第六幕:virtual


 第六幕:virtual



 その夜、レオニードを乗せたウクライナ国際航空のエンブラエルE190型旅客機は、ウクライナの首都キエフの中心部から見て東南東の方角に位置するボルィースピリ国際空港の滑走路に降り立った。

「ふう」

 宵闇に包まれた空港のターミナルビルから退出し、シャトルバス乗り場へと足を向けながら一息吐いたレオニードは、羊毛ウールの軍用コートの胸ポケットから取り出したスマートフォンでもって現在の時刻を確認する。

「ああ、もう六時か。待ち合わせの時間に間に合えばいいんだが……」

 少しだけ気遣わしげな表情と口調でもってそう言ったレオニードは、時刻を確認し終えたスマートフォンを胸ポケットに仕舞い直すと、ちょうど到着したばかりのシャトルバスに乗り込んだ。そして彼を乗せたシャトルバスは東欧最大の都市キエフの中心部を目指して走り続け、やがて九つの通りが交差する独立広場で停車すれば、たまたま同乗した数多の乗客達と共にレオニードもまた降車する。

「さて、と」

 シャトルバスを降りたレオニードはそう言って、再び羊毛ウールの軍用コートの胸ポケットからスマートフォンを取り出した。そしてメモアプリに書き留められていた今夜の待ち合わせ場所であるパブの店名と所在地を再度確認すると、その所在地の方角へと足を向ける。

「キエフまで足を延ばしたのは、去年のホテルでの作戦行動以来かな。まして仲間を同伴せずに、プライベートな用件でもってここまで遠出するだなんて、果たしていつ以来の事だろう」

 まるで独り言つようにそう言いながら、真冬のキエフの街路を如何にも軍人らしい確固たる足取りでもって歩き続けたレオニードは、ものの十分と経たぬ内に目的地であるパブの店先で足を止めた。

「髑髏と舶刀カットラスかたどった海賊旗が目印の店となれば……ここで間違い無いな」

 そう言ったレオニードが扉を開けて『海賊亭パイレーツ』を標榜するパブの店内へと足を踏み入れ、きょろきょろと周囲を見渡せば、四人掛けのテーブル席に腰を下ろしていた一人の男が手を振りながら出迎える。

「ようレオニード、早かったな!」

 テーブル席から腰を上げ、こちらへと歩み寄りながらそう言って彼を出迎えたその男こそ、レオニードらとは敵対関係にある『連合王国』の秘密情報部の諜報員であるカーティス・キンケイドその人に他ならない。

「俺は昔から、待ち合わせに遅れるのが許せない性分でね」

 少しだけ誇らしげにそう言ったレオニードとカーティスは固い握手を交わし合い、向かい合わせになりながら、四人掛けのテーブル席に改めて腰を下ろした。そして大航海時代の海賊船に見立てた店内を巡回する若いウェイトレスを呼び止め、一通りの料理と酒を淀み無く注文し終えると、回りくどい事が嫌いな性分でもあるレオニードはさっそく本題に入る。

「それでカーティス、わざわざ敵である筈の俺をこんな所まで呼び出すなんて、一体何の理由があっての事だ?」

 せっかちなレオニードはそう言うが、彼の向かいの席に腰を下ろすカーティスは典型的な『連合王国』の国民らしく、決して焦らない。

「おいおい、レオニードよ、そんなに結論を急ぐもんじゃないぜ? 慌てる乞食は貰いが少ないとも言うし、ここは美味い酒と飯を飲み食いしながら、時間を掛けてゆっくりと歓談する事にしようじゃないか。それに、今夜ここに呼び出したのは、お前一人だけじゃないからな」

「何だと?」

 レオニードがそう言って訝しんだ次の瞬間、ちりんちりんと真鍮製のドアベルを鳴らしながらパブの扉が開いたかと思えば、カーキ色のトレンチコートに身を包んだ一人の女性が姿を現した。

「おや? レオニードもカーティスも、もう来ていたのか。するとどうやら、あたしが最後の一人のようだな」

 果たしてパブに入店するなりそう言ったトレンチコート姿の女性は、誰あろう『クラースヌイ・ピスタリェート』の現場指揮官を務めるミロスラーヴァ少佐その人であり、レオニードも軍服を着ていない彼女を眼にするのは久方振りの事である。

「これはこれはミロスラーヴァ少佐殿、本日は遠路遥々えんろはるばるキエフまでお越しいただきまして、感謝の念に堪えません」

「カーティス、堅苦しい挨拶は無しだ。今更あたしもキミも、たとえ『連邦』と『連合王国』とがいがみ合っているにせよ、他人行儀になって腹の探り合いをするような仲でもあるまい」

 溜息交じり苦笑しながらそう言ったミロスラーヴァ少佐は、故意にかしこまってみせるカーティスをたしなめると、彼とレオニードが腰を下ろすテーブル席に歩み寄った。

「少佐殿、何故、少佐殿がここに?」

 突然姿を現した直属の上官にそう言って問い掛ければ、ミロスラーヴァ少佐はカーキ色のトレンチコートを脱いでタートルネックのオーバーニットとデニムのスキニーパンツと言ったカジュアルな装いを披露しつつ、驚きを隠せない様子のレオニードの隣の席に腰を下ろす。

「随分と驚いているようだな、レオニード。しかしながらこのあたしに、カーティスとの亡命に関する計画を持ち掛けたのは他ならぬキミ自身なのだから、今になって驚かれるのは心外と言うものだ」

「そうだ、まさにその通りだ。確かに少佐殿の仰る通り、俺もお前も今回の一件の当事者の一人なのだから、俺と少佐殿との仲介役を買って出たお前が今になって驚く道理もあるまい。違うか?」

 するとレオニードの向かいの席に腰を下ろすカーティスもまたそう言って、やはり典型的な『連合王国』の国民らしい皮肉を交じえつつ、ミロスラーヴァ少佐の言い分に全面的に同意した。そしてそんな二人の姿を前にしたレオニードは観念し、溜息交じりにかぶりを振りつつも、まるで何かを悟ったかのような表情と口調でもって愚痴を漏らさざるを得ない。

「つまりカーティス、この俺の与り知らぬところでお前と少佐殿とは極秘裏に協議を繰り返し、お前が俺に持ち掛けた亡命に関する計画を一から練り上げる事に成功したと言う訳か」

 レオニードがそう言って、カーティスとミロスラーヴァ少佐との密計の進捗を看破してみせれば、看破された二人は首を縦に振る。

「ああ、そうとも、そうだとも! 喜ぶがいい、我が友レオニードよ! お前が今言った推測に違わず、お前ら『クラースヌイ・ピスタリェート』の面々の『連合王国』への亡命の目途が、ようやく立ったと言う訳さ!」

「そしてその事実を、こうしてあたしとカーティスの口から直々に、キミに伝えておきたくてね。だからレオニード、今夜はキミを、遠くキエフのこの店まで呼び出したと言う訳さ。何分なにぶんにも『連邦』の領土内でこんな計画を赤裸々に吐露した日には、連邦保安庁と憲兵が黙ってはいないだろうし、あたしもこの歳になってから強制労働に従事させられるのは御免だよ」

 カーティスとミロスラーヴァ少佐の二人はそう言って、亡命計画の実情を吐露すると一旦会話を打ち切り、パブの店内を巡回していた若いウェイトレスを呼び止めた。そしてメニューと睨めっこしながら一通りの酒と料理を注文し終えると、それらがテーブル席に配膳されのを待ってから、黄金色のエールビールがなみなみと注がれたグラスを高々と掲げる。

「乾杯!」

 声高らかにそう言ったミロスラーヴァ少佐の音頭でもって、各々が手にしたグラスをかちんと打ち鳴らし合ったレオニードら三人は、亡命の目途が立った事を祝してきんきんに冷やされたエールビールをぐびぐびと豪快に飲み下した。そしてテーブルの天板の上に並べられた代表的な王国料理の数々、つまり油で揚げたタラとジャガイモを盛り付けたフィッシュ・アンド・チップスやニシンを卵やジャガイモと共にパイ生地に包んで焼いたスターゲイジーパイ、それにバンガーズ・アンド・マッシュと呼ばれるマッシュポテトを添えたソーセージなどをむしゃむしゃと食み始める。世間一般的には王国料理は世界有数の不味い料理の代表格とされているものの、このパブの料理は王国人ではなくウクライナ人の料理人が調理しているおかげで、それなりの美味さを維持しているらしかった。

「ところで、少佐殿?」

 すると今宵の酒宴もたけなわの頃を迎え、彼女の都合四杯目のエールビールが注がれたグラスが空になった瞬間を見計らい、不意にレオニードがミロスラーヴァ少佐に問い掛ける。

「少佐殿は今回の俺達の亡命に関する一連の遣り取りを、既にガリーナに伝え終えているのでしょうか?」

「いや、少なくとも現段階において、ガリーナには一切何も伝えてはいない。密かに亡命を企てているようなあたし達が言えた義理ではないが、彼女には今以て反逆者としての嫌疑が掛けられているのだから、迂闊に口を滑らせる訳にも行かないからな。それがどうかしたのか、レオニード?」

 問い掛けられたミロスラーヴァ少佐はそう言って、大麦を原料とするモルトビネガーをたっぷり振り掛けたフィッシュ・アンド・チップスを指で摘まんで口に運びながら、逆にレオニードに問い返した。

「いえ、それが、実はちょっと困った事になっているのですが……」

「困った事? 何だ、一体?」

 ミロスラーヴァ少佐がそう言って重ねて問い掛ければ、レオニードはゆっくりと重い口を開く。

「実はつい先日、その日の任務を終えて司令部を後にした俺が、途中まで一緒に帰らないかと言って近付いて来たガリーナと共に帰宅の途に就いた時の事です。慣れない靴のせいで足が疲れたとか冷え切った身体を温めさせてくれとか何だとか言った、今にして思えば適当な理由をこじつけた彼女に、アパートメントの俺の自宅に強引に上がり込まれてしまいました」

「それで?」

「その際に、俺の自宅に上がり込んだガリーナは服を脱いで下着姿になると、俺との性交渉を要求し始めたのです。勿論俺は彼女の要求に応じる事無く、アパートメントから退出させましたが、果たして彼女の真意はどこにあるのでしょうか? 単にガリーナが俺に好意を抱いているだけかもしれませんが、彼女が反逆者だと仮定した場合、色仕掛けでもって篭絡した俺から『クラースヌイ・ピスタリェート』の任務に関する情報を聞き出そうとした可能性もまた捨て切れません」

「ふむ、成程。するとガリーナはキミから何かしらの情報を聞き出そうとしたか、もしくはキミもまた彼女の仲間、つまり『連邦』に仇なす反逆者に仕立て上げようとした可能性も考えられるな」

 ガリーナの奇行に関するレオニードの報告に耳を傾けていたミロスラーヴァ少佐は、そう言って彼女なりの推論を口にすると、腕を組んで眉間に深い縦皺を寄せながら暫し考え込んだ。そして一頻ひとしきり熟考した後に、都合四杯ものエールビールを飲み干し終えたとは思えないような冷静な表情と口調でもって、現状の分析と今後のレオニードらの身の振り方について口を開く。

「レオニード、今しがたのキミの報告によって、いまだ我々が尻尾も掴む事が出来ないでいる反逆者の正体がガリーナであると言う疑念が深まった。勿論現段階では決定的な証拠に乏しいので、幸か不幸か、彼女を反逆者と断定するには至らない。だからこそ以前も言った通り、キミは努めて平静を装いつつも、これまで以上にガリーナの動向に眼を光らせていてはくれまいか?」

「つまりそれは……この俺に、ガリーナの真意を探るべき内偵の任に就けと言う事でしょうか?」

「ああ、そうだ。内偵の任に就く、もしくはガリーナが反逆者であるかどうかを判断するための囮になってくれと言った方が、より正確な表現に近いかな?」

 内偵行為の有無と是非について問い質すレオニードに返答するような格好でもって、彼の直属の上官であるミロスラーヴァ少佐は申し訳無さそうに、そして少しだけ悪戯っぽい微笑を交じえながらそう言った。

「囮ですか……それはまた、随分と損な役回りですね」

「そう言ってくれるな、レオニードよ。確かに損な役回りではあるものの、これはキミにしか達成し得ない、非常に優先順位プライオリティの高い責任重大な任務の一つである事を自覚してくれ。それにもし万が一、あたしの推測通りガリーナこそが反逆者であった場合にはこうして極秘裏に『連合王国』と交渉していると言う情報もまた漏洩し、あたしやキミの亡命計画そのものがご破算になりかねないのだからな。失敗は、決して許されない」

 信頼の眼差しと共にそう言ったミロスラーヴァ少佐の言葉に、レオニードは自身の軽率な発言を撤回しつつ、決意を新たにする。

「了解しました、少佐殿。今しがたの俺の意見具申は、忘れてください。そして少佐殿の命令に従い、俺はある種の囮として、ガリーナが反逆者であるかどうかを見極めるべく内偵の任に就きます」

「ああ、任せたぞ」

 そう言ったミロスラーヴァ少佐がレオニードの背中をばんばんと平手で叩いて彼を鼓舞すれば、鼓舞されたレオニードは少しだけ誇らしげに微笑みながら、五杯目のエールビールをごくごくと飲み下してみせた。そしてそんなレオニードとミロスラーヴァ少佐の姿を眺めつつ、彼らの向かいの席に腰を下ろすカーティスは典型的な王国人らしく、にやにやと皮肉っぽくほくそ笑む。

「さあ、そうと決まれば、改めて乾杯だ!」

 ほくそ笑みつつもそう言ったカーティスの音頭でもって、再びグラスを打ち鳴らし合った彼ら三人は、ウクライナの首都キエフのパブの一角で杯を傾け続けた。そしてふと気付けばテーブルの上の皿もグラスもすっかり空になり、店内からは客の気配も消え失せ、やがて閉店時間を迎える。

「本日はご来店いただき、誠にありがとうございました。またのお越しをお待ちしております」

 決して心からそう思っている訳ではなく、あくまでも商売の上でのリップサービスの一環としてそう言った若いウェイトレスに見送られながら、会計を終えたレオニードら三人はパブを後にした。温かかった店内から真冬の戸外へと一歩足を踏み出せば、いつの間にか分厚い雪雲に覆われていた夜空からははらはらと冷たい粉雪が舞い落ち、氷点下まで下がった気温によって吐く息は真っ白に凍り付く。

「さて、と。カーティス、少佐殿、これからどうなさいますか?」

 パブから退店したレオニードはそう言って、街道を行き交う車輛のテールランプの赤く輝く軌跡を見るともなしに眼で追いながら、彼の背後に立つカーティスとミロスラーヴァ少佐に今後の予定について問い掛けた。

「あたしはこれから空港に直行し、今夜の最終便で『連邦』に帰る事にするよ。週明けに国防大臣と参謀総長を交じえた大事な会議が予定されているから、そのための資料を明日中に纏めなければならないからな」

「ああ、俺もこれから急いで『連合王国』に帰って、近々実行に移される筈の次の大規模作戦に備えなければならない。それでレオニード、そう言うお前こそ、今夜はこれからどうするつもりだ?」

 ミロスラーヴァ少佐とカーティスがそう言って問い返せば、レオニードもまたその問い掛けに返答する。

「俺はお前や少佐殿と違って特に急ぐべき用事も無い事だし、このままどこか市内のホテルにでも一泊させてもらって、明日一日を利用してキエフ観光を楽しんでから帰る事にするよ」

「そうか、それじゃあレオニードもカーティスも、あたし達はここでお別れだな。今夜は楽しかったよ。また飲もう」

 笑顔と共にそう言ったミロスラーヴァ少佐の言葉を合図にしながら、レオニードら三人は閉店直後のパブの店先で別れの挨拶を口にしつつ解散し、それぞれの目的地の方角へと足を向けた。そしてとぼとぼと深夜のキエフの街の街道沿いの歩道を当ても無く歩き続けたレオニードは、やがて一棟の小規模なホテルを発見すると、ここを今夜の宿とする事を少しだけ逡巡してから決意する。

「一泊したいんだが、シングルの部屋は空いているか?」

 ホテルのロビーに足を踏み入れたレオニードはそう言って、フロントのスツールに腰掛けたままうつらうつらと舟を漕いでいたホテルマンに覚醒を促しつつ、泊まれる部屋の有無について問い掛けた。

「……え? あ、はい、シングルの部屋でございますね? ええ、空いております」

 半分寝惚けながらそう言ったフロント係のホテルマンが宿泊者名簿をこちらに差し出したので、その宿泊者名簿にレオニードがサインすれば、ホテルマンは客室のルームキーを彼に手渡す。

「四階の一番奥の部屋でございます。どうぞ、ごゆっくり」

「ああ、ありがとう」

 フロントでルームキーを受け取ったレオニードはそう言うと、ロビーの奥に位置するエレベーターの方角へと足を向けた。どうやらここはあまり高級なホテルではないので、荷物を運んでくれるポーターや、客室まで案内してくれるベルパーソンと言った雑務を担当するスタッフは常駐してはいないらしい。そしてエレベーターに乗って四階へと移動したレオニードは廊下を渡り切り、ルームキーでもって鍵を開けてから彼が宿泊すべき客室に足を踏み入れると、降りしきる粉雪で濡れた羊毛ウールの軍用コートを脱いで一息吐く。

「ふう」

 そう言って一息吐いたレオニードは、さっそく夜風に当たって冷え切ってしまった身体を温めながら酔いを醒ますべく、客室のバスルームへと移動した。そして服を脱いで全裸になり、熱くほとばしるシャワーをざぶざぶと浴びる事によって全身に溜まった汚れと疲労を洗い流し終えると、備え付けのバスローブを身に纏ってからバスルームを後にする。

「もうこんな時間か」

 バスルームで熱いシャワーを浴び終え、客室のベッドルームを兼ねたリビングルームへと再び足を踏み入れたレオニードはそう言うと、ホテルの備品である液晶テレビの電源を入れた。そしてリモコンのボタンを適当に押しながらザッピングを繰り返し、暇潰しの手段を探していたものの、、彼が興味を抱くような番組が放送されていないと判断するや電源を落としてベッドに横になる。

「……寝るか」

 独り言つようにそう言ったレオニードがベッドに横になりながら眼を閉じた、その時であった。脱ぎ捨てた羊毛ウールの軍用コートのポケットの中のスマートフォンが、不意に軽快な着信音を奏で始める。

「もしもし、ヴァレンチナ、キミなのか?」

 スマートフォンの液晶画面に眼を遣りながら、そこに表示されている発信者である筈のヴァレンチナの名前を確認したレオニードは応答ボタンをタップし、送話口に向けてそう言った。

「は、はい! も、もしもし、ああああたしです! ヴァヴァ、ヴァレ、ヴァレンチナです!」

 するとスマートフォンの向こうから、彼女の特徴的な声と口調が聞こえて来たので、レオニードは少しだけ安堵する。

「一体どうしたんだヴァレンチナ、突然こんな遅い時間に、キミが電話を掛けて来るだなんて? 何かこの俺に危急の用事とでも言うべきか、とにかく急いで電話を掛けてでも伝えなければならないような、重要な案件でも発生したのか?」

「い、いえ、そそそそう言う訳でもないんですが……その、ちょ、ちょっとだけ、お、おは、お話し出来ませんか?」

「?」

 唐突に「お話し出来ませんか?」などと言い出したヴァレンチナの言葉に、バスローブ姿のままベッドの縁に腰掛けたレオニードは、頭の上に見えない疑問符を浮かべながら訝しまざるを得ない。

「何? 話だと? その話と言うのはもしかして、今後の『クラースヌイ・ピスタリェート』の任務や作戦行動に関する相談か何かなのか? ん?」

「そ、そそそそうではなくて、えっと、その、もっと、プププ、プラ、プライベートなお話がしたいんです!」

「プライベートな話? この俺と?」

 思わず声が裏返りそうになりながらそう言ったレオニードは、益々訝しむとでも言うべきか、とにかく率直に言ってひどく驚かざるを得なかった。何故なら未だ未成年だった頃に軍部に志願して以来、決して表舞台に立つ事が許されない血と油にまみれた裏社会で生きて来た彼にとって、うら若き女性からプライベートに関する話題を持ち掛けられたのはこれが初めての経験だったからに他ならない。勿論そのうら若き女性が、レオニードと同じ『クラースヌイ・ピスタリェート』の、やはり血と油にまみれた裏社会で生きる同僚である点を差し引いたとしてもである。

「は、はい! だ、だだ、だ、駄目ですか?」

「いや、別に駄目と言う訳ではないが……それでヴァレンチナ、具体的に、キミは一体この俺とどんな会話を繰り広げる事を期待していると言うんだ?」

 レオニードがそう言って問い掛ければ、てっきり女のお喋りに付き合わされると思っていた彼の予想に反し、スマートフォンの向こうのヴァレンチナは寡言沈黙かげんちんもくと言う四文字熟語を体現するかのようにジッと押し黙ってしまった。そしておよそ五分間ばかりも押し黙り続けた後に、ようやく覚悟が決まったのか、彼女は沈黙を打ち破ってレオニードに問い返す。

「レ、レオニードは、ククク、ク、クラースヌイ・ピスタリェートが解散された後の身の振り方は、も、ももも、もう、もう決めているんですか?」

「え? あ、ああ、もう決めていると言うべきか何と言うべきか……未だ詳細ははっきりしてないものの、それとなく大方の身の振り方は決まりつつあるが、それがどうかしたのか?」

「そ、そうなんですか? た、たた、たと、たとえば、ぐぐぐ軍人を辞めて、け、結婚するとかですか?」

「は? 結婚?」

 突然の予期せぬヴァレンチナの言葉に、レオニードは思わずそう言って、再び驚かざるを得なかった。

「ち、ちが、違いましたか?」

「違うも何も、そもそも俺なんかと結婚したいと思うような風変わりな女性が、この世に存在する筈が無いだろう?」

 溜息交じりにそう言ってレオニードが彼女の疑問を真っ向から否定すれば、結婚相手が居る筈が無いと言う彼の言葉がにわかには信じられないのか、ヴァレンチナは重ねて問い掛ける。

「え? で、でもレオニードは、ガガガガリーナと、け、けけけっこ、結婚の約束をした間柄なんですよね? ち、違いますか?」

 どうやらヴァレンチナは、以前司令部の地下でのガリーナの発言を、今尚信じ込んでしまっているらしい。

「いや、だからガリーナが俺の事を未来の旦那様などと表現したのは全くの出鱈目、つまり事実無根の口から出任せに過ぎないんだって! 彼女は何と言うか、ある種の虚言癖とでも言うべきか、とにかく自分にとって都合の良い嘘を悪びれる事無く吹聴する悪い癖があるんだよ!」

「ほ、本当に?」

「ああ、本当だ。その証拠に、俺は恥ずかしながら、この歳になっても女を篭絡する事を目的とした任務以外で女を抱いた経験が無い。つまり結婚相手はおろか、軍務にかまけてばかりでどこの誰とも恋愛関係を築いて来なかった、ある種の童貞にも劣るような男なんだよ」

 レオニードがそう言って、ガリーナとの関係について釈明すると同時に彼自身の恋愛遍歴を吐露すれば、ヴァレンチナもまた驚かざるを得ない。

「レ、レオニードってば、こ、こここ、こい、恋人が居た事が無いんですか? いいい一度も?」

「そうとも、一度も無い。笑いたければ笑え」

 ひどく自嘲気味にそう言ったレオニードの言葉に、スマートフォンの向こうのヴァレンチナは「よ、良かった」と言いながら、ホッと安堵の溜息を漏らした。しかしながら鈍感なレオニードは乙女心にも男女の人間関係にも疎いため、何故彼女が安堵するのかが理解出来ず、スマートフォンを手にしたままきょとんと呆けるばかりである。

「だ、だったらですね、レレレレオニード?」

「ん? 何だ?」

「あ、あた、あたしと結婚してくれませんか?」

 スマートフォンの向こうのヴァレンチナは、彼女にとっては熟考に熟考を重ねた末での結論なのだろうが、少なくともレオニードにとってはまさに寝耳に水とでも表現すべき唐突さでもってそう言った。そしてヴァレンチナにプロポーズされてしまったレオニードは言葉を失い、ホテルの客室のベッドの縁に腰掛けたまま、まるで処理落ちしたコンピューターの様にその思考が停止する。

「……結婚? 俺が? キミと? 俺が? 結婚?」

 やがて処理落ちから回復したらしいレオニードはそう言って激しく泡を喰いながら、今度は壊れて針が飛んだアナログレコードさながらに、全く同じ言葉を何度も何度も繰り返し口にした。そして一頻ひとしきり混乱し終えた後に、ようやく正常な思考を取り戻した彼は、スマートフォンの向こうのヴァレンチナに改めて確認する。

「……つまりヴァレンチナ、キミは本当に、俺なんかと結婚したいと言ってくれているんだな?」

「は、はい そそそそうです! ……や、やっぱり、だ、だだ、駄目ですか?」

「いや、その、駄目と言うか何と言うか……とにかく突然の事に驚いてしまって、済まんが、何と言って返答すればいいのか分からなくなってしまっているんだ。まさかヴァレンチナ、キミからこんな電話越しにプロポーズされるだなんて事は、想像もしていなかったからね」

「ご、ごめんなさい。だだだ、だけ、だけどどうしても今夜中に、あ、あなたにあたしの気持ちを伝えておきたくて……ご迷惑でした?」

「迷惑ではないが……本当に、俺なんかでいいのか?」

 レオニードはひどく困惑しながらもそう言って、ヴァレンチナに問い返した。

「は、はい! ああああたしはあなたがいいんです! あ、あああ、あな、あなたと結婚したいんです!」

 うら若き女性からこんなに熱烈にプロポーズされてしまっては、最早レオニードに、それを鰾膠にべも無く断るような意味も理由も無い。

「そうか……だとしたら、俺もキミと結婚する事に、やぶさかではないとだけ言っておこう」

「そそそそんな返答じゃ、あ、あた、あたし納得行きません! も、ももももっとはっきりと、あ、あた、あたしと結婚してくれるのかどうか、こここ答えてください!」

 そう言って言質を取らんとするヴァレンチナの声を耳にして、彼女に気圧けおされるような格好になったレオニードは、一旦呼吸を整えてから改めて返答する。

「ああ、そうだな。済まん、はっきり言うよ。ヴァレンチナ、キミさえ良ければ、俺と結婚してくれ」

「!」

 たとえ只の電子機器に過ぎないスマートフォン越しであっても、プロポーズに対する返礼とも言えるレオニードの言葉を耳にしたヴァレンチナははっと息を呑み、遠く『連邦』の地に居る筈の彼女の顔が驚きと喜びでもって真っ赤に紅潮するのがありありと感じ取れた。そして一拍の間を置いてから、スマートフォンの向こうの彼女は嗚咽を噛み殺しながらむせび泣き始める。

「おい、ヴァレンチナ、どうしたんだ?」

「ご、ごめんなさい、ああああたし嬉しくって、な、ななな、なみ、涙が止まらないんです!」

 噛み殺された嗚咽交じりにそう言ったヴァレンチナの言葉から察するに、どうやら彼女が流す涙は、プロポーズが成功した事による嬉し涙と思われた。

「なんだ、突然こんな深夜に自分からプロポーズしておいて、今更になって一方的に泣き出しているのか? キミがこんなに自分勝手な女だっただなんて、今の今まで知らなかったよ」

「ご、ごごごごめんなさい、で、ででででもあたし、う、ううう、うれ、嬉しくってどうしても涙が止まらないんです!」

 そう言っていつまでも泣き止まないヴァレンチナの様子に、バスローブ姿のレオニードは深い深い溜息を吐いて呆れ果てながらも、スマートフォンの向こうの彼女に慰撫の言葉を投げ掛ける。

「分かったよヴァレンチナ、だったらいつまでも気の済むまで泣き続けて、その嬉しさをキミ一人で独り占めすればいいさ。そして俺が『連邦』に帰ったら、結婚式はどうするかとか新居はどうするかと言った、二人の今後について一緒に考えよう。いいね?」

「……はい……」

 スマートフォンの向こうのヴァレンチナはそう言って、いつまでも嗚咽を噛み殺しながらむせび泣き続けた。そしてそんな彼女の鳴き声に耳を傾けるレオニードの表情と眼差しは、まるで我が子を見守る慈母のそれの様に温かい。

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