第二幕:real


 第二幕:real



 勤めている企業の倒産と従業員の解雇が決定したとは言え、それを理由に、俺らが手掛けるゲームの開発がたちまち頓挫すると言う訳ではない。だからこそ今朝もまた、枕元に置いたスマートフォンが奏でる電子的なアラーム音によって覚醒させられるような格好でもって、俺はゆっくりと眼を覚ました。

「ふあああ……ぁぁぁ……」

 盛大なあくびを漏らした俺はベッドから這い出すと、バスルームで用を足してから顔を洗い、無精髭の伸び具合を確認する。

「今日は……もう金曜日か」

 寝室を兼ねた居室へと取って返した俺はそう言ってカレンダーを確認し、冷蔵庫から取り出したチョコレート味のカロリーメイトを麦茶でもって胃の腑に流し込み終えると、セルフレームの眼鏡も含めた外出着へと着替えると同時にショルダーバッグを背負って出勤の準備を終えた。

「行ってきます」

 誰に言うでもなくそう言った俺はワンルームマンションの自宅を後にすると、エレベーターに乗って一階へと移動してから無人のエントランスを経由し、早朝の浅草の街へと足を踏み入れる。初夏の爽やかな空気と燦々さんさんと照り付ける陽射しの程良い暖かさが、なんとも言えず心地良い。

「さて、と」

 やはり独り言つようにそう言った俺は気を取り直し、東京メトロ日比谷線の入谷駅の方角へと足を向けた。そして言問い通りを歩き続けること十数分後、入谷駅へと辿り着いた俺は鮮やかな銀色に光り輝く車輛に乗り込み、今度は東京メトロ日比谷線の秋葉原駅を目指す。

「間も無く、秋葉原です。出口は、左側です」

 そう言った車内アナウンスに促されながら秋葉原駅で降車した俺は、駅前にそびえ立つヨドバシカメラマルチメディアAkibaの前を素通りすると、やがて秋葉原UDXのビルディングの前へと辿り着いた。

「お疲れ様です」

 俺は正面玄関前に立つ守衛の中年男性と挨拶を交わし合いながら秋葉原UDXの敷地内へと足を踏み入れ、エレベーターに乗って地上24階へと移動すると、㈱コム・アインデジタルエンターテイメントのオフィスの自分のデスクに腰を下ろす。

「さて、勤怠勤怠っと」

 腰を下ろした俺はそう言いながら支給品のノートパソコンを起動させ、出退勤の管理システムから出勤の打刻を終えると、昨日の退勤後に届いた社内メールの有無とその内容を確認した。

「ふうん」

 会社の公式サイトが更新されましただとかアンチウイルスソフトのウイルス定義ファイルを更新してくださいだとか言った定時連絡のメールは届いていたが、それ以外に、特にこれと言って重要な社内メールは届いていない。

「ようケンケン、今日もおはようさん」

「ああ、おはよう」

 俺はそう言って、俺のすぐ後ろのデスクに腰を下ろすぶくぶくに太った肥満体の寛治と朝の挨拶を交わし合うと、自分のデスクに向き直って眼の前の業務に邁進し始めた。そして画像編集ソフトであるAdobe Photoshopと3DCGアニメーションソフトであるMayaを駆使しながら作業を進めている内に、やがて壁掛け時計に内蔵されたチャイムが鳴って、待ちに待った昼休みの時間が到来する。

「さて、飯だ飯だ」

 そう言った俺はおもむろに席を立ち、エレベーターに乗って一階へと移動すると、秋葉原UDXの真正面に店を構える『とんこつラーメン博多風龍秋葉原2号店』へと足を踏み入れた。そして券売機で食券を買ってからカウンター席に腰を下ろせば、不意に見知った女性が店内へと姿を現す。

「おやワンコくん、奇遇だね」

「あれ? 鍛治屋敷さんじゃないですか」

 果たして俺を『ワンコくん』と呼びながら姿を現した長身で渋谷のギャル風の容姿の女性は、アートディレクターとして俺の直属の上司を務める鍛治屋敷静香その人であったので、俺は少しばかり驚かざるを得ない。

「キミも、この店にはよく来るのかい?」

「ええ、ここは替え玉が二玉まで無料だから、豚骨ラーメンが腹一杯食べたくなった時にはよく来ますね」

「そうか、あたしもだ」

 決して広いとは言えない店内のカウンター席に並んで腰を下ろした鍛治屋敷と俺がそう言えば、ものの五分と経たない内に、細くて白い小麦麵の豚骨ラーメンが俺ら二人の前に配膳された。

「いただきます」

 そう言って箸を手にしながら出来たて熱々の豚骨ラーメンをずるずると啜り始めた鍛治屋敷に、隣の席に腰を下ろした俺は、やはり彼女と同じようにずるずると豚骨ラーメンを啜りながら問い掛ける。

「ところで、鍛治屋敷さん」

「ん?」

「何だかうちの会社、大変な事になっちゃいましたね。こうなる事は、予測出来ていたんですか?」

「ああ、そうだな。以前キミとエチオピアで一緒になった際に危惧していた噂も現実のものとなってしまったし、あたしも含めた社員の殆どが解雇されるとなれば、現場の責任者として本当に心苦しいよ。……あ、替え玉普通で」

 細くて白い小麦麵をずるずると啜っていた鍛治屋敷はそう言って、俺の問い掛けに答えながら、二玉まで無料の豚骨ラーメンの替え玉を注文した。ちなみにここで言うところの『エチオピア』とは、東アフリカに位置するエチオピア連邦民主共和国の事ではなく、東京都千代田区の神田神保町に本店が在る『エチオピアカリーキッチンアトレ秋葉原1店』の事である。

「そうですね、本当に俺達、これからどうしたらいいんでしょうね。……あ、替え玉硬めで」

 俺もまたそう言って替え玉を注文すると、熱々の麺とスープから立ち上る熱気にだらだらと玉の様な汗を掻きながら、眼の前の豚骨ラーメンをずるずると啜り続けた。そして二玉まで無料の替え玉を俺も鍛治屋敷も揃って食べ尽くすと、塩分の摂り過ぎは身体に悪いと重々理解しながらも、最後の一滴までスープを飲み干してから箸を置く。

「ごちそうさま」

 やがて無料の替え玉も含めた都合三玉の豚骨ラーメンを食べ終えた俺と鍛治屋敷の二人はそう言って席を立ち、多くの人で賑わう『とんこつラーメン博多風龍秋葉原2号店』を後にした。そして秋葉原UDXへと帰還し、エレベーターに乗って24階へと移動してからオフィスに足を踏み入れると、長い金髪と日焼けサロンで焼いた肌が眩しい鍛治屋敷と離別する。

「それじゃあワンコくん、またな」

「ええ、また今度」

 そう言った俺は鍛治屋敷と別れて自分のデスクにどっかと腰を下ろすと、昼休みが終わるまでの時間を利用してプライベート用のスマートフォンを取り出し、㈱コム・アインデジタルエンターテイメントが倒産すると言う噂が流布されていないかどうかSNSのTLを確認する。

「ふうん、うちの社員も、随分と口が堅いね」

 俺はそう言いながらSNSのTLを遡るが、幾らエゴサ、つまりエゴサーチしてみたところで、社員一同に箝口令が敷かれているせいか我が社が倒産すると言う話は影も形も見当たらない。

「ふう」

 そうこうしている内に、やがて昼休みの終焉を告げるチャイムがフロア中に鳴り響いたので、俺はデニムジーンズのポケットにスマートフォンを仕舞ってから午後の業務を再開する事にした。そしてワコム社製のタブレットペンを握ってデスクの上の液晶タブレットに向き直り、一心不乱に業務に邁進し続けていると、そんな俺にすぐ後ろの席の寛治が問い掛ける。

「なあケンケン、聞いたか?」

「ん? 聞いたかって、何を?」

 自分が描き起こしたメカデザインを基に3DCGアニメーションソフトであるMayaを駆使しながらポリゴンモデルを作製し、テクスチャを張ってボーンを組み込んだ俺はそう言って、背後を振り返る事無く寛治に問い返した。

「噂によるとな、なんでも上の25階の新渡戸にとべさんところのサッカーチーム、来年発売予定だった全てのタイトルを開発中止にして年内に解散する事が決定したんだってよ」

「マジかよ!」

 寛治に耳打ちされた俺はそう言って、よりにもよって業績が好調であった筈のサッカーチームが年内で解散させられてしまうと言う事実に驚きを隠せない。ちなみにここで言うところの『サッカーチーム』とは、民間企業が運営するいわゆる社会人野球などの実業団のチームの事ではなく、サッカーを題材としたビデオゲームやソーシャルゲームなどの開発チームの事である。

「今度こそ国内限定でのミリオンセラーを達成するんだって言って、新渡戸さんもあんなに張り切ってたのに、無念だろうなあ」

「ああ、そうだな。だけどケンケン、サッカーチームの件も決して他人事なんかじゃないぜ? 俺らも上層部の気が変われば、いつ何時、突然の開発中止とチームの解散が発表されるかも知れないんだからな」

「おいおい、そんなに脅かすなよ。取締役会で『クラースヌイ・ピスタリェート』の最新作は必ず発売するって旨の言質を取ってるんだから、さすがに開発中止って事は無いだろうさ。……まあ、その最新作がこの会社の最後のタイトルになる事も決定しちゃってるけどさ」

 俺はそう言いながら、Mayaのプラグインを利用して作製したモデルデータを開発チームのデータベース上に出力エクスポートすると、自分のデスクから腰を上げた。そしてスナック菓子をぼりぼりと貪り食う寛治をその場に残したまま、広範なオフィスの隣のブロックの柴のデスクへと歩み寄る。

「柴さん、ちょっといい?」

「は、はい! な、なな、何でしょう?」

歩行戦車ウォーカータンクのモデルデータを少しばかり更新したんだけど、試しにコンバートしてみてくれないかな?」

 俺がそう言ってモデルデータのコンバートを依頼すると、極端に人見知りが激しくて対人恐怖症と赤面症と多汗症を患い、その上どもり症でもある柴は激しく動揺せざるを得ない。

「は、はい、ちょ、ちょちょちょちょっと待っててください」

 少しばかりどもって挙動不審になりながらそう言った柴は、俺の依頼通り、俺らが開発中の『クラースヌイ・ピスタリェート』の事実上のラスボスとなる歩行戦車ウォーカータンクのモデルデータをコンバートし始めた。

「で、でで、出来ました」

 そして一通りのコンバートを終えると、柴はそう言いながら彼女のデスクの開発機に繋がったゲームパッドをこちらに向けて差し出したので、俺はそれを受け取ってから液晶画面の中の歩行戦車ウォーカータンクを操作し始める。

「ど、どどどどうですか?」

「うん、なかなかいいみたいだね。このまま本番用のデータも、コンバートしておいてもらえるかな?」

「は、はい!」

 やはり若干挙動不審になりつつも、キャラクターの表示周りを担当するプログラマーである柴は、少しばかりカールしたショートボブの髪を揺らしながらそう言った。

「それじゃあ柴さん、よろしく頼むよ」

 最後にそう言った俺は柴のデスクを後にすると、、自分のデスクが在る隣のブロックへと帰還する途中で、新人デザイナーである小菅のデスクの前でふと足を止める。

「やあ、小菅さん、調子はどう?」

「……別に」

 小柄で痩せぎすの小菅はぼそりと呟くようにそう言って、相変わらず鰾膠にべも無い。

「そう? だけど小菅さんにも、少しくらい困っているような事があるんじゃないの?」

「……でしたら、どうしてもこのモデルのポリゴンがMaya上では問題無いのに実機上では裏返って表示されてしまうんですけど、これ、どうしたらいいですか?」

「ん? どれどれ? ああ、これはきっとMayaの履歴ヒストリーに余計なデータが蓄積されてしまっているのが原因だから、試しに履歴ヒストリーを全て消去してから出力エクスポートしてみれば正しく表示される筈だよ」

「……あ、そうなんですね。ありがとうございます」

 俺がMayaからの出力エクスポートのコツを教えてやったにもかかわらず、やはり呟くようにそう言った小菅は、まるで俺を無視するかのようにさっさと液晶タブレットに視線を移して作業に没頭し始めてしまった。やはりこの小柄で痩せぎすの新人デザイナーは無口で無愛想で、どうにもこうにも一体何を考えているのかさっぱり分からない。

「それじゃあ小菅さん、頑張ってね」

 俺は手を振りながらそう言って、小菅のデスクから退散し、やがて帰還した自分のデスクに腰を下ろし直した。

「ふう」

 自分のデスクに腰を下ろした俺がそう言って溜息を吐いていると、このチームのアシスタントを務める上別府がこちらへと歩み寄って来たかと思えば、彼女を印象付ける妙に甲高いアニメ声でもって問い掛ける。

「ケンケンさん、今ちょっと、お時間よろしいですか?」

「ん? 何か?」

「今日の午前中にですね、ケンケンさんが渥見さん宛てに転送した経費の立て替えに関するノーツメールなんですけれど、ちょっとここで開いてくださいます?」

「ああ、はい」

 そう言った俺はアニメ声の上別府に言われた通り、手元のノートパソコンでノーツ、つまりHCL Technologiesが提供するグループウェアであるHCL Notesで作製したメールを表示した。

「このメールなんですけど、お手数ですけど転送先のccに鍛治屋敷さんとあたしを追加してくださいますか? そうでないと承認が下りませんので、お願いしますね?」

「あ、そうなんですか。すいません、すぐに追加して転送し直します」

 メールの不備を指摘された俺がそう言えば、何を思ったのか上別府は俺の耳元へと顔を寄せ、周囲の他のスタッフ達には聞こえないような小声でもって耳打ちする。

「ねえねえ、ケンケンさん? あたしね、今日はこの服の下に、とってもいやらしい下着を履いているんですよ?」

「え?」

 突然の上別府の、意味も意図も不明な告白を耳打ちされた俺は自分の聞き間違いではないかと思い、少しばかり驚きながらそう言って問い返した。しかしながら上別府は無言のまま俺の眼をジッと凝視しつつ、にたにたとした湿った薄ら笑いをその十人並みの顔に浮かべるばかりで、どうにも要領を得ない。

「ふふふ、あたしの下着姿、想像しちゃいました? だけど、残念ですけど、今日のところは見せてあげませんからね?」

 上別府は薄ら笑いを浮かべながらそう言うと、くるりと踵を返し、無駄にスタイルの良い身体を周囲に見せつけるような足取りでもってその場から立ち去った。そして彼女が立ち去った後のオフィスの一角にぽつんと取り残された俺は、一体上別府が何をしたかったのかが理解出来ず、只々ぽかんと呆けるばかりである。

「?」

 俺は頭の上に見えない疑問符を浮かべつつも自分のデスクに向き直り、国内企業であるワコム社製のタブレットペンを握って気を取り直すと、引き続き午後の業務に邁進し始めた。そしてAdobe PhotoshopとMayaを駆使しながらポリゴンモデルを作製し続ければ、やがて時計の針は午後五時四十五分の終業時刻を指し示す。

「それじゃあ、お先に失礼します」

 本日の業務を恙無つつがなく終えると同時に、デスクトップパソコンとノートパソコン、それに液晶タブレットの電源を落とした俺はそう言って席を立った。そして俺と同じく定時で仕事を切り上げた他のスタッフ達と一緒にぞろぞろとオフィスを退出し、エレベーターでもってビルディングの一階まで移動すると、宵闇に沈みつつある秋葉原UDXを後にする。

「さて、と。晩飯はどこで何を食おうかな」

 秋葉原UDXを後にした俺が暮れなずむ夏空を見上げながらそう言えば、不意にデニムジーンズのポケットの中のスマートフォンが軽快な着信音を奏で始めた。そこで液晶画面を確認してみれば、そこに表示された発信者は俺の古い友人である事が確認出来る。

「もしもし?」

「もしもし、賢人か? 俺だよ、俺」

「ああ、分かってるよ、鷹央だろ?」

 やはりスマートフォンの向こうの通話相手は、学生時代のかつての同期生であり、また同時に卒業後は同じゲーム業界へと進出した同業者でもある福嶋鷹央ふくしまたかおその人であった。

「それで鷹央、こんな時間に、一体何の用だ?」

「ああ、実は今ちょっと、仕事の都合で上野駅まで足を延ばしたんだが……お前さえ良ければ、これからこの辺りで一緒に飯でも食わないか? ちょうど明日は休みだし、お前も未だ秋葉原に居るんだろ?」

 どうやら鷹央は俺と一緒に飯を食うついでに酒の一杯でも酌み交わし、互いの旧交を温め合おうと言う算段らしい。

「分かった、俺は構わないよ。それじゃあこの辺の、どの店で飯にする?」

「何年か前にお前と一緒に行った、あの焼肉屋がいいな。ほら、覚えてるだろ? 店内が妙に薄暗くて、網脂でぎとぎとのレバーが美味かったあの店だよ」

「ああ、それなら御徒町の食肉センターだな。それで鷹央、お前は今、上野駅に居るんだろ? だったらそこから中央通りまで移動して、ヨドバシカメラの2号店の前で待っててくれよ。俺も今すぐそっちに行くからさ」

「そうか、よし、分かった。それじゃあそのヨドバシカメラの2号店とやらの前で待ってるから、急いで来いよ」

 スマートフォンの向こうの鷹央がそう言うと、俺は液晶画面をタップし、滞り無く通話を終えた。ちょうど新宿副都心を挟んで東京の反対側に住む彼と食事を共にするのは、実に去年の夏コミの打ち上げ以来の事である。

「さて、と。上野で待ち合わせか……電車で行くか、歩いて行くか迷う距離だな」

 そう言った俺は暫し逡巡した後に、腹を空かせるための食前の運動も兼ねて徒歩での移動を決意すると、秋葉原の街を縦断する中央通りの方角へと足を向けた。そして多くの買い物客や物見遊山の観光客が行き交う中央通りを脇目も振らずに北上し続け、東京メトロ銀座線の末広町駅と上野広小路駅を通過すれば、やがて待ち合わせ場所である『ヨドバシカメラマルチメディア上野2号店』の前へと辿り着く。

「よう鷹央、待ったか?」

「遅いぞ賢人、電車で一駅の割には随分時間が掛かったな」

 およそ1.5㎞ばかりの道のりを歩いて待ち合わせ場所へと辿り着いてみれば、そこで待ちぼうけを喰わされていた髪の短い成人男性、つまり鷹央がそう言って愚痴を漏らした。

「ああ、秋葉原から歩いて来たからな」

「歩いて来た? まったく、この蒸し暑いのに、いい歳してどこにそんな元気があるもんだか」

 鷹央はそう言って呆れるが、いくら陽が沈み掛けた夕暮れ時とは言え、確かに蒸し暑い真夏の戸外を歩き続けた俺は汗だくであったので彼の言う事も一理ある。

「とにかくこんな所で立ち話も何だから、早く店まで移動しよう。今はクーラーの冷たい風が恋しくて仕方が無い」

「自業自得だぞ、まったく」

 そう言って重ねて呆れる鷹央と並んで歩きながら、俺は来た道を引き返すような格好でもって中央通りを南下し、やがて上野広小路駅の真上に位置する『神保町食肉センター上野店』へと辿り着いた。

「いらっしゃいませ、何名様ですか?」

「二人です」

 雑居ビルの二階の店内へと足を踏み入れた俺はそう言って、如何にも快活そうな女性スタッフに案内されながらテーブルとテーブルの間を縫って移動すると、カウンター席に鷹央と横並びで腰を下ろしてから「ふう」と一息つく。中央通りをおよそ三十分間ばかりも歩き続けてすっかり火照ってしまった身体に、エアコンで冷やされたそよそよとした爽やかな風が染み渡り、何とも言えず心地良い。

「それで、お前は何が食いたい?」

「何をどれだけ注文するかはお前に任せるから、とにかくご飯ものは無しで、肉だけを食わせてくれ。あと、一番デカい容量の生ビールを頼む」

「了解」

 俺はそう言って、果たして今宵は何の肉のどこの部位を注文すべきか思案しながら、メニュー表との睨めっこを開始した。それにしても生ビールのサイズを『容量』と表現するあたり、隣に座る鷹央もまた俺と同じく、電子計算機コンピュータに精通したゲーム業界の人間である事を如実に物語っている。

「すいませーん」

「はい、ご注文はお決まりですか?」

「レバーとハラミとトロハツ、それにシマ腸とカルビとロースをそれぞれ二皿ずつ。それとシャキシャキキムチと酢モツを一皿ずつと、生ビールの男前ジョッキを二つ。以上でお願いします」

かしこまりました、それではロースターの火を点けちゃいますね?」

 そう言った女性スタッフがガスライターでもってロースターに火を点け、一旦厨房へと取って返すと、程無くして注文した肉やキムチが盛られたステンレス製の皿が生ビールのジョッキと共にカウンターの上に並べられた。

「それじゃあ、何だか良く分からないけど、とにかく乾杯!」

「乾杯!」

 ほぼ満席と言ってもよい程の賑わいを見せる焼肉屋の一角で、そう言った俺と鷹央の二人は互いのジョッキをかちんと打ち鳴らし、キンキンに冷やされた生ビールをごくごくと一気に飲み下す。

「ぷはぁっ!」

「美味い!」

 そう言って真夏の暑気に包まれながら飲む生ビールの美味さに感動しつつ、俺ら二人はステンレス製の皿に盛られた各種の生肉をトングで摘まんではロースターの上に並べ、焼き上がったそれらを先を争うように口に運ぶ事に余念が無い。

「ところで鷹央、最近、お前の会社の様子はどんな感じだ?」

 やがて一杯目の生ビールのジョッキが空になり掛けたところで、俺はそう言って鷹央に問い掛けた。

「ん? ああ、うん、まあまあそれなりに順調かな。去年発売されたばかりのPF5もそこそこ売れてるし、このまま行けば、少なくともPFグループ内のうちの子会社の今期の業績は増収増益が見込めると思うよ」

「そうか、そいつは羨ましい限りだね」

 俺がそう言えば、今度は鷹央が俺に問い返す。

「それじゃあ賢人、お前んとこの会社はどうなんだ? 確かこの前のE4で、遂に『クラースヌイ・ピスタリェート』の新作が発表されたばかりだろ?」

「ああ、その事なんだが……何と言うか……」

 鷹央の当然の疑問に対して、会社の現状を口外してはならないと言う箝口令が敷かれてしまっている俺はもごもごと言い淀み、どうにも正直に返答し辛い。しかしながら空きっ腹に流し込んだ生ビールに含まれるアルコールの効果も相まって、すっかり口が軽くなってしまった俺は、その箝口令をあっさり無視してしまう。

「実はな、うちの会社、今年度限りで倒産するんだ」

「は? え? 何それ? マジ?」

「これが困った事に、マジなんだよね。㈱コム・アインデジタルエンターテイメントは親会社の業績不振の煽りを受けて、経営計画を再編するとか言う名目でもって業務の大幅な整理縮小を断行し、赤字部門だった家庭用ゲームソフト事業から撤退する事を余儀無くされたんだとさ」

 俺が溜息交じりにそう言って会社の内情を吐露すれば、隣の席で生ビールを飲んでいた鷹央は驚きを隠せない。

「それで会社が倒産するんだとしたら、賢人、その後のお前の身の振り方は一体どうなるんだ?」

「そりゃあまあ、会社そのものが無くなっちまうんだから、俺もまたその他大勢のスタッフ達と一緒に解雇される事になるな。解雇されてからどうするべきかは、未だ決めてないよ」

「未だ決めてないって……お前は昔っから何かにつけてそんな調子で、本当に呑気な奴だからなあ。人並みに危機感を抱いている連中なら、とっくの昔に転職活動を開始しているぞ?」

「そうか?」

 俺の呑気さに呆れ返る鷹央を前にして、特にこれと言った感慨も抱かないままそう言った俺は、眼の前の男前ジョッキの底に残されていた生ビールの最後の一口をごくごくと飲み下した。そして焼肉屋の女性スタッフに二杯目の生ビールを注文し終えると、そんな俺に、鷹央がロースターの上で焼かれたレバーやハラミやトロハツを箸で摘まみながら提案する。

「なあ、賢人」

「ん?」

「お前、うちの会社に移籍しないか?」

「え?」

 鷹央の提案を耳にした俺はそう言って息を呑み、まるで馬鹿か白痴の様にぽかんと口を開けたまま、箸を持つ手を止めて驚いた。不覚と言うべきかそれとも迂闊とでも言うべきか、とにかく同業者である筈の彼の会社に移籍すると言う選択肢が存在する事を、今の今まで完全に失念してしまっていたからである。

「お前だって、うちの会社での俺の肩書は知ってるだろ?」

 そう言った鷹央は鞄の中から本革製の名刺入れを取り出すと、その中に納められていた彼の名刺の一枚をおもむろに俺に手渡した。手渡された名刺には『㈱PFエンターテイメント 製作第三部チーフディレクター 福嶋鷹央』との一連の文字列が、黒々とした立派な字体フォントでもって印字されている。

「その名刺にも書かれている通り、今の俺の肩書は、㈱PFエンターテイメントの製作第三部のチーフディレクターだ。それに子会社である㈱PFエンターテイメントだけでなく、親会社であるPF社の人事部にも顔が効く。だからお前一人を移籍させる事くらい、簡単に出来なくもないぞ?」

 鷹央は二杯目の生ビールを飲み下しながらそう言うが、俺は彼の提案にどうにも気乗りしない。

「お前がそう言ってくれるのは嬉しいが、これまで何年にも渡って苦楽を共にして来たスタッフ達を裏切るような格好でもって、俺一人だけが後顧の憂い無く悠々と移籍するって言うのもどうにも気が引けてな。どうせ他社に移籍するんだったら、いっそ『クラースヌイ・ピスタリェート』の開発チームが丸ごと移籍出来るような好都合な話があればいいんだがなあ」

「開発チーム丸ごとの移籍か……」

 彼の提案に対する俺の返答に、鷹央はそう言って言葉を失うと、腕を組んで顎に手を当てたまま考え込んでしまった。

「そうだよな、いくらお前があのPF社の子会社のチーフディレクター様だからと言ったって、そんな都合のいい話がある訳がないよな」

 俺がそう言って空笑いと共に溜息を漏らすと、難しい顔をしながら沈思黙考していた鷹央はゆっくりと口を開く。

「いや、もしかしたら、何とかなるかもしれないぞ?」

「え? マジで?」

 飲み掛けの生ビールを思わずぶっと噴き出すような勢いでもって、今度は俺が驚く番であった。

「今この段階では断言出来ないが、うちの子会社でコンシューマー向けの製作部署を新設しようって言う話を聞いた事があるから、もしかしたらそこのスタッフとしての中途採用の枠が確保出来るかもしれないからな。だから来週にでも上司と人事部に掛け合って、お前のチームの移籍をそれとなく打診してみよう」

「ああ、そうしてくれると助かる」

 そう言った俺は生ビールが注がれたジョッキを持ち上げ、鷹央との再びの乾杯を促す。

「それじゃあ少しばかり気が早いけど、移籍の成功を祈願して、乾杯!」

「乾杯!」

 すっかり酔いが回ってしまった俺と鷹央の二人はそう言いながら、互いのジョッキを改めてかちんと打ち鳴らし、都合二杯目のキンキンに冷やされた生ビールをごくごくと一気に飲み下して止まない。こう言った不測の事態が生じたまさかの時にこそ、頼りになる友人の存在が有り難いものである。

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