第五幕:virtual


 第五幕:virtual



 それは、あまりにも突然の出来事であった。

「ようレオニード、お前、今朝の新聞と政府広報はもう読んだか?」

 アガフォンがそう言って問い掛ければ、子供向け商品の百貨店『子供の世界』の隣に建つ建造物、つまり『クラースヌイ・ピスタリェート』の司令部に姿を現したばかりのレオニードは首を縦に振る。

「ああ、もう読んだよ。しかし、まさかあの軍人気質ぐんじんかたぎで知られるスタニスラフ大佐が、よりにもよって軍人から政治家に転向するとはな」

「そうだな、俺も驚いたよ」

 そう言ったアガフォンのデスクの上には件の政府広報が広げられており、その政府広報の一面にはスタニスラフ大佐の顔写真と並んで、彼が次回の下院議員選挙の与党候補の一人として出馬する旨が記載されていた。

「軍人を辞めて政治家に転向するって事は、つまりスタニスラフ大佐は、俺ら『クラースヌイ・ピスタリェート』を完全に見限ったって事になんのかね?」

 肥満体のアガフォンがぼりぼりとスナック菓子を貪り食いながらそう言って問い掛けたので、レオニードは包み隠さず、自分の意見を正直に口にする。

「ああ、そうだな。少なくともスタニスラフ大佐は部隊の解散の時期を見込んだ上で、もはやこの司令部の名目上の最高責任者である事を放棄したと見做すべきだろう。そうなれば俺やお前みたいな『クラースヌイ・ピスタリェート』に所属する隊員達は、お前の言う通り見限られたにせよ何にせよ、軍部に於ける後ろ盾を失ってしまったと言う事になるに違いない」

「ああ、やっぱりそうか。それで、お前はスタニスラフ大佐が政治家として成功すると思うか?」

「さあな、それは俺にも分からん。しかしながら、一度でも軍務から外れた者は二度と軍服に袖を通す事が許されないのが通例であり、不文律だ。だからスタニスラフ大佐も、相応の覚悟があってこそ下院選に出馬したものと判断すべきだろう」

 そう言ったレオニードは、御付きの副官を背後に従えながら、仰々しい勲章や記章がずらりと胸に並ぶ軍服に身を包むスタニスラフ大佐の姿を脳裏に思い浮かべた。敢えて簡素な略綬ではなく、他者の関心を得易い派手な勲章や記章を手放さない自己顕示欲の塊とも言うべきあの男が、一介の泡沫候補として下院議員選挙に出馬するとは考え難い。きっと彼は、既に政界や財界の有力者への周到な根回しを終えつつ、確実に当選する目途が立ったからこそこうして大々的に出馬を宣言したのだろう。

「なあレオニード、これでもしスタニスラフ大佐だけでなくミロスラーヴァ少佐もまた政治家か何かに転向するとか言い出したとしたら、残された俺らは一体どうすればいいと思う?」

「……」

 アガフォンに問い掛けられたレオニードは返す言葉も無いままに、只々空しく、首を横に振る事しか出来なかった。もし仮に今の『クラースヌイ・ピスタリェート』が名目上の最高責任者であるスタニスラフ大佐だけでなく、現場指揮官であるミロスラーヴァ少佐までをも失えば、屋台骨を失った部隊そのものが空中分解してしまうであろう事は想像に難くない。そしてレオニードが司令部の廊下を歩きながら部隊の今後について思い悩んでいると、そんな彼の元に、手入れが行き届いた軍服に身を包んだ一人の女性が歩み寄る。

「おはよう、レオニード」

「おはようございます、少佐殿」

 果たしてレオニードがそう言って返礼した軍服姿の女性は、先程までのアガフォンとの世間話でも話題に上った『クラースヌイ・ピスタリェート』の現場指揮官、つまりミロスラーヴァ少佐その人であった。そして彼女の軍服の胸元に眼を向ければ、そこには簡素な略綬が並び、スタニスラフ大佐の様に派手な勲章や記章をこれ見よがしにひけらかしたりはしていない。

「なあレオニード、今、少しだけ時間を貰えるか?」

「ええ、別に構いませんよ。それで、この俺なんかに一体何のご用でしょうか?」

 都合の有無を問われたレオニードがそう言えば、ミロスラーヴァ少佐は廊下を渡った先のエレベーターの方角を指差す。

「今ここで立ち話で済ませられるような内容ではないので、上の階のあたしの執務室に行こう。あそこなら何を話しても、誰かに聞き耳を立てられる心配も無い筈だ」

「ええ、お供します」

 そう言ったレオニードはミロスラーヴァ少佐に先導されながら廊下を渡り、司令部のエレベーターに乗り込むと、やがて彼女の執務室が在るべき階層へと足を踏み入れた。そして重く頑丈な扉を開けて二人揃って執務室に足を踏み入れてから、レオニードが後ろ手にその扉を閉めて施錠する。

「楽にしろ」

 ミロスラーヴァ少佐がそう言えば、ぴんと背筋を伸ばしていたレオニードは姿勢を崩すものの、さすがに上官の前だけあって執務室の中央に設置されたソファに腰を下ろす事は無い。

「それで少佐殿、わざわざ執務室にまで呼ばなければ出来ないお話とは、一体どのようなものでしょうか?」

 そう言って改めて問い掛けたレオニードに応えるような格好でもって、ミロスラーヴァ少佐は彼女の文机の引き出しから書類や写真の束を取り出し、それを文机の天板の上に無造作に広げてみせた。

「少佐殿、これは?」

「これらは先日、我々とは別の部隊がガサ入れを行った『共和国』の工作員どものアジトで発見されたものだ。そして我ら『クラースヌイ・ピスタリェート』の関係者しか知り得ないような情報が、これらの文書には事細かに記載されている」

「と、言う事は……つまり……」

 レオニードが言い淀みながら驚けば、ミロスラーヴァ少佐は彼が危惧、もしくは憂慮すべき内容を看破する。

「ああ、そうだ。我々『クラースヌイ・ピスタリェート』に関する機密情報が、よりにもよって、部隊の内部から漏洩している。残念ながらガサ入れの際に『共和国』の工作員達は全員射殺されてしまったがために、情報漏洩に加担した反逆者の素姓は判明しなかったものの、少なくとも一名以上の反逆者が今も尚この司令部内に存在する事が明らかになったと言う訳だ」

「……少佐殿、お言葉ですが、俺には反逆者の存在が信じられません」

 レオニードはそう言うが、ミロスラーヴァ少佐もまた彼の言葉に異論は無い。

「あたしだって、自分が指揮する部隊の内部に反逆者が居るなどとは信じたくない。しかしながらレオニード、情報漏洩の証拠が発見されてしまった以上、その存在は厳然たる事実だ。事実が事実である限り、それを粛々と受け入れるのが誇り高き『連邦』の軍人のあるべき姿と言うものだろう。違うか?」

「……」

 ミロスラーヴァ少佐による正論を前にしたレオニードは、その場に立ち尽くしたまま言葉を失った。そして言葉を失いながらも、意を決した彼は敢えて問い掛ける。

「……少佐殿、その反逆者が実在するものとして、少佐殿は一体誰がその反逆者だとお思いですか?」

「ガリーナだ」

 反逆者は誰なのかを問うたレオニードに、ミロスラーヴァ少佐はそう言って即答した。

「ガリーナが?」

「ああ、そうだ。勿論現段階では何の確証も無いものの、彼女は以前から数々の素行不良でもって大小様々な問題を起こしているのだから、こんな時こそ疑われてしまっても仕方があるまい。それについ最近も、彼女が隊員の個人情報が保存されたデータベースに不正アクセスした形跡の有無が指摘されているとなれば、疑うなと言う方が無理な相談だ」

「……」

 レオニードは再び言葉を失いつつも、ミロスラーヴァ少佐の真意と、今後の彼が採るべき行動について問い掛ける。

「……しかしながら少佐殿、もし仮にガリーナではなくこの俺こそが反逆者であった場合には証拠隠滅や逃走の機会を与える事にもなりかねないと言うのに、少佐殿は何故俺に反逆者が存在するかもしれないと言う重大なる事実を打ち明けられたのでしょうか? そして打ち明けられたこの俺は、一介の工作員として、これからどのように行動すればよろしいのでしょうか?」

「案ずるな、レオニード。キミには特にこれと言った行動を起こす事無く、努めて平静を装いながら、これまで通り軍務に邁進し続けてくれる以上の事は期待しない。なにせ未だガリーナが反逆者であると断定された訳でもないし、それに軍部に所属する各々の兵士に与えられた役割とその分担で言えば、反逆者探しはあくまでも連邦保安庁と憲兵が担うべき領分だ。だからキミ個人は事の成り行きを静観しつつ、もし仮に運良く反逆者を特定し得る証拠を掴む事に成功したならば、それを上官であるあたしに報告してくれればそれで良い」

「つまり、あくまでも今回の一件は、隊員の身の回りを精査すべき連邦保安庁と憲兵の責任と言う訳ですか」

「ああ、まさにその通りだ。そして反逆者の存在についてあたしがキミだけに言及した理由だが……これまでに漏洩したとされる情報の規模とその内容から推察するに、レオニード、キミが反逆者である可能性が真っ向から否定されたと言う点が第一の理由として挙げられる」

「俺が反逆者である可能性が、何故否定されたのでしょうか?」

「漏洩したとされる情報に、キミに関する個人情報が数多く含まれていたからだ。しかもご丁寧な事に、キミの為人ひととなりを悪し様に罵るような文言まで付随していたからな。一体どこの世界に、情報提供者である自分自身を敢えて卑下するような反逆者が存在すると思う?」

「成程」

 レオニードはそう言って、ミロスラーヴァ少佐の解説に得心した。

「そんな訳だから、キミはそれとなく反逆者が誰なのかと言った点に気を配りつつも、これまで通り何事も無かったかのように振る舞っていてくれればそれで構わない。それではレオニード、そろそろキミは自分の責務を果たしたまえ」

「了解しました、少佐殿。それでは、これで失礼させていただきます」

 会釈と共にそう言ったレオニードはその場でくるりと踵を返し、ミロスラーヴァ少佐の執務室を後にすると、そのまま真っ直ぐエレベーターに乗り込んで司令部の地下へと直行する。

「……まさか、あのガリーナが反逆者だなんて事が……」

 司令部の地下のロッカールームで軍服からアディダス社製のトレーニングウェアへと着替えながら、レオニードはそう言って、ガリーナが反逆者かもしれないと言うミロスラーヴァ少佐の言葉に暗に疑問を投げ掛けた。そして着替え終えた彼がトレーニングルームへと移動し、筋トレや射撃訓練でもって自ら手腕を研鑽し続ければ、やがて時計の針がぐるりと回って帰宅の途に就くべき時刻が訪れる。

「ふう」

 トレーニングウェアから軍服へと着替え直し、その軍服の上から羊毛ウールの軍用コートを羽織ったレオニードはそう言って溜息を吐きながら、子供向け商品の百貨店である『子供の世界』の隣の『クラースヌイ・ピスタリェート』の司令部を後にした。そして真冬の夜の『連邦』の極寒とも言える外気にその身を晒しつつ、自宅である軍部が一棟丸ごと買い上げたアパートメントの方角へと足を向ければ、そんな彼に不意に一人の女性が歩み寄る。

「あらレオニード、こんな所で鉢合わせするだなんて、奇遇じゃない?」

「やあ、ガリーナじゃないか」

 そう言ったレオニードの言葉通り、果たして彼に歩み寄った一人の女性とは、如何にも高価そうな毛皮のファーコートに身を包んだガリーナであった。

「あなたもこれから、家に帰るところなのかしら?」

「ああ、そうだが?」

「だったら途中まで、あたしと一緒に帰らない?」

「まあ……別に構わないが」

「そう? じゃあ、行きましょ?」

 反逆者の嫌疑が掛けられているとも知らずにガリーナはそう言うと、レオニードと並んで真冬の夜の街路を白く凍った息を吐きながら歩き始め、やがて『クラースヌイ・ピスタリェート』の司令部から徒歩二十分ほどの距離に位置する古びたアパートメントの共同玄関前へと辿り着く。

「ああ、俺が住んでいるアパートメントはここなんだ。それじゃあガリーナ、ここでお別れだな」

 共同玄関前で足を止めたレオニードはそう言うが、彼の予想に反し、毛皮のファーコートに身を包んだガリーナはその場から立ち去らない。

「ねえ、レオニード? あたし、慣れない靴でここまで歩いて来たら、足が疲れてしまったのよね? それに北風のせいですっかり身体が冷え切ってしまったものですから、少しだけお邪魔して、あなたの部屋で温まって行ってもいいでしょう?」

「え? いや、それはちょっと……」

 虚を突かれる格好になったレオニードはそう言って彼女の要望を拒否しようとするものの、その間にもガリーナは共同玄関へと足を踏み入れながら、重ねて要望する。

「ほらほら、そんな所で何を突っ立っているのかしら? 早くあたしを、あなたの部屋に案内してちょうだい?」

「……」

 ガリーナの身勝手な言い分にレオニードは言葉を失うが、如何に多くの人命を奪った特殊工作員とは言え、彼もまた足が疲れて身体が冷え切ったと言う女性を無下に扱うほど人非人ではない。そこで仕方無く、深い深い溜息を吐いてかぶりを振ったレオニードは、ガリーナの入室を許可する事とする。

「……仕方が無い、ガリーナ、身体が温まるまで俺の部屋で休んで行けばいいさ」

「ええ、そうね、そうさせてもらいましょうかしら?」

 してやったりとでも言いたげな表情と口調でもってそう言ったガリーナは、渋々ながら彼女を案内するレオニードと共に骨董品とでも表現すべき年代物のエレベーターでもって上階へと移動すると、やがて彼の部屋へと続く玄関扉の前で足を止めた。そしてその玄関扉の鍵を開けたレオニードに率先し、これっぽっちも遠慮する事無く玄関へと足を踏み入れたガリーナはぐるりと周囲を見渡す。

「あら? 古ぼけた外観の安普請なアパートメントの割には、なかなか感じの良い部屋なんじゃなくて?」

 玄関に足を踏み入れたガリーナは少しばかり意外そうな表情と口調でもってそう言いながら、レオニードにとってのプライベートな空間であるべき彼の自宅の家具や調度品などを、やはりこれっぽっちも遠慮する事無く値踏みし始めた。そして一通り室内の様子を確認し終えたかと思えば、毛皮のファーコートを脱いでからリビングの暖炉の前に設置されていた革張りのソファに腰を下ろし、玄関で立ち尽くしたまま呆れ返っているレオニードに要求する。

「ねえ、レオニード? いつまでもそんな所でぼうっと突っ立ってないで、早く暖炉に火を入れてくれないかしら? そうでないとあたしったら寒くて寒くて、今にも凍えてしまいそうなのよね?」

「ああ、分かったよ」

 我が物顔で彼の自宅に上がり込んだガリーナの態度に呆れ返りながらも、溜息交じりにそう言ったレオニードもまた羊毛ウールの軍用コートを脱いでからリビングへと足を踏み入れ、アパートメントの壁面に埋め込まれた暖炉の前でひざまずいた。そしてマッチと火口でもって暖炉に火を入れれば、ぱちぱちと音を立てて爆ぜながら燃え上がる薪が発する放射熱によって、次第次第に室温が上昇し始める。

「ほらガリーナ、暖炉に火を入れたぞ。だからこっちに来て身体を温め終えたら、さっさと帰ってくれるよな?」

「ええ、そうね? そうさせてもらおうかしら?」

 そう言ったガリーナは燃え上がる暖炉の火に当たりながら暖を取り、彼女曰く、北風のせいですっかり冷え切ってしまったと言う身体を温め直し始めた。そして煌々とオレンジ色に輝く炎をその死んだ魚の様な双眸でもってジッと見つめたまま、キッチンの冷蔵庫からウォトカの小瓶を取り出したレオニードに問い掛ける。

「ねえレオニード、唐突にこんな事を尋ねるのも何ですけど、一つだけお聞きしてもよろしくて?」

「ん? 何だい、改まって?」

「レオニードったら、あなたは実のところ、ヴァレンチナとイエヴァの事をどう思っているのかしら?」

「?」

 ガリーナに問い掛けられたレオニードは頭の上に見えない疑問符を浮かべながら小首を傾げ、彼女の意図するところを測りかねざるを得ない。

「ヴァレンチナとイエヴァの二人が、どうかしたのか?」

「ええ、まあ、ちょっとね? あなたと彼女達との、軍務を離れたプライベートでの関係性について知っておきたいとでも言えばいいのかしら? とにかくレオニード、あなたにとってヴァレンチナとイエヴァの二人が一体どんな存在なのか、あたしに教えていただける?」

 そう言って重ねて問い掛けるガリーナの意味深な姿に、やはりレオニードは、頭の上に見えない疑問符を浮かべながら繰り返し小首を傾げるばかりであった。しかしながら特にやましいところも隠すべき秘密も無いので、彼は問い掛けられた事実に対して正直に返答する。

「俺にとってのヴァレンチナとイエヴァは、どちらも作戦行動中に背中を預けるべき頼れる仲間であると同時に、共に祖国と組織に忠誠を誓った同志タヴァーリシチそのものだ。それ以上でも、それ以下でもない」

「あら、本当に? 本当にあなたと彼女達は、仲間と同志と言うそれだけの関係なのかしら?」

「ああ、俺の言葉に嘘は無い」

 ウォトカの小瓶を手にしたレオニードがそう言って断言すれば、ガリーナはその爬虫類を思わせる顔に安堵と姦詐の念が入り混じったかのような複雑な表情を浮かべながら、口角を吊り上げてにやりと不敵にほくそ笑んだ。そしてほくそ笑むついでとばかりに、暖炉の前のソファに腰掛けた彼女は、キッチンからリビングへと移動したレオニードに要求する。

「ねえレオニード、あたしったら、なんだか喉が渇いてしまったみたいなのよね? それに冷え切った身体を外側からだけでなく内側からも温めたい事ですし、紅茶でもコーヒーでもホットミルクでも構いませんから、何か温かい飲み物を淹れて来てくださらないかしら?」

「ああ、分かったよ。今すぐキッチンで熱い紅茶を淹れて来てやるから、そこで待っていろ」

 そう言ったレオニードは彼の自宅のリビングのローテーブルの天板の上にウォトカの小瓶を置いてから、ガリーナの要求通り、温かい紅茶を淹れるべく再びキッチンへと取って返した。そして耐熱ガラスのティーポットに茶葉を入れ、ティファール社製の電気ケトルでもって湯が沸くのを待ちながら、先程のガリーナの問い掛けとその真意について考察する。

「何故ガリーナは、ヴァレンチナとイエヴァと俺との関係を知りたがったんだ?」

 キッチンに立つレオニードはそう言って、リビングに居るガリーナの耳には届かない程度の小声でもって呟いた。

「もし仮に、ガリーナが俺や他の隊員達の個人情報を『共和国』に漏洩させるような反逆者だとすれば……」

 やはりそう言って、小声でもって呟きながら考察し続けたレオニードは、やがて一つの結論へと至る。

「……まさかガリーナは、この俺の口からヴァレンチナとイエヴァの、彼女がアクセス出来る司令部のデータベース上には存在しないような個人情報を聞き出そうとしているのでは?」

 それは残念ながら、この上無く短絡的で的外れな結論であったが、男女の色恋沙汰に疎い性分であるレオニードの考察力ではその程度の結論に至らざるを得ないのが実情であった。そして自らが導き出した結論に一人で納得し、断じてヴァレンチナとイエヴァの個人情報をガリーナに漏らすまいと決意を固めるレオニードに向けて、不意に何者かが声を掛ける。

「レオニード、ちょっといいかしら?」

「ん?」

 考察を中断され、彼の名を呼んだ何者かが立つキッチンの出入り口の方角へとそう言って眼を向けたレオニードは、ひどく驚かざるを得なかった。何故ならそこにはカーキ色の軍服を脱ぎ捨て、ブラジャーとショーツ、それにガーターベルトとストッキングと言った官能的かつ扇情的な下着類の上から毛皮のファーコートを羽織っただけのガリーナが立っていたからである。

「どうしたんだガリーナ、そんな格好で!」

 驚きを隠せないレオニードはそう言ってその場に立ち尽くすが、黒いレース模様の下着と毛皮のファーコートだけを身に纏ったガリーナはまるで意に介さない。

「ねえ、レオニード? いきなりこんな事を言うのもなんですけど、あたしったら暖炉の火に当たっていたら、なんだか身体が火照って来てしまったみたいなのよね? だからあなたも服を脱いで肌を重ね合って、あたしと一緒に寝室のベッドの上でお互いの身体を温め合わないかしら?」

 下着姿のガリーナはそう言って、アパートメントのキッチンで湯が沸くのを待っていたレオニードの元に、その豊満な乳と尻とを強調するかのような妖艶な足取りでもって歩み寄った。そしてレース模様の向こうに茶褐色の乳首と乳輪とがうっすらと透けて見える二つの乳房を密着させながら、その場に立ち尽くすばかりのレオニードの身体をぎゅっと固く抱き締める。

「さあ、レオニードったらいつまでもこんな所でぼうっと突っ立ってないで、あたしと一緒に寝室に移動しましょ? そうすればあたしがこの自慢のおっぱいと肉壺でもって、あなたを天国に連れて行って差し上げますからね?」

「……」

 男女間の性交渉に対して過度に積極的なガリーナの隠語交じりの言い分に、レオニードは思わず言葉を失った。しかしながら如何に彼がストイックな男の世界に生きる軍人だからと言え、ガリーナの甘い誘いにそうそう簡単に乗ってやるほど馬鹿ではない。

「……駄目だ、駄目だ駄目だ駄目だ! こんな事をしていては駄目だ! ガリーナ、その手を放せ!」

 ぶんぶんと激しくかぶりを振りながらそう言ったレオニードはこちらに身を寄せるガリーナの身体を振り払い、彼女の肩に手を掛けると、その豊満な身体を強引に押し出すような格好でもってアパートメントの彼の自宅から退去させ始めた。

「ガリーナ、今すぐこの部屋から出て行ってくれ! ほら、早く早く! 早く出て行ってくれってば!」

 勿論言うまでもない事だが、レオニードの手によって部屋から退去させられんとするガリーナもまた馬鹿ではないので、その身をよじって激しく抵抗する。

「レ、レオニードったら、ちょ、ちょっとお待ちになって、そんなに押さないでくださらない? それにいきなり出て行ってくれだなんて、いくらなんでも薄情が過ぎるんじゃないかしら?」

「いいから、早く出て行ってくれ! 早く!」

 レオニードはそう言いながらガリーナの豊満な身体を強引に押し出し続け、やがて廊下を渡って玄関まで辿り着くと玄関扉を引き開けてから、抵抗する彼女をアパートメントの共同廊下に押し出す事に成功した。

「さあ、帰ってくれ! 早く帰るんだ!」

 下着姿のガリーナをアパートメントの共同廊下に押し出す事に成功したレオニードはそう言って、彼女を寒く薄暗い共同廊下に残したまま、自宅の玄関扉を施錠してからホッと安堵の溜息を吐く。

「ちょ、ちょっと、レオニード? このドアを開けてくださらない? あたしは未だあなたにお話がありますし、それに、こんな姿のまま放り出されても帰るに帰れないんじゃないかしら?」

 重く頑丈な玄関扉の向こうの、アパートメントのしんしんと冷え切った共同廊下に放り出される格好になってしまったガリーナがそう言いながら、レオニードと彼女とを隔てる玄関扉を激しくどんどんと叩き始めた。確かにガリーナの言う通り、レース模様の下着類と毛皮のファーコートしか身に付けていないあられもない姿でもって真冬の戸外に放り出されてしまっては、にっちもさっちも行かない事もまた当然の帰結である。

「ちょっとレオニード、ねえ、レオニードったら、聞いてらっしゃいます? もし聞こえてましたら、今すぐにでもこのドアを開けてくださらないかしら? それか、せめて着る物だけでも返してくださらないと、あたし、凍え死んじゃいますのよ? ねえ、レオニードったら、聞こえてまして?」

 ガリーナがそう言いながらどんどんと激しく玄関扉を叩き続けるので、レオニードは廊下の先のリビングに取って返し、床に脱ぎ捨てられていたカーキ色の軍服のジャケットやタイトスカートと言った彼女の衣服を拾い集めた。そして玄関に戻ってチェーンロックを掛けたまま玄関扉を少しだけ開けると、その玄関扉とドア枠との僅かな隙間から拾い集めた衣服を共同廊下に放り捨て、命じる。

「ほら、ガリーナ! これを着たら、もう帰ってくれ!」

 再び玄関扉を施錠したレオニードは固く閉ざされた扉越しにそう言って、共同廊下に居る筈のガリーナに帰宅を命じた。するとガリーナは暫しの間、レオニードが玄関扉の隙間から放り捨てた彼女の衣服をもぞもぞと無言のまま着込んでいたが、やがて着替え終えるのとほぼ同時に玄関扉を叩く行為を再開する。

「ねえ、レオニード? レオニードったら、今すぐこのドアを開けて、あたしを中に入れてくださらないかしら? もう少し、どうかもう少しだけで構いませんから、あたし達二人の将来について一緒に話し合いましょ?」

 そう言ったガリーナの口調は、レオニードを懐柔するかのように優しく穏やかなものであった。

「いいや、今更話し合う事なんて、何も無い! いいから、もう帰ってくれって言ってるんだ!」

 しかしながら彼女の懐柔の言葉には一切耳を貸さず、レオニードがそう言って玄関扉越しに重ねて命じれば、扉の向こうのガリーナの態度と口調が豹変する。

「おい、レオニード!  いや、リョーニャ! 御託はどうでもいいから、このドアを今すぐ開けろって言ってんだ! 開けろ! 開けやがれ! 開けやがらねえか!」

 ガリーナはそう言って口汚い罵声交じりに怒鳴り散らし、これまで以上にどんどんと激しく玄関扉を叩きながら、自分を室内に入れるよう要求し続けた。

「今すぐ帰ってくれって言ってんだ! 帰れ!」

 対するレオニードもまた彼女に負けないくらいの大声でもって怒鳴り返し、同じアパートメントに住む近隣住民達との騒音トラブルも顧みぬまま、この場からの退去と帰宅をガリーナに命じ続ける。

「いいか、レオニード! 今日のこの屈辱は、あたしは絶対に忘れないからな! お前も覚えてろよ!」

 すると玄関扉を隔てたまま暫しレオニードと怒鳴り合いを繰り返した後に、最後にそう言い残したガリーナはようやく観念して共同廊下から立ち去ったらしく、彼女の足音がエレベーターの方角へと遠ざかると同時にアパートメントに静寂の時が訪れた。そして玄関扉のドアスコープを覗いて彼女の不在を確認したレオニードは、果たしてこれで何度目になるのか、またしても安堵の溜息を吐きながらホッと胸を撫で下ろす。

「まったく、一体全体、俺が何をしたって言うんだよ……」

 レオニードは自宅の玄関で立ち尽くしたままそう言って、安堵のあまり膝から力が抜けると同時に、へなへなとその場にへたり込んでしまった。そして明日になってから司令部に出勤した際にガリーナにどんな顔を向ければいいのかと思い悩みながら、絶望のあまりかぶりを振って天を仰ぐ。

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