっすらとくまが出来ている。

「ねえ柴さん、大丈夫? なんか、具合が悪そうに見えるよ?」

「え? あ、ああああたしですか? だ、だだ、だい、大丈夫ですよ、ももも問題ありません。そ、それよりも、ここここれを見てくれますか?」

 彼女のデスクの元へと到着するなりそう言った柴は、そのデスクの天板の上に設置された液晶モニタを指差した。そこでPF5の開発機と繋がったその液晶モニタの画面上に眼を向けると、そこにはデバッグモードにした際にのみ表示される各種のコマンドやパラメータなどと共に、俺がデザインを担当した歩行戦車ウォーカータンクのポリゴンモデルがでかでかと拡大表示されている。

「うん、最後の『共和国』の軍事基地で登場する歩行戦車ウォーカータンクだね。これがどうかしたの?」

「じ、じじ、じつ、実はですね、ここここの歩行戦車ウォーカータンクの胴体の下側のテクスチャが不自然だって言うバグ報告が何件か届いているんですが、こ、ここ、これはバグですか? そそそそれとも仕様ですか?」

 そう言って問い掛ける柴の言葉通り、確かに俺がデザインしてポリゴンモデルも作製した歩行戦車ウォーカータンクの胴体の下側のテクスチャは、ぱっと見た限りでは至極不自然なそれに見えなくもない。

「ああ、これか」

 しかしながら、この不自然なテクスチャがバグではないかと指摘されるのは、俺の想定の範囲内の出来事であった。

「これは、仕様だよ。確かに一見するとバグか何かにしか見えないような不自然なテクスチャなんだけど、実は歩行戦車ウォーカータンクのモデルにした実在する戦車の胴体の下側が、実際にこう言う不自然な構造をしているんだよね。だからその戦車に対するリスペクトと言うか、ミリタリーマニアがにやりとほくそ笑むようなある種の遊び心でもって、そのまま歩行戦車ウォーカータンクのテクスチャにも採用したって訳なのさ。だからこの件は鍛治屋敷さんにも許可は取ってあるし、バグ報告には仕様だって返答しておいてくれれば構わないよ、柴さん」

 俺がそう言って解説すれば、柴は少しばかり感心したような表情をこちらに向けながら得心する。

「な、なな、なる、成程、そそそそう言う事だったんですね! そ、それ、それではあたし宛てに届いているデバッガーからのバグ報告には、こ、これは仕様だから問題無いと返答しておきます!」

 そう言って得心した柴がうんうんと頷きながら彼女のデスクに腰を下ろそうとした、その時であった。不意に体勢を崩した柴の膝からかくんと力が抜け、ワーキングチェアに座り損ねて床に尻餅を突いたかと思えば、どすんと言う大きな転倒音がオフィス中に響き渡る。

「ちょっと柴さん、どうしたの? 大丈夫?」

 何の前触れも無いまま突然床に尻餅を突いた柴の姿を前にして、俺がそう言って彼女の身を案じれば、当の本人である柴もまた自分が転倒してしまったと言う事実が信じられない様子であった。

「え? あれ? あ、は、はい! だ、だだだ、だい、大丈夫です!」

 そう言った柴は床に尻餅を突いた状態から自分の力だけでもって起き上がろうと奮闘するものの、彼女の体重を支えるべき膝に力が入らず、何度起き上がろうとしても転倒を繰り返すばかりでどうしても起き上がる事が出来ない。そしてそんな柴の只ならぬ様子を心配してか、彼女と同じ『クラースヌイ・ピスタリェート』の開発チームで働く他のデザイナーやプログラマーと言った同僚達もまたこちらへと眼を向け、俺と同じく柴の身を案じる。

「どうしたの柴さん、大丈夫?」

「大丈夫? 立てないの? 手を貸そうか?」

 口々にそう言って彼女の身を案じる同僚達であったが、そんな彼らを前にした柴は「だだだ大丈夫です、だ、大丈夫ですから!」と言って起き上がろうとするものの、やはりどうしても起き上がる事が出来ずに床に這いつくばったまま動けなくなってしまった。

「え? あれ? ど、どど、どう、どうして?」

 そう言って困惑するばかりの柴に、彼女の足元にひざまずいた俺は、努めて平静を装いながら問い掛ける。

「ねえ柴さん、今日、お昼ご飯はちゃんと食べた?」

「……た、食べてません……」

「朝は?」

「……コ、ココココーヒーしか飲んでません……」

「それじゃあ、昨夜はちゃんと自宅に帰って、温かい布団でぐっすり寝た?」

「……か、かかか、かい、会社に泊まり込んで、ててて徹夜でデバッグとバグ修正をしてました……」

 まるで蚊の鳴くようなか細い声でもってそう言った柴の返答に、呆れた俺は深い深い溜息を吐きながら、真面目で働き者で頑張り屋の彼女にとっては不本意な結論を導き出さざるを得ない。

「ああ、間違い無い、これは過労による貧血だ。柴さん、キミはちょっとばかり働き過ぎたんだよ。勿論、一生懸命働く事は褒められて然るべき事に違いないが、さすがに身体を壊してしまうほど働く事はその限りではない。たとえどれだけ忙しくても、適度に休んで体調管理に努めなければ、一人前の社会人とは言えないからね」

「……はい……」

 がっくりと肩を落とし、また同時にすっかり気落ちしながら力無い声でもってそう言った柴に、俺は同じ職場の先輩として命令する。

「いいかい柴さん、今日もう自宅に帰って、ちゃんとご飯を食べてからゆっくり休みなさい。そして出来れば明日も休んで、しっかり体力を回復させてから、万全の状態で仕事に復帰するんだ。いいね?」

 俺がそう言って命じれば、柴は無言のまま首を縦に振ってうなずいた。

「それじゃあ柴さん、途中の駅や電車の中でまた倒れたら危ないから、俺が自宅まで送って行くよ。だから今すぐ仕事を切り上げて、帰る準備をしなさい」

「……はい……」

 そう言って再びうなずいた柴がデスクトップパソコンの電源を落として帰り支度を始めるのを確認すると、俺もまた自分のデスクへと取って返してからダウンジャケットを着込んで帰り支度を始め、やがて支度が整った俺と彼女は二人揃ってオフィスを後にする。

「ああ、ちょっとだけ待っててくれるかな?」

 オフィスの廊下で階下へと降りるためのエレベーターの到着を待っている最中、俺はそう言って、柴にその場に留まるよう要請した。そして到着したエレベーターの籠を、先に乗り込んだ柴が『開』のボタンを押して㈱コム・アインデジタルエンターテイメントのオフィスが在る24階に留めている間に、廊下の反対側に設置された自動販売機でもって一缶の缶飲料を購入する。

「柴さん、はい、これ飲んで」

「こ、ここここれは?」

 果たしてそう言って驚く柴に俺が手渡したのは、温かい缶入りのお汁粉であった。

「うん、お汁粉だよ。どうせ柴さんの事だから、眠気覚ましのブラックコーヒーばかり飲んで、満足に栄養補給もしてなかったんでしょ? だから取り急ぎこれを飲んで糖分と蛋白質を補給して、自宅に帰り着くまでのエネルギーを補給しないと、また倒れかねないからね」

 俺がそう言って温かいお汁粉缶を手渡せば、手渡された柴はそのお汁粉缶の中身を下降するエレベーターの中でちびちびと少しずつ飲み下し、飲み下す度に彼女の頬に少しずつ赤みが差して行く。

「さて、それじゃあ確か、柴さんはJRで通勤してるんだったよね? 自宅からの最寄り駅は、どこ?」

「お、おお、おちゃ、御茶ノ水駅です」

「へえ、御茶ノ水だなんて、柴さんも結構いい所に住んでるじゃない」

 秋葉原UDXを後にした俺と柴はそう言ってJR総武線に乗り込み、車内を埋め尽くす通勤客に混じって秋葉原駅から一駅離れた御茶ノ水駅で下車すると、そのまま自動改札を潜って駅舎の外へと足を踏み出した。そして凍り付くように冷たい真冬の夜風に晒されながら500mばかりも歩き続ければ、やがて柴の自宅であると言う、一棟の賃貸マンションへと辿り着く。

「ここ?」

「は、はい、こここここの六階の608号室が、あ、ああ、あたしの自宅です」

 俺はそう言った柴と共に賃貸マンションのエントランスへと足を踏み入れ、ちょうど到着したエレベーターで六階へと移動し、外廊下を渡った先の彼女の自宅の玄関扉の前で足を止めた。そして柴がインターホンの呼び出しボタンを押せば、何やら玄関扉の向こうから、こちらへと接近する人の気配と足音が感じ取れる。

「あれ? 小春ってば、今日は早かったね」

 するとてっきり独り暮らしだと思っていた柴の自宅の玄関扉が内側から開いたかと思えば、一人の女性がそう言いながら姿を現したので、俺は驚かざるを得ない。

「?」

 柴の自宅の玄関扉を開けたその女性は頭の上に見えない疑問符を浮かべつつも、まるでこちらの素性を値踏みするかのような格好でもって、俺の顔をジッと凝視し続けた。勿論この俺もまた彼女同様、眼の前の女性の顔をジッと凝視するものの、それは眼鏡を掛けている点を除けば彼女の容姿が柴に瓜二つだったからである。

「あ! ねえねえ小春、もしかしてこの人が、前から小春が言ってた例のケンケンさんって人?」

 やがてたっぷり三十秒間ばかりも俺の顔を凝視し続けた後に、やはり俺の顔を指差しながら、眼の前の柴そっくりの眼鏡の女性はそう言って柴に問い掛けた。そして問い掛けられた柴は、少しばかり照れ臭そうに返答する。

「うん、そう、この人がケンケンさん。あたしが会社で倒れちゃったから、帰りの駅や電車の中でも倒れたりしないように、こうしてケンケンさんにうちまで送ってもらったの」

 柴がそう言えば、先程までの俺同様、柴そっくりの眼鏡の女性もまた重ねて驚かざるを得ない。

「え? 会社で倒れた? ちょっと小春ってば、なんで倒れたの? 大丈夫? 怪我は無い?」

「うん、大丈夫。たぶん只の貧血だし、後ろ向きに倒れた時にちょっと尻餅を突いただけで、怪我もしてないから」

「ホント? ホントに大丈夫?」

「うん、そんなに心配しなくても大丈夫だってば」

 賃貸マンションの一室の玄関先でそう言って、彼女そっくりの眼鏡の女性の疑問に淀み無く答える柴に、俺は彼女らの会話を遮るような格好でもって改めて問い掛ける。

「あの、柴さん? ちょっといいかな? えっと、こちらの方は?」

「あ、えっとですね、その、ここここの子はこの部屋で一緒に暮らしてるあたしの双子の妹でして、こ、こここ、こな、小夏って言います!」

 そう言った彼女の言葉を信じるならば、どうやら柴と瓜二つの眼鏡の女性はこの部屋で寝食を共にする同居人であり、また同時に彼女の双子の妹だと言う事らしい。そして小夏と言う名の柴の双子の妹は再びこちらへと向き直ると、軽い会釈と共に、改めて自己紹介の言葉を口にする。

「初めましてケンケンさん、小春の双子の妹の、柴小夏しばこなつと言う者です。いつも姉がお世話になってます」

「初めまして小夏さん、犬塚賢人です。こちらこそ、いつもお姉さんにはお世話になってます」

 俺はそう言って本名を名乗りながら頭を下げるものの、姉と全く同じ顔の双子の妹を前にすると、今更ながら柴と自己紹介をし合っているようでなんとも頭が混乱するばかりであった。

「それじゃあいつまでも玄関先で立ち話もなんですから、小春もケンケンさんも、二人とも早く部屋に上がっちゃってくださいよ。さあ、早く早く!」

 双子の妹の小夏はそう言って室内から手招きするが、彼女の甘い誘いに安易に乗ってしまう程、俺も馬鹿ではない。

「いやいやいや、そう言う訳にも行かないよ。独り暮らし……じゃなくて、姉妹二人暮らしの女性の部屋に俺みたいなむさ苦しい独身男性が上がり込んだら迷惑だろうし、最悪の場合にはセクハラの嫌疑でもって、会社を懲戒解雇されかねないからね。だから名残惜しいけど、今日のところは、これでおいとまさせてもらうとしようかな。それじゃあ柴さん、明日は丸一日栄養価の高い物を食べてゆっくり休んで、また明後日になってから会社で会おうか。じゃ、これで」

 努めて紳士的な表情と口調でもってそう言った俺はくるりと踵を返し、柴の自宅の玄関先から立ち去るべく、賃貸マンションのエレベーターの方角へと足を向けた。ところがそんな俺が着ているダウンジャケットの後ろ襟を小夏がいきなり鷲掴みにしたので、既に歩き出していた俺の首が勢い余ってきゅっと締まり、思わず「ぐえっ!」とえずきながら後ろ向きに転倒しそうになる。

「え? な、何?」

「ケンケンさんってば、ちょっと待ってくださいよ! 一人で勝手に理屈を捏ねて勝手に納得して、さっさと帰ろうとしないでください! それにせっかく小春をうちまで送ってくれたんだから、少しはおもてなししないと、こちらが無礼を働いた事になっちゃうじゃないですか!」

 小夏はそう言って俺を引き留め、どうやら力尽くでも俺を歓待しようと言う腹積もりらしい。

「ちょっと小夏ってば、急にそんな無茶な事を言って、ケンケンさんが困ってるじゃないの!」

「いいから、小春はちょっと黙ってて! これはもう小春には関係無い、ケンケンさんを出迎えた、あたしとケンケンさんとの問題なんだから!」

 やはり俺が着ているダウンジャケットの後ろ襟を鷲掴みにしたままそう言って、小夏は小春を、身勝手な屁理屈でもって強引に説き伏せようと試みた。遺伝子を共有する一卵性双生児でありながら、小夏は小春と違って対人恐怖症でも人見知りが激しくもないし、むしろ随分とアクティブでアグレッシブな性分の女性である。

「とにかくケンケンさんも小春も、玄関のドアが開けっ放しだと寒くて仕方が無いんですから、早く部屋に上がってください! ほら、早く!」

「ああ、うん、それじゃあちょっとだけ……」

 結局俺はアクティブでアグレッシブな性分の小夏に言い包められるような格好でもってそう言うと、ダウンジャケットの後ろ襟を鷲掴みにされたまま、柴と共に彼女ら姉妹が暮らす賃貸マンションの一室の玄関へと足を踏み入れた。そして靴を脱いでから上がり框を乗り越え、短い廊下を渡り切れば、やがて暖房が効いた広く暖かいリビングダイニングへと通される。

「すすすすいませんケンケンさん、な、何だかさっきから、い、いいい、いも、妹が勝手な事ばかり言っちゃって……」

「いやいや、柴さんもそんなに気にしないでよ。俺もちょうど、駅からここまで歩き続けたせいで身体が冷え切っていたもんだから、どこかで温まって行きたいなと思ってたところだからさ」

 広く暖かいリビングダイニングへと通された俺はそう言って彼女を庇い立てしてはみたものの、恐縮しきりの柴はさっきから頭を下げて謝っていてばかりで、どうにもこうにもばつが悪くて仕方が無い。

「ほら小春、貧血で倒れたんだったらあたしが何かご飯を用意しておいてあげるから、早くメイクを落として部屋着に着替えて来なってば! それとケンケンさんも、今すぐコーヒーを淹れて来るんで、そんな所でぼうっと突っ立ってないで炬燵に入って温まっていてくださいね?」

 双子の姉である柴とは対照的に、小夏は竹を割ったようなはきはきとした表情と口調でもってそう言うと、彼女自身はさっさとキッチンの方角へと姿を消してしまった。そこで仕方無く、ダウンジャケットを脱いだ俺はリビングダイニングの中央に設置されていた炬燵に潜り込み、北風で冷え切った身体をぬくぬくと温め始める。

「柴さん、双子だったんだ」

 炬燵の火に当たって身体を温めながら、俺は小声でもってそう言って独り言ち、柴に双子の妹が存在した事に改めて驚いた。彼女と知り合ってから実に四年間もの月日が経過しているが、そんな妹の話は、ついぞ聞いた事が無い。そしてすっかり冷え切ってしまっていた足の爪先がようやく温まり始めたところで、キッチンの方角から何やら芳醇な香りが漂って来たかと思えば、三人分のマグカップを手にした小夏が再びリビングダイニングへと姿を現す。

「はい、ケンケンさん。インスタントですけど、どうぞ召し上がれ」

 リビングダイニングに姿を現した小夏はそう言いながら、芳醇な香りを漂わせるインスタントコーヒーが注がれた三つのマグカップの内の一つを手に取り、それを俺の眼の前に置いた。そして彼女もまた炬燵に潜り込むと、何の遠慮も前触れも無いままに、いきなり俺に問い掛ける。

「それでケンケンさん、小春とは、いつ頃結婚するつもりなんですか?」

 そう言った小夏の突然の問い掛けに、差し出されたインスタントコーヒーを「いただきます」と言ってからゆっくり啜っていた俺はそのコーヒーをぶっと噴き出すと、げほげほと激しくせてしまった。

「ちょ、な、小夏さん、俺が、柴さんと結婚だなんて、何をいきなりそんな事を?」

「あれ? 違うんですか? あたしはてっきり、ケンケンさんと小春は、結婚を前提として交際しているものと思ってたんですけど?」

 小夏がそう言えば、俺は彼女の疑問を肯定せざるを得ない。

「いや、まあ、確かに俺と柴さんが結婚を視野に入れながら交際しようって事になったのは事実だけど……未だいつ頃結婚するだとか言った具体的な話は、何も決まってないからね?」

 俺がそう言って釈明すると、俺と一緒に炬燵の火に当たる小夏は溜息交じりにがっくりと肩を落とし、あからさまに落胆する。

「なんだ、残念。引っ込み思案の小春にしては珍しく嬉しそうにケンケンさんと交際する事になったって報告するから、もう結婚する時期についても話し合っているに違いないって確信してたのに、随分と期待外れじゃないの? ね? ケンケンさんも男だったら、そう言った重要な事は、もっと早い段階からはっきりさせておいた方が良いんじゃないですか?」

 落胆しながら小夏はそう言うが、眼鏡の有無さえ除けば柴と全く同じ顔をした人物にこうも落胆されてしまうのは、何とも不思議な気分であると言わざるを得ない。

「いや、まあ、そう言われても……最近はお互いに仕事が忙し過ぎて、交際が決まってからも一度もデートも何も出来てないから……結婚の時期以前に、交際しているって言う実感に乏しくて……」

 俺はもごもごと口篭もるような口ぶりでもってそう言って、どうにも気不味そうに小夏から眼を逸らしつつ、具体的な明言を避けながら言葉を濁さざるを得なかった。何故なら互いに好意を抱いている事を確認し合ったあの日の夜、俺の事を未来の旦那様だと思ってくれなどと柴に宣言しておきながら、今日こんにちに至るまでキスやセックスと言った恋人同士らしい行為の数々を一切執り行えていなかったからである。

「え? そうなんですか? ケンケンさんってば結婚を前提にしながら交際するとか言っておいて、未だにデートの一回も出来ないでいるだなんて、それってちょっと無責任過ぎません?」

「……」

 恋愛関係にある筈の男女の理想像に関して追及する小夏を前にして、図星を突かれる格好になった俺は、ぐうの音も出ない。するとそんな俺ら二人が炬燵に潜り込んでいるリビングダイニングに、メイクを落として部屋着に着替え終えた柴が姿を現した。

「お、おおおお待たせしました。ケケケケンケンさん、い、いいい、いも、妹がご迷惑をお掛けしていませんか?」

 リビングダイニングに姿を現した柴がそう言えば、姉想いの小夏はぐうの音が出ないままの俺を他所に、炬燵から腰を上げる。

「あ、小春、もう着替え終わった? だったらレンジで温めておいたご飯も用意出来てる筈だから、今すぐ持って来るからね? 冷凍食品の炒飯と唐揚げだけど、あんたの大好物だし、それでいいでしょ?」

 炬燵から腰を上げながらそう言った小夏は、彼女の双子の姉である柴の夕飯を準備すべく、賃貸マンションのキッチンの方角へと姿を消した。するとそんな小夏と入れ替わるような格好でもって、今度は部屋着姿の柴が炬燵に潜り込んで暖を取り始める。

「柴さんって、妹さんが居たんだね。それも、双子の。今まで知らされてなかったもんだから、ちょっとだけ驚いたよ」

「ええ、べべべ別に隠していた訳ではないんですけど、な、なな、なん、なんだか今更紹介するのも恥ずかしくって、おおおお伝えするのが遅れちゃいました」

 柴はそう言って、照れ臭そうな、また同時に少しだけ申し訳無さそうな表情をこちらに向けた。

「しかし、柴さんと違って小夏さんは随分とアクティブと言うか何と言うか、とにかく随分と積極的な妹さんだね」

「そ、そそそ、そうなんですよ。こここ小夏は昔っから、あ、あああ、あと、後先考えずに、ななな何にでも首を突っ込んじゃうタイプなんですよね」

 そう言った柴に、俺は先程までの小夏の発言を蒸し返す。

「さっき小夏さんにね、結婚を視野に入れながら柴さんと交際している筈なのに、未だにデートの一回も出来ないでいるのは無責任なんじゃないかって言われちゃったよ」

「そ、そんな事言われたんですか? もう、こ、こここ、こな、小夏ったら無神経なんだから!」

「いや、まあ、確かに小夏さんの言う事にも一理あるからさ。俺も柴さんと交際しているつもりになっておきながら、恋人同士らしい事を何もしていないだなんて、無責任だと言われたらそれまでだよね」

 俺がそう言えば、柴はそんな俺を問い質さずにはいられない。

「だ、だだ、だったらケンケンさん? ケ、ケケケケンケンさんが誰からも無責任だと言われずに済むような、こ、こここ、こい、恋人同士らしい事って、い、いいい一体どんな事ですか?」

「そうだなあ……例えば、ありきたりだけど、キスする事とか?」

「キス……」

 俺の返答を耳にした柴は『キス』と言う単語を反芻するかのような表情と口調でもってそう言って、炬燵の中でもじもじと身を捩りながら、気恥ずかしそうに頬を赤らめた。そしてそんな彼女はこちらにそっと身を寄せると、俺の耳元でぼそりと囁く。

「キ、キキ、キス、ししし、して、してみます?」

「……」

 柴の提案に、俺と彼女の二人は視線を絡め合いながら、暫し無言で見つめ合った。そしてどちらからともなく顔を寄せ合うと、そのまま互いの唇をそっと重ね合う。

「……ん……」

 一頻ひとしきり互いの唇と唾液の味と感触を満喫し終えると、俺と柴は、やはりどちらからともなく寄せ合った顔を別離した。そして彼女との初めてのキスの余韻に耽る暇も無く、俺はキッチンとリビングダイニングとを繋ぐ扉の陰からこちらを除く小夏の姿を見咎める。

「こ、小夏さん? いつからそこに?」

「ちょっと小夏ってば、恥ずかしいからそんな眼で見ないでよ!」

 俺と柴はそう言って照れ隠しの言葉を並べ立てるが、小夏はそんな俺らに生温かい視線を向けながら、にやにやとほくそ笑むのを止めようとはしない。

「おやおや、これはこれはお二人とも、随分とお熱い仲なんじゃないかしら? もしかして、あたしってば、お邪魔虫でした?」

 にやにやとほくそ笑みながらそう言って俺ら二人を冷やかす小夏の視線に、遂に耐え切れなくなった俺は、顔面を真っ赤に紅潮させたまま炬燵から腰を上げた。

「柴さん、ごめん! 申し訳無いけど、ちょっと急用を思い出したから、これで帰らせてもらうよ!」

 激しく動揺しながらそう言った俺はあわあわと泡を喰うような格好でもってダウンジャケットを着込むと、柴と小夏をその場に残したままリビングダイニングに背を向け、短い廊下を渡った先の玄関で靴を履いてから退室を試みる。

「それじゃあ柴さん、明日……じゃなくて明後日、また会社で会おう! じゃ!」

 最後にそう言い残した俺は柴と小夏の自宅から足早に退室し、そのまま急いでエレベーターに乗って、やがて彼女ら二人が暮らす賃貸マンションを後にした。

「ふう」

 賃貸マンションの敷地を後にした俺はそう言って一息吐きながら、真冬の東京の、吐く息も凍り付くように冷たい外気にその身を晒した。そして仄白い満月が浮かぶ夜空を見上げつつ、俺と口付けを交わし合った柴の唇がもたらした、柔らかくも温かい感触を思い出す。

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