第六幕:real


 第六幕:real



 それは一月も下旬へと差し掛かり、窓の外では肌に突き刺さるかのように冷たい北風が吹き荒ぶ、とある金曜日の終業時刻間際の事であった。タブレットペンを握りながら業務に邁進する俺が穿いているデニムジーンズのポケットの中のスマートフォンが、不意に軽快な着信音を奏で始める。

「誰だ、こんな時間に?」

 秋葉原UDXの24階の㈱コム・アインデジタルエンターテイメントのオフィスの自分のデスクに腰を下ろしていた俺はそう言って、ポケットから取り出したスマートフォンの液晶画面を確認してみれば、そこには『福嶋鷹央』と言う旧友の名前が表示されていた。

「もしもし?」

 オフィス内での私的な通話は禁じられているので、スマートフォンを持ったまま廊下へと移動した俺が送話口に向けてそう言えば、受話口越しに鷹央の声が聞こえて来る。

「もしもし、賢人か? 俺だよ、俺」

「ああ、分かってるよ、鷹央だろ?」

 やはりスマートフォンの向こうの通話相手は、学生時代のかつての同期生であり、また同時に卒業後は同じゲーム業界へと進出した同業者でもある福嶋鷹央その人であった。

「久し振りだな、去年の夏以来か?」

「そうだな、今更だけど、新年明けましておめでとう」

「ああ、おめでとう」

 遅蒔きながら、俺はそう言っておよそ三週間遅れの新年の挨拶を終えると、改めて本題に入る。

「それで鷹央、こんな時間に、一体何の用だ?」

「ああ、実は以前話した移籍の件に関して、お前に伝えておきたい事があってな? だから今夜これから報告ついでに、上野か御徒町辺りで一緒に飯でも食わないか? ちょうど明日は休みだし、お前も未だ秋葉原に居るんだろ?」

 どうやら鷹央は俺と一緒に飯を食いながら、以前からの懸案事項である俺らの移籍の件に関して報告したい事があるらしい。

「分かった、俺は構わないよ。それじゃあ前回は御徒町の食肉センターだったが、今回はこの辺の、どの店で飯にする?」

「それなら今回も、前回と同じ焼肉屋でいいんじゃないか? 俺はまたあの店の網脂でぎとぎとのレバーが食いたいし、実はもうJRの御徒町駅の駅前に居るから、お前が到着する前に店の中で待ってるからさ」

「ああ、そうしてくれ。俺もあと五分で終業時刻だし、会社を出たら、すぐそっちに向かうよ」

「そうか、よし、分かった。それじゃあその御徒町の食肉センターとやらに先に入店してビールでも飲みながら待ってるから、急いで来いよ」

 スマートフォンの向こうの鷹央がそう言うと、俺は液晶画面をタップし、滞り無く通話を終えた。するとオフィスに戻ると同時に時計の針が午後五時四十五分の終業時刻を指し示したので、デスクトップパソコンとノートパソコン、それに液晶タブレットの電源を落とした俺は「それじゃあ、お先に失礼します」と言ってから席を立つ。

「さて、と。御徒町までだったら、今回もまた歩いて行くか」

 ダウンジャケットを着込みながらオフィスから退出し、エレベーターに乗って一階まで移動した俺は小声でもってそう言って、秋葉原UDXを後にすると同時に中央通りの方角へと足を向けた。そして多くの買い物客や物見遊山の観光客が行き交う中央通りを脇目も振らずに北上し続け、東京メトロ銀座線の末広町駅を通過すれば、やがて上野広小路駅の真上に建つ『神保町食肉センター上野店』の前へと辿り着く。

「いらっしゃいませ、一名様ですか?」

「あ、いえ、待ち合わせです」

 雑居ビルの二階の、今夜の酒宴の会場である『神保町食肉センター上野店』の扉を潜った俺は出迎えてくれた女性スタッフにそう言いながら、きょろきょろと店内を見渡した。

「よう鷹央、待った……あれ?」

 狭く薄暗い店内の、窓際のテーブル席に鷹央の姿を発見した俺は我が眼を疑いながらそう言って、どうにも虚を突かれる格好にならざるを得ない。何故なら俺に先んじてぐびぐびと生ビールを飲んでいた鷹央の向かいの席に、良く見知った第三の人物が腰を下ろしていたからである。

「やあワンコくん、遅かったね。キミの到着を待つべきかとも思ったが、福嶋くんと一緒に先に始めさせてもらっているよ」

 果たして生ビールの男前ジョッキを傾けながらそう言った第三の人物は、この世で唯一人俺の事を『ワンコくん』と呼ぶ女性、つまり俺の直属の上司である鍛治屋敷静香その人であった。

「え? あれ? なんで鍛治屋敷さんが、鷹央と一緒に?」

 俺が驚きながらそう言えば、鍛治屋敷と同じく男前ジョッキを傾けながら、彼女の向かいの席に腰を下ろす鷹央が俺の疑問に答える。

「ああ、実は二週間くらい前にこちらの鍛治屋敷さんからこの俺に、電話とメールで連絡があってな? それからずっと、俺と鍛治屋敷さんに俺の直属の上司も含めた三人で、水面下でお前らの移籍に関して話し合っていたんだ。俺ら三人だけで話を進めるのは、なんだか当事者である筈のお前を除け者にしているようで少しばかり気が引けたが、まあ、勘弁してくれよ」

 そう言った鷹央の言葉によれば、今からおよそ二週間前、つまり俺が鍛治屋敷に彼の名刺を渡した直後から水面下での移籍交渉が行われていたと言う事らしい。

「とにかく立ち話もなんだし、駆け付け三杯って訳じゃないが、お前もこっちに来て一杯やれよな」

「そうだな、そうさせてもらうよ」

 ダウンジャケットを脱いだ俺はそう言って、鷹央の隣の席に腰を下ろすと、手を挙げながら呼び止めた女性スタッフに注文する。

「生ビールの、男前ジョッキを一つ」

 取り敢えずそう言って飲み物だけでも注文すれば、程無くして大ジョッキよりも大きな男前ジョッキに注がれた生ビールが俺らが腰を下ろすテーブルまで運ばれて来たので、俺はそれをごくごくと豪快に飲み下した。秋葉原からここまで歩いて来たがために火照った身体に、きんきんに冷やされた生ビールの爽やかな苦みが染み渡り、何とも言えず心地良い。

「それじゃあワンコくんが到着して面子めんつも揃った事だし、そろそろビールだけじゃなくて、お肉も注文しようか」

 そう言った鍛治屋敷の言葉に従い、俺と鷹央と彼女の三人は『神保町食肉センター上野店』の店内を巡回していた女性スタッフを呼び止め、看板メニューであるレバーやハラミやトロハツと言った人数分の肉類を一通り注文し終えてメニューを閉じた。そして一旦厨房へと取って返した女性スタッフが再び姿を現し、注文した肉やキムチが盛られたステンレス製の皿をテーブルの上に並べると、俺ら三人は新鮮なそれらの肉類をロースターで焼き始める。

「それで、現段階で俺らの移籍交渉は、どのくらい話が進んでるんだ?」

 俺はロースターで焼いたレバーを箸で摘まみ、それを口に運びながらそう言って、隣の席に腰を下ろす鷹央に問い掛けた。すると鷹央もまた焼き上がったハラミを口に運びながら、にやりと意味深にほくそ笑みつつ返答する。

「そうそう、その件なんだがな? 実は俺の上司と俺の会社の人事部とで協議を重ねた結果、どうやら『クラースヌイ・ピスタリェート』の開発チームが丸ごと移籍出来る目途が立ったらしいんだ」

「マジか?」

「ああ、マジだ。以前も言った通り、うちの子会社でコンシューマー向けの製作部署を新設しようって言う話が持ち上がってるから、そこのスタッフとしての中途採用の枠が確保出来る事がほぼほぼ固まったと言う訳さ。勿論全てのスタッフが何の制約も無いまま移籍出来る訳ではなく、面接なり何なりである程度は選別させてもらう事になるだろうが、それでも大半のスタッフは問題無く移籍出来る筈だ。だから今はこちらの鍛治屋敷さんに依頼して、お前の会社を解雇されるスタッフ一人一人に、移籍する意思があるかどうかを確認してもらっているところだよ」

 そう言った鷹央の言葉から察するに、どうやら懸案事項であった『クラースヌイ・ピスタリェート』の開発チームの移籍交渉は、俺が予想していた以上のスピード感を維持しながら進展しているものと思われた。

「そんな訳だから、ワンコくん。今回の一連の移籍問題の言い出しっぺの一人として、こうしてあたしと福嶋くん達との交渉の進捗具合を伝えると同時に、キミにもまた㈱PFエンターテイメントの子会社に移籍する意思があるかどうかの最終確認をしておこうと思ってな」

「成程。そう言った理由でもって、鷹央と鍛治屋敷さんは、俺はここに呼び出したと言う訳なんですね?」

「そうとも、その通りだ」

 俺と鷹央の向かいの席に腰を下ろした鍛治屋敷はそう言うと、居住まいを正し、改めて俺に確認する。

「今更こんな事は聞くまでもない事だとは思うものの、それでも一応言質を取って、確認しておきたい。ワンコくん、キミはあたしや他のスタッフ達と一緒に、今の会社から新たな会社へと移籍する気はあるかい?」

「俺は……」

 鍛治屋敷の問い掛けに対する俺の返答は、敢えて彼女に聞かれるまでもない。

「……俺は勿論、移籍するつもりです。いや、誰に何と言われようとも、絶対に移籍します!」

 俺が迷う事無くそう言えば、まるで一昔前に流行った渋谷のギャルの様な風貌の鍛治屋敷は真っ白で健康そうな歯を覗かせながら、日サロで小麦色に焼いた顔を屈託無く綻ばせる。

「よくぞ言い切ったぞ、ワンコくん! それでこそ、このあたしが眼を掛けた期待の星であり、新進気鋭のデザイナーの心意気ってもんじゃないか! さあ、それじゃあワンコくんも福嶋くんも、あたし達の移籍の目途が立った事を祝して、今夜は飲み明かすぞ! 乾杯!」

「乾杯!」

 鍛治屋敷の音頭に合わせてそう言った俺と鷹央、それに鍛治屋敷自身もまた各自の男前ジョッキを手に取り、そこに注がれていた生ビールをごくごくと豪快に飲み下した。そしてテーブルの中央に設置されたロースターの上で次々と焼き上げられる、牛や豚の内臓を中心とした肉類を競い合うようにして貪り食っていると、俺はふと気になった事を彼女に問い掛ける。

「ところで鍛治屋敷さん、さっき鷹央が、スタッフ一人一人に移籍する意思があるかどうかを確認してるって言ってましたよね?」

「ん? ああ、うん、そうだな」

「だとしたら鍛治屋敷さんは、もう既に、上別府さんにも移籍の意思の有無について確認したんですか?」

 そう言った俺の問い掛けに、不意に箸を持つ手を止めた鍛治屋敷は、少しだけ困ったような渋い表情をこちらに向けた。

「いや、彼女には確認していないよ。何故なら今回の移籍交渉の対象者はあくまでも技術職の開発スタッフだけで、デザイナーでもプログラマーでもシステムエンジニアでもない事務職の上別府くんは、この限りではないからね。だから残念ながら、彼女には申し訳無いと思いつつも、上別府くんだけはあたし達が移籍する事を知らされてはいないと言う訳さ」

「そうですか、それを聞いて安心しました」

 俺がそう言って、ホッと安堵の溜息を吐きながら胸を撫で下ろせば、そんな俺に鍛治屋敷は不審そうな眼を向ける。

「なんだワンコくん、キミは未だ、例の彼女とのいざこざを解決出来ていないのか? 確か上別府くんとキミとが結婚を視野に入れながら交際していると言うのは、彼女の狂言なんだろう?」

「ええ、まあ、そうなんですが……」

 そう言って口籠る俺の様子に、隣の席に腰を下ろす鷹央は興味を抱かざるを得ない。

「ん? おい賢人、一体どこの誰なんだ、その上別府さんとか言うちょっと変わった名前の女性は? それに結婚を視野に入れながら交際してるだなんて、お前、いつの間にそんな恋人なんか作ったんだ? ん?」

 事の真相を知らない鷹央はそう言って、俺の脇腹を肘で何度も小突きながら、まるで学生時代に戻ったかのような無邪気さでもって俺を冷やかした。

「違うよ鷹央、上別府さんは、断じて俺の恋人なんかじゃない。いや、恋人どころか同じ会社に勤める同僚の一人ってだけなのに、事ある毎にしつこくストーキングされて、こっちはすっかり困り切ってるんだからな」

 俺が溜息交じりにそう言えば、益々興味を抱いたらしい鷹央は重ねて問い掛ける。

「ストーキング? 例えば?」

「俺と彼女が交際してるって言う根も葉も無い風説を流布されたり、忘年会の際には俺が用を足していた飲食店のトイレに乱入して、色仕掛け交じりに恫喝されたりさ。それにこの前なんて浅草の俺の自宅にまで勝手に上がり込んで、服を脱いで裸になった上に、彼女とのセックスを強要され掛けたんだから言葉も無い。ああ、まったく、思い出しただけでも気が滅入る」

 かぶりを振りながらそう言うと、俺は残念な容姿の上別府の十人並みの顔を脳裏に思い浮かべつつ、まるで彼女に惚れられてしまった自らの運命を呪うかのような苦笑いを漏らした。

「何と言うか……それはまた……災難だったな」

 鷹央が呆れ返りながらそう言えば、俺と彼との遣り取りに耳を傾けていた鍛治屋敷が突然、頭を下げて謝罪する。

「済まん、ワンコくん! ちょっと眼を離した隙にキミと上別府くんとがそんな事になっていただなんて、全ては彼女を指導すべき立場に立つ、このあたしの不手際だ! 今更ながら頭を下げても詮無い事だが、どうかあたしの監督不行き届きを、今ここで謝罪させてほしい!」

「いや、そんな、止めてくださいよ鍛治屋敷さん! そんな謝ったりせずに、今すぐ頭を上げてくださいってば!」

 俺は焦りながらそう言うが、鍛治屋敷は頭を下げたままの姿勢を維持し、一向に謝罪を止める気配が無い。するとその時不意に、俺が穿いているデニムジーンズのポケットの中のスマートフォンが、空気を読まずに軽快な着信音を奏で始める。

「もしもし?」

「あ、も、もしもし? ケケケケンケンさんですか?」

 その声と特徴的な口調から察するに、スマートフォンの向こうの通話相手は、キャラクターの表示周りを担当するプログラマーの柴であった。

「ああ、どうしたの柴さん、こんな時間に?」

「え、えっと、その、ここここれからデバッグ用にフィックスデータをコンバートする事が急遽決定しましたので、どどど、どう、どうしても歩行戦車ウォーカータンクの最新のモデルデータが必要になってしまったんです! で、ですからケンケンさん、ももも申し訳ありませんが、い、今、今から会社に戻って来てデータをエクスポートしてもらえませんか?」

 激しくどもりながらそう言った柴の言葉によれば、どうやら歩行戦車ウォーカータンクのデザインを担当するデザイナーである俺は、今すぐにでも秋葉原UDXのオフィスに取って返さねばならなくなってしまったらしい。

「ああ、うん、成程ね。それじゃあこれから急いで会社に戻るから、ちょっとだけ待っててくれるかな?」

「は、はい、おおおお待ちしています! し、しつ、失礼します!」

「うん、それじゃ」

 俺はそう言うと、スマートフォンの液晶画面をタップして通話を終えた。そして眼の前の男前ジョッキの底に残っていた生ビールを一息に飲み干してから腰を上げ、鍛治屋敷と鷹央に詫びの言葉を述べる。

「鍛治屋敷さん、鷹央、済まんがちょっとした野暮用でもって、今すぐ会社に戻って必要なデータをエクスポートする事になったらしい。だから申し訳無いけれど、俺はこれで中座させてもらうよ」

「どうした賢人、随分と急な呼び出しだな」

「ワンコくん、キミが会社に戻るなら今夜はもうこれでお開きにして、あたしも同行しようか?」

 鷹央と鍛治屋敷はそう言うが、如何にこの俺が気が利かない人間の代表格である中年の独身男性とは言え、こちらの事情に彼らを巻き込むほど無粋ではない。

「いやいやいや、二人ともせっかくの酒の席なんだから、今は仕事を忘れて気が済むまで飲み明かしてくれて構わないさ。それじゃあ俺は急いで会社に戻るんで、鷹央も鍛治屋敷さんも、俺の分の肉も食いまくってくれよな」

 最後にそう言った俺は自分が飲み食いした分のおおよその代金を鷹央に手渡し、タートルネックのニットの上からダウンジャケットを着込むと、多くの酔客で賑わう『神保町食肉センター上野店』から足早に立ち去った。そして頬に突き刺さる真冬の夜風に晒されながら、来た道を引き返すような格好でもって中央通りを南下し続ければ、やがて仄白い月明かりに照らされた秋葉原UDXへと辿り着く。

「柴さん、お待たせ」

 秋葉原UDXの24階の、人も疎らな㈱コム・アインデジタルエンターテイメントのオフィスへと足を踏み入れた俺はダウンジャケットを着たままそう言って、彼女のデスクに腰を下ろす柴の名を呼んだ。

「あ、ケケケケンケンさん、お、おま、お待ちしてました!」

 すると待ちぼうけを喰わされるような格好でもって、手持ち無沙汰な状態で暇を持て余していたらしい柴はそう言って俺を出迎えると、さっそく電話口でも話題に上った仕事の話に取り掛かる。

「そ、それではケンケンさん、ささささっそくで申し訳ありませんが、ウォ、ウォウォ歩行戦車ウォーカータンクの最新のモデルデータのエクスポートをよろしくお願いします!」

「ああ、うん、今すぐエクスポートするから、ちょっと待っててね」

 そう言った俺は隣のブロックの自分のデスクへと移動し、デスクトップパソコンの電源を入れてOSとMayaを起動すると、つい先日完成したばかりの歩行戦車ウォーカータンクの最新のモデルデータを読み込んだ。そして自社ツールでもってそのモデルデータを開発サーバ内のデータベース上にエクスポートし終えてから、再び柴のデスクへと取って返す。

「柴さん、たった今、エクスポートし終わったよ。それとテクスチャも少しだけ更新してるから、モデルデータをコンバートするついでに、そっちの方も忘れすにコンバートしてもらえるかな?」

「は、はい! あああありがとうございます!」

 そう言った柴はデスクに向き直り、マウスとキーボードを巧みに操作しながら、彼女が表示周りを担当するキャラクターのモデルデータやテクスチャデータをコンバートし始めた。するとどうやら歩行戦車ウォーカータンク以外のモデルデータも纏めてコンバートしているらしく、ハイエンド機種のデスクトップパソコンと繋がったモニタ上には、鮮やかな緑色に輝くプログレスバーと共にコンバートが終わるまでのおおよその待ち時間が表示される。

「あ、あり、ありがとうございました、ケケケケンケンさん! あ、あああ後はあたしがコンバートの結果を開発機で確認するだけですから、ど、どどど、どう、どうぞお帰りください!」

 柴はそう言うが、いくら俺だって、うら若い女性を置き去りにしたままとっとと帰ってしまうほど薄情ではない。

「いや、俺も柴さんと一緒にコンバートが終わるまでここで待たせてもらって、結果を確認してから帰る事にするよ。もし万が一エクスポートが失敗していたら、またぞろ会社に戻って来なきゃならない事にもなりかねないし、そうなったら二度手間三度手間もいいところだからね」

 柴の隣の無人のデスクに腰を下ろした俺がそう言って微笑めば、柴もまた無言のまま微笑み返し、暫し二人でコンバートが終わるのを待ち続ける。

「と、ところで、ケケケケンケンさん?」

「ん?」

「そ、そそそその後、ケ、ケン、ケンケンさんの交際と結婚に関するいざこざは、どどどどうなりました?」

 俺の顔色をうかがいつつ、また同時に好奇心に満ちた眼差しをこちらに向けながら、コンバートの完了を待つ柴がそう言って俺に問い掛けた。彼女の行為の意図するところこそ与り知らぬものの、どうやら柴は、俺との交際をうそぶいて止まない上別府の動向が気掛かりらしい。

「どうなりましたも何も、状況は益々悪化しているよ。上別府さんはよりにもよって俺の自宅まで押し掛けて来るし、未だに俺の事を未来の旦那様だなんて吹聴し続けるもんだから、もう散々さ」

 かぶりを振りながら、深い深い溜息交じりにそう言って返答した俺に、柴は重ねて問い掛ける。

「そ、それ、それは災難でしたね。とととところでケンケンさん? ケ、ケケケケンケンさんは以前、い、今、今すぐ結婚する気は無いと仰ってましたが、そそそそれは裏を返せば、いいいいつかは結婚するつもりなんですか?」

「うん、まあ、そうだな……別に俺は結婚と言う行為そのものを殊更忌み嫌っている独身主義者でもないし、いつか誰か良い人と出会ったら、結婚する事にやぶさかではないよ?」

「そ、そうなんですね。そそそそれを聞いて安心しました」

 結婚する事にやぶさかではないと言う俺の返答を耳にした柴はそう言って、胸を撫で下ろしながら、ホッと安堵の溜息を吐いた。

「ん? どうして俺が結婚するかどうかで、柴さんが安心するの?」

 俺がそう言って問い返せば、柴は少しばかりカールしたボブカットの髪の下の顔を真っ赤に紅潮させながらぐるぐると眼を回し、いつも以上の挙動不審ぶりでもって激しくキョドり始める。

「え? あ、あああ、あの、その、えっと、ななな何でもないんです! き、きき、気にしないでください! た、たたた只ちょっとだけ、ケケケケンケンさんが結婚する意思があるかどうかが気になっただけですから!」

「うん、だからなんで柴さんが、俺が結婚する意思があるかどうかを気にするのかについて聞きたいんだけど?」

「は、ははは、はい! そ、それはですね? そ、それはその、えっと、ななな何と言いますか……言いますか……」

 そう言った柴はぐるぐると眼を回しながら激しくキョドるだけでなく、自分が何を言っているのかも理解出来ぬほどにまで気が動転し、言うなれば完全にテンパってしまっている状態であった。しかしながら気を取り直した彼女はデスクに腰を下ろしたまま何度も深呼吸を繰り返す事によって、ある程度冷静さを取り戻すと、意を決してゆっくりと口を開く。

「あ、あたし、いいい以前も言いましたけど、で、でき、出来るだけ早く結婚したいんですよね。だ、だからあたしが結婚してもいいかなと密かに想いを寄せている人に、け、けけけ、けっこ、結婚の意志があるかどうかについて、どどどどうしても気になるじゃないですか?」

「ふうん、成程ね」

 俺は何気無くそう言って、柴の発言に対して相槌を打った。そして一拍の間を置いてから、彼女の言葉の真意に気付いてしまい、はっと息を呑むと同時に驚愕する。

「え? あれ? それってつまり……」

「は、はい! あ、ああああたしはケンケンさんとなら、け、けけけ、けっこ、結婚してもいいかなと……思って……います……」

 やはり少しばかりカールしたボブカットの髪の下の顔を真っ赤に紅潮させながら、柴はそう言って告白すると、気恥ずかしさのあまり俯いたまま黙りこくってしまった。勿論彼女に告白される格好になってしまったこの俺も、驚きのあまり言葉も無い。

「……」

 暫しの間、俺と柴との間には沈黙と静寂の時が流れ、耳に届くのはコンバートを命じられたデスクトップパソコンがデータを処理する際のかりかりと言う作動音のみであった。

「……柴さん?」

「は、はい!」

「俺も柴さんとなら、勿論今すぐと言う訳じゃないけれど、互いの価値観や人間性を尊重し合い得る関係性を維持出来れば結婚しても構わないんじゃないかなとは思ってる。だけどそれは、あくまでも将来的な二人の関係を見極めた上での話であって、必ずしも結婚を確約するものではない」

「つ、つつつつまり?」

「つまり、柴さんさえ良ければ、結婚を視野に入れながら俺と柴さんとで交際してみないかって事だよ」

 俺がそう言って、半ばプロポーズにも等しい提案の言葉を投げ掛ければ、その言葉を投げ掛けられた柴は益々顔を紅潮させながらキョドり出す。

「そ、そそそそんな、けけけ結婚を視野に入れながらの交際だなんて、あ、あた、あたしはそんなつもりで告白したんじゃありませんし、ケ、ケケケケンケンさんに釣り合うような女でもありませんから!」

 柴はそう言って、激しくキョドりながら謙遜するものの、俺の決意は自分でも意外なほど固い。

「だったら柴さんは、俺の事が好きなんじゃないの?」

「……す、好きです……」

「俺と結婚したいとは、思っていない?」

「……お、おおお、おも、思ってます……」

 あまりの気恥ずかしさから火を噴くのではないかと思えるほどにまで顔を紅潮させ、もじもじと身体を捩りながらそう言った柴に、今度は俺がとどめとばかりに告白する。

「それなら、話は決まりだ。柴さん、柴さんさえ良ければ、俺と一緒に結婚を視野に入れながら交際しようよ。上別府さんの言葉を借りれば、俺を柴さんの未来の旦那様だと思ってくれればいいさ」

 俺がちょっとだけ悪戯っぽく微笑みながらそう言えば、柴のキョドりっぷりはにわかに最高潮に達し、その口から発される言葉の数々は聞き取るのに難解を極めた。

「そ、そそそそんな、あ、有り得ないです! ああああたしがケンケンさんと交際、ままままして結婚を視野に入れながらだなんて、て、ててて、てん、天地がひっくり返っても許される事じゃありませんから! そそそそれに未来の旦那様だなんて、ケ、ケンケンさんが、あ、あた、あたしの旦那様になるだなんて、お、おおお、おこ、おこがましい限りです! あ、あああ、あ、お、おこがましいのはケンケンさんではなくて、も、もち、勿論あたしの方ですからね?」

 激しくどもりながら、それでいて早口で捲し立てるような口調でもってそう言い終えた柴に、俺は改めて確認する。

「それで柴さん、結論として、俺と交際してくれるのかい?」

「……はい……」

 蚊の鳴くようにか細い声でもってそう言いながら、柴はゆっくりと首を縦に振った。どうやら今この瞬間を境に、俺と彼女とは、結婚を視野に入れながら交際する恋人同士の関係になったらしい。そしてそんな俺ら二人の関係の変遷に思いを馳せていると、不意にコンバートを終えたデスクトップパソコンが小さなビープ音を奏でる。

「お? 終わったかな?」

「え、ええ、おおお終わったみたいですね。そ、それではちゃんとコンバート出来ているかどうか、かかか開発機で確認してみましょう。ケ、ケン、ケンケンさんも一緒に確認していただけますか?」

 気を取り直してそう言った柴はコンバートし終えたモデルデータの数々を、PF5の開発機を経由しながら液晶モニタに表示し、その出来栄えを俺と共に確認し始めた。そして一通り表示したモデルデータに問題が無い事を確認すれば、俺ら二人はデスクトップパソコンと開発機の電源を落として今日の業務を終える。

「さあ、柴さん、もうそろそろ帰ろうか」

 やがて帰り支度を終えてダウンジャケットを着込んだ俺はそう言って、同じく帰り支度を終えた柴に帰宅を促した。そして二人揃ってオフィスから退出し、エレベーターで一階に下りてから秋葉原UDXを後にすると、駅の方角へと足を向ける。

「柴さんは、帰りは何線?」

「ジェ、ジェジェジェJRです」

「それじゃあ俺は日比谷線だから、途中まで一緒に帰ろうか」

 屈託の無い笑顔と共にそう言った俺は、彼女に向けてそっと右手を差し出した。すると柴は少しだけ気恥ずかしそうに逡巡した後に、差し出された俺の右手にそっと自分の左手を重ねる。

「……はい……」

 そう言った柴と俺は二人並んで、手を繋いだまま駅の方角へと足を向けた。真冬の夜空を吹き抜ける北風は頬に突き刺さるかのように冷たいが、互いの体温が感じ取れる繋いだ手と手だけは、燃えるように温かい。

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