第五幕:real


 第五幕:real



 新年を迎えてからおよそ半月ばかりの日時が経過し、年末年始のお祭り気分から解放された俺ら『クラースヌイ・ピスタリェート』の開発スタッフ達は、ようやく落ち着きを取り戻しながら平常常務に邁進していた。

「ふう」

 秋葉原UDXの24階のオフィスの自分のデスクに腰を下ろしつつ、Adobe PhotoshopとMayaを駆使しながらポリゴンモデルを作製し続けていた俺はそう言って顔を上げると、握っていたタブレットペンをデスクの天板の上に置くと同時に深い溜息を吐く。

「もうこんな時間か……」

 自分のデスクに腰を下ろしたままそう言った俺の言葉通り、壁掛け時計の針は午後五時ちょうどを指し示し、日照時間の短い真冬の太陽は既に西の地平線の彼方へとその姿を消してしまっていた。そしてそろそろ帰り支度を始めなければならないななどと思っていると、そんな俺のデスクに、少しばかりカールしたボブカットの髪の女性がおずおずとした足取りでもって歩み寄る。

「ケ、ケンケンさん、いいい今ちょっとよろしいですか?」

 果たしてそう言いながら歩み寄った女性は、キャラクターの表示周りを担当するプログラマーの柴小春であった。

「ああ、うん、別に構わないけど……何かな?」

「そ、そろそろポリゴンモデルのブラッシュアップの最終期限デッドラインが近いんで、キャキャキャキャラクターに関係する業務に就いている全てのプログラマーとデザイナーを一旦会議室に集めてもらって、そ、それ、それぞれの進捗を改めて確認したいんですけど、か、かかか可能ですか?」

「成程」

 俺はそう言って、柴の要請に得心しながらも、刻一刻と終業時間が差し迫りつつある壁掛け時計をちらりと一瞥してから問い掛ける。

「ねえ柴さん、その案件なんだけど、今日中に急いで終えないといけないような案件なのかな?」

「え? い、いえ、べべべ別に急ぎの案件ではありませんけど、で、でき、出来れば今週中には最終的なマスターアップの目途を立てたいんですが……」

「よし、分かった。だったら俺が、明日の朝一にでも関係者全員にノーツメールでもって会議への招集を掛けるから、今日のところは俺も柴さんもこのまま業務を終える事にしないか? ほら、もう終業時間も近いし、今から会議を開いていたら想定外の残業代が発生しかねないだろ?」

「は、はい、分かりました! おおおお願いします!」

 会議を明日に延期しようと言う俺の提案に、柴はそう言って得心しながら首を縦に振った。そこで俺は自分のデスクに腰を下ろしたまま、そんな柴に重ねて問い掛ける。

「ところで柴さん、ちょっと話は変わるけど、その後の柴さんは上別府さんに絡まれたりはしてないよね? ほら、この前彼女に「未来の旦那様に色目を使って言葉巧みにたぶらかしたりしないでいただけます?」とか言って難癖を付けられてたから、少しばかり心配になってさ」

「え? あ、は、はい、大丈夫です! あ、あれからは、ととと特に上別府さんに絡まれたりはしてませんから!」

「ああ、そうか、それならいいんだ」

 それは柴の返答を耳にした俺がそう言って、ホッと胸を撫で下ろしながら無意識の内に安堵の溜息を吐こうとした、まさにその時だった。清潔なオフィス内に整然と並べられた開発スタッフ達のデスクの間を縫うような格好でもって移動しつつ、一人の妙にスタイルの良い女性がこちらへと歩み寄ったかと思えば、これまた妙に皮肉っぽく俺と柴の名を口にする。

「あら? これはこれは柴さんもケンケンさんも、こんな所でお二人がご一緒してるだなんて、あたしったらお邪魔だったかしら?」

 今更敢えて言うまでも無い事だが、皮肉っぽい表情と口調でもってそう言った妙にスタイルの良い女性とは、つい今しがたまで俺と柴の話題の中心人物であった上別府美香その人に他ならない。

「あ、う、ううう上別府さん! おおおお疲れ様です!」

 すると上別府を前にした柴はそう言って、肩や背中を強張らせながらぐるぐると眼を回し、いつも以上の挙動不審ぶりでもって激しくキョドり始めてしまった。どうやら柴はここ最近の諸々のいざこざによって上別府の本性に気付いたらしく、この俺を未来の旦那様とうそぶいてはばからない彼女の事を、警戒すべき危険人物の一人として再認識したものと思われる。

「ねえ、柴さん? お取込み中のところ申し訳ありませんけど、あたしはこれからケンケンさんにお聞きしたい事があるので、用がお済みなら今すぐこの場から立ち去ってくださらない?」

「は、はい、ご、ごごごごめんなさい! そ、そそそそれでは、し、ししし、しつ、失礼します!」

 上別府に半ば恫喝されるかのような格好になってしまった柴はそう言って、激しくキョドりながら頭を下げると同時にくるりと踵を返すと、上別府に言われた通り足早にその場から立ち去った。そして立ち去った彼女がオフィスの隣のブロックへと姿を消せば、上別府はその十人並みの顔ににたにたとした湿った薄ら笑いを浮かべつつ、この俺に改めて問い掛ける。

「ねえ、ケンケンさん? ケンケンさんはこれから自宅に帰るまでに、どこかに立ち寄ったりする予定はあるのかしら?」

「え? あ、いや、今日はどこにも立ち寄らないし、このまま真っ直ぐ家に帰るつもりだけど?」

「あら、そうなの? どこかに立ち寄る予定は無いのね? でしたら今夜は早めに退社して、住み慣れた自宅でもって、ゆっくりのんびりくつろいだらよろしいんじゃなくて?」

 やはり湿った薄ら笑いと共にそう言った上別府もまたくるりと踵を返し、こちらに背を向けると同時にオフィスの反対側に位置する彼女のデスクの方角へと足を向け、来た道を引き返すような格好でもってその場から立ち去った。そして豊満な乳と尻を揺らしながら上別府が立ち去ると、一人取り残された俺は小首を傾げつつ、彼女の発言の真意が汲み取れぬままぽかんと呆けるばかりである。

「……一体何だったんだ、今のは?」

 俺はそう言って頭の上に見えない疑問符を浮かべながら小首を傾げ続けるものの、幾ら小首を傾げたところで、俺と交際していると言う風説を流布して止まない上別府の頭の中身が理解出来る筈も無い。するとそんな俺のすぐ後ろのデスクに腰を下ろし、事の成り行きを見守っていた寛治がおもむろに振り返ると、ぼりぼりとスナック菓子を貪り食いつつ問い掛ける。

「なあケンケン、俺にはさっぱり理解出来なかったんだが、上別府さんは一体何が言いたかったんだ?」

「さあな、俺にもさっぱり分からん」

 背中合わせの互いのデスクに腰を下ろす俺と寛治はそう言って、二人揃って顔を見合わせながら小首を傾げるが、やはり上別府の発言の真意は一向に汲み取れない。

「ところでケンケン、お前、あの噂はもう耳にしたか?」

 するとこっそり顔を寄せながら耳打ちするような格好でもって、そう言って新たな話題を振って来た寛治に、俺は問い返す。

「ん? 噂? 何の噂だ?」

「なんでも渥見本部長の栄転が内々に決定したらしく、今年の春になってからうちの会社が倒産するのと同時に、㈱コム・アインホールディングスの常務取締役に任命されるって噂だぜ?」

「何だって? マジか、それ?」

 寛治が耳打ちした真偽不明の噂の内容に、俺はそう言って率直に驚いた。ちなみに『㈱コム・アインホールディングス』と言うのは、俺らが勤める㈱コム・アインデジタルエンターテイメントの筆頭株主でもある持ち株会社、つまり俗に言うところの親会社と言う奴である。

「なあ寛治、その噂、本当なのか?」

「残念ながら100%の確証は無いが、俺が人事部の友人からこっそり教えてもらった話だから、まあ、信憑性は80%ってところかな? それに渥見本部長の抜け目の無さと狡っ辛さから鑑みれば、決して有り得ない話って訳じゃないだろ?」

「まあ、確かに」

 俺はそう言って、噂の信憑性に関する寛治の言い分に納得しながら首を縦に振った。何故なら昔から渥見本部長は権力争いの場で上手く立ち回る事を得意とし、ぶっちゃけて言えば、その世渡り上手の才だけでもって今の地位まで上り詰めたと言っても過言ではないような男である。

「それで、渥見本部長は親会社に栄転するとして、その部下である俺らは一体どうなるんだ? 一緒に栄転したりはしないのか?」

「さあな、それは俺にも分からん。しかしながらその人事部の友人によると、少なくとも今のところ、渥見本部長以外の社員が㈱コム・アインホールディングスに栄転する予定は無いらしい。だから恐らく、俺らがこのまま今年の春に解雇されるって言う事実が揺らぐ事は無いんじゃないか?」

「つまり、俺らは渥見本部長と親会社に見捨てられたって訳か」

「まあ、一言で言ってしまえば、そう言う事になるな」

 そう言った寛治と俺は二人揃って、それぞれのデスクに腰を下ろしながら深い深い落胆の溜息を吐いた。そして一瞬でもあの薄情が服を着て歩いているような渥見本部長や、親会社である㈱コム・アインホールディングスに期待してしまったと言う事実に重ねて落胆し、再びの溜息と共にかぶりを振る。

「やっぱり俺らはこのまま解雇されて、食い扶持の無い無職の浪人、しかも最悪の場合にはニートになっちまうんだな」

「ああ、その通りだ。どうやらどれだけ頑張ってみても、その運命からは逃れられないらしい」

「糞! 渥見本部長の薄情者め!」

 俺と寛治の二人は半ば冗談交じりにそう言って、暫しの間、渥見本部長と㈱コム・アインホールディングスに対する愚痴や恨み節でもって会話を弾ませた。そしてそうこうしている内に残された業務を手早く片付けると、やがて時計の針は午後五時四十五分の終業時刻を指し示す。

「それじゃあ、お先に失礼します」

 本日の業務を恙無つつがなく終えると同時に、デスクトップパソコンとノートパソコン、それに液晶タブレットの電源を落とした俺はそう言って席を立った。そして俺と同じく定時で仕事を切り上げた他のスタッフ達と一緒にぞろぞろとオフィスを退出し、エレベーターでもってビルディングの一階まで移動すると、宵闇に沈みつつある秋葉原UDXを後にする。

「さて、と」

 ダウンジャケットを着込んだ俺はそう言って気を取り直し、吐く息も真っ白に凍る真冬の空気に凍えながら、東京メトロ日比谷線の秋葉原駅の方角へと足を向けた。そして多くの通勤客や観光客でごった返すラッシュアワーの秋葉原駅に辿り着くと、ちょうどプラットフォームに滑り込んで来た車輛に乗り込み、やがて三駅離れた東京メトロ日比谷線の入谷駅で降車する。

「間も無く、入谷です。出口は、左側です」

 そう言った車内アナウンスに促されながら入谷駅で降車した俺は、車内を埋め尽くす数多の乗客達に混じって自動改札を通過してから階段を駆け上がり、入谷の街の中心に位置する入谷交差点の前へと差し掛かった。そして交差点から続く言問い通りを東の方角に向けて歩き続けること十数分後、俺は入谷から浅草の街へと足を踏み入れ、自宅であるワンルームマンションへと辿り着く。

「こんばんは」

「お帰りなさい、犬塚さん」

 電子キーでもってオートロックの外扉を開けると同時にそう言って、エントランスで管理人の中年男性と夜の挨拶を交わし合うと、俺はワンルームマンションのエレベーターに乗り込んだ。そして目的地である階層へと移動したエレベーターを降りてから、外廊下を渡って自宅の扉の鍵を開けたところで、不意に背の高い人影が音も無くこちらへと忍び寄る。

「あら、ケンケンさん? こんな所でお会いするだなんて、奇遇ね? 一体ここで、何をしていらっしゃるのかしら?」

 果たしてこちらへと忍び寄るなり白々しい表情と口調でもってそう言った人影は、乳や尻が大きくスタイルこそ良いものの顔立ちばかりは十人並みかそれ以下と言ったちょっと残念な容姿の女性、つまり俺と同じ職場でアシスタントを務める上別府美香その人であった。

「え? あ、え? う、上別府さん? え? なんで?」

 突然、それもこの上無くプライベートな空間であるべき自宅に姿を現した上別府を前にして、激しく狼狽した俺は舌をもつれさせながら動揺を隠せない。しかしながらそんな俺には眼もくれず、こちらへと歩み寄った上別府はドアノブに手を掛けると、家主である俺の許可を得る事無く解錠された扉を引き開けた。そしてワンルームマンションの俺の自宅へと足を踏み入れたかと思えば、まるで悪びれる様子も無いままに自己辯護の言葉を口にする。

「だってあたしったら、地下鉄の駅からここまで歩いただけで、くたくたに疲れちゃったのよね? ほら、脹脛ふくらはぎなんて、ぱんぱんに浮腫むくんじゃってるじゃない? ですからここでちょっとだけ、休憩させてもらってもよろしいかしら?」

「え? あ、え?」

 突然姿を現した上別府の勝手な言い分に、俺は自宅の玄関に立ち尽くしたまま困惑するばかりだ。

「キッチンはこっちかしら? 途中でお弁当とビールを買って来ましたし、温めて一緒に食べましょうね? いくら男性の独り暮らしとは言っても、冷蔵庫と電子レンジくらいは持ってるでしょう?」

 そう言いながらヒールの高いパンプスを玄関で脱ぎ捨て、ずかずかと短い廊下を渡ってキッチンと寝室を兼ねた居室に足を踏み入れようとする上別府の背中に、ようやく舌のもつれが解消された俺は問い質す。

「ちょっと、上別府さん! なんで、どうして上別府さんがここに居るんだ! ここは俺の家だし、それに、キミの入室を許可した覚えもないぞ!」

 俺はそう言って問い質すが、廊下を渡り切って俺の自宅の居室に足を踏み入れた上別府は一向に動じない。

「あら? ケンケンさんったら、そんな些細な事は、今はどうでもいい事なんじゃないかしら? それよりも今すぐお弁当を温めますから、ケンケンさんはそこで部屋着に着替えて、座って待っていてくださらない?」

 涼しい顔でもってそう言った上別府は勝手に電子レンジで弁当を温め始め、やはり勝手に冷蔵庫を開けると、途中で買って来たと言う缶ビールをその冷蔵庫のボトルポケットに放り込んだ。そしてそんな上別府の勝手な振る舞いに圧倒されながら、まさに文字通りの意味でもって思考停止に陥ってしまった俺は言葉を失い、遅れて居室に足を踏み入れると同時にその場に呆然と立ち尽くす。

「ほら、もうお弁当が温まりましたよ? あら? 部屋着に着替えておいてくださいねってお願いした筈なのに、未だダウンジャケットも脱いでいないだなんて、ケンケンさんったらちょっとのんびりし過ぎなんじゃないかしら?」

 そう言った上別府は呆然と立ち尽くす俺をその場に残したまま、電子レンジで温め終えた弁当を手にしながら我が物顔で居室を縦断すると、ベッドの脇のローテーブルの天板の上にその弁当を並べ始めた。

「さあ、お食事の準備が整いましたよ? ケンケンさんもこちらにお座りになって、冷めない内に、あたしと一緒に召し上がりましょうね?」

「……」

 上別府の常軌を逸した身勝手さと傍若無人ぶりに観念した俺はダウンジャケットを脱ぎ捨て、弁当が並べられたローテーブルの傍らに無言のまま腰を下ろし、そのローテーブルを間に挟むような格好でもって腰を下ろした上別府と向かい合う。

「それじゃあケンケンさん、出来合いのお弁当なんかで申し訳ありませんけど、どうぞ召し上がれ?」

「……いただきます」

 俺はそう言って、渋々ながらも、勝手かつ強引に俺の家に上がり込んだ上別府が用意した弁当に箸を付け始めた。用意された弁当は上別府の言葉通り、彼女の手作り弁当などではなく、全国チェーンの弁当屋で売っているような既製品の弁当である。

「どうかしら、ケンケンさん? あたしが買って来たお弁当、美味しい?」

「……」

 弁当を食べながらの上別府の問い掛けに、俺は無言のまま箸を口に運び続け、彼女の言葉に決して同意しない。そしてプラ容器に盛られた弁当を半分方食べ終えたところで、眼の前の上別府に要請する。

「……上別府さん、いいですか? この弁当を食べ終えたら、すぐにでもこのマンションから出て行ってくださいね? 俺はキミを招待した覚えなんて無いんですから、お願いしますよ?」

「あら? ケンケンさんったら、すぐにでもこのマンションから出て行けだなんて、随分と薄情なんじゃないかしら? あたしみたいな妙齢の女性にはもっと優しくしてあげないと、あたしの未来の旦那様として失格でしてよ?」

 しかしながら上別府はそう言って、のらりくらりと詭弁でもって言い逃れながら、俺の要請に耳を貸す様子がまるで無い。そしてそうこうしている内に俺も彼女も弁当を食べ終えると、やはり俺と共に「ごちそうさま」と言って箸を置いた上別府は、おもむろに立ち上がる。

「ねえ、ケンケンさん? あたしったらお腹が満たされたらちょっとだけ体温が上昇したみたいで、なんだか汗を掻いてしまったものですから、シャワーをお借りしてもよろしいかしら?」

「は?」

 そう言って頓狂な声を上げながら驚くばかりの俺を尻目に、唐突にシャワーを貸してくれなどと言い出した上別府は外衣であるコートに上着のニットワンピース、更にはその下に着込んでいたワイシャツをも脱ぎ捨て始めた。

「ちょ、ちょちょちょ、ちょっとちょっと、上別府さん! いくらシャワーを浴びるからと言ったって、こんな所で服を脱ぎ始めるんじゃない! そこの廊下の向こうの、脱衣所に行け! いや、むしろそれ以前に、俺はキミにシャワーを貸す事を許可した覚えは無いぞ!」

 俺はそう言って服を脱ぐ手を止めない上別府から顔と眼を背けるものの、彼女はそんな俺の言葉に耳を貸さぬままワイシャツに続いてタイトスカートをも脱ぎ捨て、やがてブラジャーとショーツ、それにガーターベルトとストッキングと言った下着類だけを身に纏いながらほくそ笑む。

「ねえ、ケンケンさん? こっちを向いてくださらない? どうかしら? ケンケンさんも健康で健全な男の人なんですから、やっぱりこう言った色と模様のランジェリーはお好みでして?」

 そう言ってほくそ笑むばかりの上別府の言葉に、俺は見てはいけないと自らを律しつつも、ついつい下着姿の彼女にちらりと眼を向けてしまった。すると上別府が身に纏っている黒いフリルとレースによる装飾が施された下着はこの上無く官能的かつ扇情的で、その日本人離れしたスタイルの良さも相俟ってか、妖艶なる彼女の肢体から漂って来るフェロモンの香りが俺の股間と性欲を刺激して止まない。

「……」

 あられもない下着姿の上別府を前にした俺は言葉を失い、喉仏を上下させながら、ごくりと生唾を飲み込んだ。

「あら? ケンケンさんったら、今からそんなに驚いてばかりいるだなんて、ちょっと気が早いんじゃないかしら? だって未だ未だここから先こそが、今夜のお楽しみの山場なんですからね?」

 意味深な表情と口調でもってそう言った下着姿の上別府が、にたにたとした湿った薄ら笑いをその十人並みかそれ以下の顔に浮かべながら背中のホックを外してブラジャーを脱ぎ捨てれば、たわわに実った乳房と茶褐色の乳輪と乳首とが俺の眼の前に惜しげもなくまろび出る。

「ちょ、ちょちょちょちょっと待ってくれよ上別府さん! 見えてる! 見えちゃってるから、隠して!」

「いいえ、決して隠したりはしませんよ? むしろケンケンさんには、この二つのおっぱいだけでなく、あたしの一番大事なところもじっくりご覧になっていただきたいんですからね?」

 やはりにたにたとした湿った薄ら笑いと共にそう言った上別府は、ワンルームマンションの板敷きの床に転がるブラジャーに続いて、とうとうガーターベルトの上のショーツまでをも脱ぎ始めてしまった。そして彼女の一挙手一投足から眼が離せぬ俺に凝視されつつも、遂にショーツを脱ぎ捨てると、恥丘に鬱蒼と生え揃う陰毛に覆われた上別府の女性器が露になる。

「……」

 学生時代に付き合い始めた恋人と些細な切っ掛けから喧嘩別れして以来の、実に十年ぶりに至近距離から眼にする事となった生の女性器を前にして、言葉を失った俺は再びごくりと生唾を飲み込んだ。

「あらあらあら? あたしの裸体を見た途端に難しい顔をしたまま黙り込んでしまうだなんて、一体どうなさいましたの? 生まれたままの姿の女性の身体がそんなに物珍しい訳でもないでしょうに、まさかケンケンさんったら、その歳で未だ童貞だったりするのかしら?」

「……いや、俺はもう童貞なんかじゃない。只ちょっと、女性の裸を間近で見るのが久し振りだっただけだ」

 俺がそう言って彼女の乳房と女性器を凝視しながらも自己辯護の言葉を口にすれば、上別府はその十人並みかそれ以下の顔に、益々をもって湿った薄ら笑いを浮かべざるを得ない。

「あら、そうですの? でしたら、ちょっとばかり残念だったと言うのが、正直なところね? もし仮にケンケンさんが童貞でしたら、今ここであたしがじっくりと筆下ろしをして差し上げて、あたしの肉壺の味しか知らない生涯一穴主義の旦那様が誕生するのも夢ではなかったんじゃないかしら?」

 上別府は相変わらずの湿った薄ら笑いと共にそう言って、想像するだにグロテスクでおぞましい事を平然と言ってのけながら、乳房と女性器を露にしたままこちらへとにじり寄る。

「ねえ、ケンケンさん? もしかしたらケンケンさんが未だ童貞なのかもしれないと思いながらあなたの裸を想像したら、あたし、なんだか自分でもびっくりするくらい興奮して来ちゃったみたいなのよね? ですから本来ならば行為の前にシャワーを浴びるつもりでしたけど、あたしもケンケンさんももう我慢出来ないみたいですし、今すぐにでもここでまぐわいません事かしら?」

 湿った薄ら笑いを浮かべた顔を熱っぽく上気させながら、興奮が隠せない様子でもってそう言った上別府はその場にひざまずき、ローテーブルの傍らに腰を下ろしたまま固まってしまっている俺の身体に自分の身体を密着させた。すると見た目以上の柔らかさと弾力を併せ持つ彼女の二つの乳房が俺の胸板を優しく包み込み、その髪や素肌からぷんぷんと漂って来る甘い香り、つまり香水の香りと発情した雌の匂いが入り混じった臭気が鼻腔粘膜を刺激して頭がくらくらする。

「さあ、ケンケンさん? あたしと一緒に、そこのベッドの上で既成事実を積み上げちゃいましょ? ね?」

 ほぼ全裸と言ってもいい程の淫らな姿の上別府はそう言って婚前交渉を促すが、如何にこの俺が女旱おんなひでりの寂しい独身男性とは言え、彼女の甘い誘いにそうそう簡単に乗ってやるほど馬鹿ではない。

「……駄目だ、駄目だ駄目だ駄目だ! こんな事をしていては駄目だ! 上別府さん、その手を放せ!」

 ぶんぶんと激しくかぶりを振りながらそう言った俺はこちらに身を寄せる上別府の豊満な身体を振り払い、急いで腰を上げて立ち上がると、上別府にも立ち上がるよう促す。

「上別府さん、ほら、立って!」

「ど、どうしたのかしら、ケンケンさん? そんなに血相を変えちゃって、せっかくのハンサムな顔立ちが台無しでしてよ?」

 そう言って声を詰まらせて困惑しつつも、言われた通り立ち上がった上別府の肩に手を掛けた俺は、彼女の豊満な身体を強引に押し出すような格好でもってワンルームマンションの俺の自宅から退去させ始めた。

「上別府さん、今すぐこの部屋から出て行ってくれ! ほら、早く早く! 早く出て行ってくれってば!」

 勿論言うまでもない事だが、この俺の手によって部屋から退去させられんとする上別府もまた馬鹿ではないので、その身をよじって激しく抵抗する。

「ケ、ケンケンさんったら、ちょ、ちょっとお待ちになって、そんなに押さないでくださらない? それにいきなり出て行ってくれだなんて、いくらなんでも薄情が過ぎるんじゃないかしら?」

「いいから、早く出て行ってくれ! 早く!」

 俺はそう言いながら上別府の豊満な身体を強引に押し出し続け、やがて短い廊下を渡って玄関まで辿り着くと玄関扉を押し開けてから、抵抗する彼女をワンルームマンションの外廊下に押し出す事に成功した。

「さあ、帰ってくれ! 早く帰るんだ!」

 ほぼ全裸同然の上別府をワンルームマンションの外廊下に押し出す事に成功した俺はそう言って、彼女を寒く薄暗い外廊下に残したまま、自宅の玄関扉を施錠してからホッと安堵の溜息を吐く。

「ちょ、ちょっと、ケンケンさん? このドアを開けてくださらない? あたしは未だケンケンさんにお話がありますし、それに、こんな姿のまま放り出されても帰るに帰れないんじゃないかしら?」

 重く頑丈な玄関扉の向こうの、ワンルームマンションのびうびうと寒風吹き荒ぶ外廊下に放り出される格好になってしまった上別府がそう言いながら、俺と彼女とを隔てる玄関扉を激しくどんどんと叩き始めた。確かに上別府の言う通り、ガーターベルトとストッキングしか身に付けていない全裸同然のあられもない姿でもって真冬の戸外に放り出されてしまっては、にっちもさっちも行かない事もまた当然の帰結である。

「ちょっとケンケンさん、ねえ、ケンケンさんったら、聞いてらっしゃいます? もし聞こえてましたら、今すぐにでもこのドアを開けてくださらないかしら? それか、せめて着る物だけでも返してくださらないと、あたし、凍え死んじゃいますのよ? ねえ、ケンケンさんったら、聞こえてまして?」

 上別府がそう言いながらどんどんと激しく玄関扉を叩き続けるので、俺は短い廊下の先の居室に取って返し、床に脱ぎ捨てられていたコートやニットワンピースやブラジャーやショーツと言った彼女の衣服を拾い集めた。そして玄関に戻ってU字ロックを掛けたまま玄関扉を少しだけ開けると、その玄関扉とドア枠との僅かな隙間から拾い集めた衣服を外廊下に放り捨て、命じる。

「ほら、上別府さん! これを着たら、もう帰ってくれ!」

 再び玄関扉を施錠した俺は固く閉ざされた扉越しにそう言って、外廊下に居る筈の上別府に帰宅を命じた。すると上別府は暫しの間、俺が玄関扉の隙間から放り捨てた彼女の衣服をもぞもぞと無言のまま着込んでいたが、やがて着替え終えるのとほぼ同時に玄関扉を叩く行為を再開する。

「ねえ、ケンケンさん? ケンケンさんったら、今すぐこのドアを開けて、あたしを中に入れてくださらないかしら? もう少し、どうかもう少しだけで構いませんから、あたし達二人の将来について一緒に話し合いましょ?」

 そう言った上別府の口調は、俺を懐柔するかのように優しく穏やかなものであった。

「いいや、今更話し合う事なんて、何も無い! いいから、もう帰ってくれって言ってるんだ!」

 しかしながら彼女の懐柔の言葉には一切耳を貸さず、俺がそう言って玄関扉越しに重ねて命じれば、扉の向こうの上別府の態度と口調が豹変する。

「おい、ケンケン! いや、犬塚賢人! 御託はどうでもいいから、このドアを今すぐ開けろって言ってんだ! 開けろ! 開けやがれ! 開けやがらねえか!」

 上別府はそう言って口汚い罵声交じりに怒鳴り散らし、これまで以上にどんどんと激しく玄関扉を叩きながら、自分を室内に入れるよう要求し続けた。

「今すぐ帰ってくれって言ってんだ! 帰れ!」

 対する俺もまた彼女に負けないくらいの大声でもって怒鳴り返し、同じワンルームマンションに住む近隣住民達との騒音トラブルも顧みぬまま、この場からの退去と帰宅を上別府に命じ続ける。

「いいか、犬塚賢人! 今日のこの屈辱は、あたしは絶対に忘れないからな! お前も覚えてろよ!」

 すると玄関扉を隔てたまま暫し俺と怒鳴り合いを繰り返した後に、最後にそう言い残した上別府はようやく観念して外廊下から立ち去ったらしく、彼女の足音がエレベーターの方角へと遠ざかると同時にワンルームマンションに静寂の時が訪れた。そして玄関扉のドアスコープを覗いて彼女の不在を確認した俺は、果たしてこれで何度目になるのか、またしても安堵の溜息を吐きながらホッと胸を撫で下ろす。

「まったく、一体全体、俺が何をしたって言うんだよ……」

 俺は自宅の玄関で立ち尽くしたままそう言って、安堵のあまり膝から力が抜けると同時に、へなへなとその場にへたり込んでしまった。そして明日になってから出社した際に上別府にどんな顔を向ければいいのかと思い悩みながら、絶望のあまりかぶりを振って天を仰ぐ。

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