第一幕:virtual


 第一幕:virtual



 中央ヨーロッパに位置する連邦共和制国家であり、また同時に名目上こそ永世中立国を標榜する重武装中立国家でもある、スイス連邦。そんなスイス連邦最大の都市として知られるチューリッヒのビジネス街の中心部にそびえ立つ、とある国際的大企業の本社ビルの敷地内に、時計の針が深夜零時を指し示す今まさに一人の男が足を踏み入れようとしていた。

「こちらレオニード、これよりディ・ゾンネ重工業インダストリアル本社ビルへの潜入を開始する」

 都市型迷彩服に身を包んだその男、つまり『クラースヌイ・ピスタリェート』の特殊工作員であるレオニードがそう言って報告すれば、彼の耳に装着された極小の無線機越しに女性の声が応える。

「了解した。巡回中の警備員に発見されぬよう、慎重に事を運べ」

「了解」

 無線機の向こうの女性の声、つまり彼の上官であるミロスラーヴァ少佐の承諾を得たレオニードはそう言うと、監視カメラの死角に身を潜めながらディ・ゾンネ重工業インダストリアル本社ビルの地下駐車場の正面ゲート前へと移動した。そしてゲート前で出入りする車輛の搭乗者を逐一チェックしている警備員の眼を盗み、地下駐車場の内部へと足を踏み入れたレオニードは車輛の間を縫って場内を駆け抜け、やがて無人の非常階段へと辿り着く。

「こちらレオニード、予定通り非常階段に到着した。アガフォン、この先のビルの構造はどうなっている?」

「こちらアガフォン、どうやらここまでは順調な滑り出しのようだな、レオニード。それとそのまま非常階段を上り続ければ、一気に標的ターゲットであるサーバが在る53階の手前の50階まで、難無く移動出来る筈だ」

 ビルの構造を問うレオニードの疑問に、アガフォン、つまり『連邦』の軍部の特級秘匿部隊である『クラースヌイ・ピスタリェート』で後方からの支援任務にあたる技術将校の一人が、ぼりぼりとスナック菓子を貪り食う際の咀嚼音と共にそう言った。

「了解。それではガリーナ、キミはどう思う? この先、警備員の配置は?」

 精悍な顔立ちのレオニードが続けてそう言えば、ガリーナ、つまりアガフォンと同じく支援任務にあたる技術将校の一人が答える。

「ええ、そうね。今あなたが居る非常階段は警備が手薄だし、あなたが装備した動体センサーにも警備員の姿は感知されていませんから、アガフォンが言う通り50階までは難無く辿り着けるんじゃないかしら? だけどその先は、上の階まで移動してみないと分からなくってよ?」

「了解。それではミロスラーヴァ少佐、これより非常階段を50階まで移動する」

「了解した。慎重にな」

 そう言ったミロスラーヴァ少佐から承諾を得たレオニードは、随所に設置された監視カメラを警戒し、また同時に足音を殺しながら非常階段を駆け上がり始めた。ディ・ゾンネ重工業インダストリアル本社ビルに勤務するほぼ全ての社員が退社した深夜の時間帯とは言え、各種のセキュリティシステムは今尚稼働しており、武装した警備員がビル中を巡回しているのだから気は抜けない。

「こ、こちらヴァレンチナ、よよよ予定通り配置に就きました。い、いいい、い、いつでも援護出来ます」

 するとレオニードが非常階段を駆け上がっているその途上で、不意に無線機越しにそう言った女性の声が耳に届き、レオニードの援護にあたるヴァレンチナが配置に就いた事を報告した。

「了解。イエヴァ、そっちはどうだ?」

 ヴァレンチナの報告を耳にしたレオニードがそう言えば、今度はまた別の女性の声が耳に届く。

「……こちらも配置に就きました。敵対勢力の抵抗は認められず、退路は確保出来ています」

「了解。それではヴァレンチナもイエヴァも、二人とも作戦終了までの、俺の援護は任せたぞ」

 小鳥が囁くように小さな声であっても聞き取り易い音声に変換してくれる、極小でありながら高性能の無線機越しにそう言ったレオニードは、地下駐車場から続く非常階段を再び駆け上がり始めた。エレベーターを使わず階段だけでもって50階まで移動するのは結構な重労働だが、まさに文字通りの意味でもって死と隣り合わせの地獄の訓練を生き延びたレオニードの手に掛かれば、この程度の試練は朝飯前の準備運動にも値しない。そして非常階段を十階層分も駆け上がったところで、レンズ越しの人の視線を察知した彼は足を止める。

「監視カメラだ」

 そう言ったレオニードの言葉通り、非常階段には360度全方位が同時に見渡せる、高精度の監視カメラが設置されていた。当然の事ながら、潜入作戦を開始したばかりのこの段階で、監視カメラの向こうに居る筈の警備員達にこちらの姿を見咎められる訳には行かない。

「こちらレオニード。アガフォン、この監視カメラだが、お前のお得意のハッキングでどうにかならないか?」

 レオニードが監視カメラの死角である非常階段の物陰に身を潜めながらそう言えば、無線機の向こうのアガフォンは「任せとけ!」と言うなり司令部のハイエンド機種のデスクトップパソコンを手慣れた様子でもって操作し始め、ここが腕の見せ所とばかりにディ・ゾンネ重工業インダストリアル本社ビルのセキュリティシステムへのハッキングを試みる。

「ふむ、特にこれと言って特殊なオプションも施されていない、どこにでも有るような単純な監視カメラだな。こんなご時世だって言うのに、未だにAIによる画像解析も行われていない。これなら一度録画した画像を延々と無限ループさせるだけで、そこらの警備員程度なら充分に騙しおおせるだろう」

 そう言ったアガフォンは司令部のデスクトップパソコンを巧みに操作し続けると、やがてこれ見よがしに、太って浮腫むくんだ右手の中指でもって勢いよくエンターキーを叩いてみせた。するとレオニードが潜入したビル内の監視カメラのほぼ全てが録画された無人の画像をループ再生するだけの用を為さない鉄の箱へと変貌し、もうこれ以上、彼の行く手を阻む事は無い。

「よし、これで非常階段の監視カメラは無力化出来た筈だ。レオニード、もう先に進んでも大丈夫だぞ」

「ああ、助かったぞアガフォン、礼を言う」

 レオニードはそう言うと物陰から姿を現し、サプレッサーが装着されたカシン12自動拳銃を構えながら、再び非常階段を駆け上がり始めた。そして20階、30階、40階と言った新たな階層を次々に通過し続けると、やがて非常階段の行き止まりである地上50階へと辿り着く。

「こちらレオニード、無事50階まで辿り着いた。これより非常階段からオフィスの廊下へと侵入し、53階のサーバルームを目指す」

「了解した。監視カメラは無力化しているが、巡回中の警備員ばかりはハッキングする訳には行かない。発見されないよう、慎重に事を運べ」

「了解」

 極小の無線機越しのミロスラーヴァ少佐の警告に対してそう言って返答したレオニードは、非常階段から廊下へと続く鉄扉をそっと押し開け、小さな手鏡を使って廊下の様子を窺った。そして人の気配が無い事を確認すると、押し開けた鉄扉を潜って廊下へと足を踏み入れる。

「……」

 無言のまま周囲の様子をつぶさに窺いつつ、カシン12自動拳銃を構えて姿勢を低くしたレオニードは足音を殺しながら、照明が落とされた深夜のディ・ゾンネ重工業インダストリアル本社ビルの50階のオフィスの廊下を奥へ奥へと前進し続けた。そしてビル全体の構造から推測するに、どうやらこの階層は大小様々な会議室が所狭しと立ち並ぶ、幹部社員のための会議専門のフロアらしい。

「ガリーナ、このフロアの構造を教えてくれ」

 レオニードが無線機越しにそう言えば、彼を後方から支援すべきガリーナがそれに応える。

「そうね、あなたが装備した動体センサーが感知している情報によれば、今はその階層には警備員は一人も居ないんじゃないかしら? それとそのまま20mばかりも廊下を前進し続けると、やがて向かって右手の方角に、53階まで一気に移動出来るエレベーターが見えて来る筈よ?」

 そう言ったガリーナの解説を耳にしたレオニードは、端的に「了解」とだけ応答しながら薄暗い廊下を前進し続け、やがて彼女の言葉通り幹部用の直通エレベーターの前まで辿り着いた。

「こちらレオニード、これよりエレベーターで、標的ターゲットであるサーバが在る筈の53階まで上昇する」

 無線機越しにそう言ったレオニードが周囲を警戒しながら無人のエレベーターに乗り込み、53階の行き先ボタンを押すと、自動ドアが閉まったエレベーターの籠はゆっくりと上昇し始める。

「ようレオニード、このまま上手く行けば、今回の作戦は楽勝だな!」

 楽観主義者らしいアガフォンは無線機越しに、スナック菓子をぼりぼりと貪り食いながらそう言うが、上昇し続けるエレベーターの中のレオニードはそれに同意しない。

「いや、むしろ、ここまで上手く行っている事が却って不安なくらいだ。もしかしたらこれは、俺達を誘い出すための罠なのかもしれない」

「お前は慎重だなあ、レオニードよ!」

 無線機の向こうのアガフォンが笑いながらそう言って呆れ返った次の瞬間、ディ・ゾンネ重工業インダストリアル本社ビルの53階に到着したエレベーターが静かにその動きを止め、その籠と外界とを隔てる自動ドアがゆっくりと開き始めた。すると開いた自動ドアの眼の前に、短機関銃サブマシンガンで武装した警備員の一人が立っているのが眼に留まる。

「誰だ、貴様!」

 エレベーターに乗ったレオニードと至近距離で鉢合わせする格好になった警備員はそう言って、手にした短機関銃サブマシンガンを素早く構え直した。

「動くな! 銃を捨てろ!」

 警備員はそう言って警告しながら短機関銃サブマシンガンの照準をレオニードの急所に合わせようと試みるが、一介の警備員に過ぎない彼が銃口を向けるよりも、『クラースヌイ・ピスタリェート』の特殊工作員であるレオニードがエレベーターの籠の床を蹴って跳躍する方が早い。

「ふんっ!」

 気合いを込めた掛け声と共に、警備員に素早く密着したレオニードは、彼が手にした短機関銃サブマシンガン弾倉マガジンをリリースボタンを押して抜き取った。そして間髪を容れずボルトハンドルを引いて薬室チャンバー内の銃弾もまた抜き取ってしまえば、もはや短機関銃サブマシンガンであった筈のそれも只の短い鉄パイプである。

「糞!」

 手にした短機関銃サブマシンガンが無力化されてしまった事に対して悪態を吐く警備員を、レオニードは日本の武術の合気道に於ける小手返しの要領でもって投げ放ったかと思えば、そのままオフィスの床に素早く組み伏せた。そして体を入れ替えながら背後に回り込んだ彼は眼の前の獲物の首に腕を回し、そのままいとも容易たやすく締め落としてしまえば、意識を失った警備員は口角からぶくぶくと真っ白いあぶくを噴いたままぴくりとも動かない。

「どうしたレオニード、何があった?」

「こちらレオニード、どうやら不味い事に、エレベーターの扉の前で待ち構えていた警備員の一人に発見されてしまった。警報を鳴らされる前に無力化したものの、早急に作戦を完遂しなければ、潜入が発覚するのも時間の問題だろう」

 レオニードが冷静さを維持しながらそう言えば、無線機の向こうのミロスラーヴァ少佐もまた冷静に指示を下す。

「そうか、了解した。それではレオニード、今すぐサーバルームに侵入し、ディ・ゾンネ重工業インダストリアルが『共和国』に向けて輸出しようとしている最新兵器の部品のデータを奪取しろ。サーバルームは外部とは完全に遮断されたオフラインが維持されているので、こちらからのオンラインでのハッキングは不可能だ。だからお前だけが頼りだぞ、レオニード」

「了解。作戦の遂行を急ぐ」

 そう言ったレオニードは、気を失った警備員の力無く横たわる身体をその場に残したまま、照明が落とされた薄暗い廊下をカシン12自動拳銃を構えながら前進し続けた。すると程無くして、フロアの中央に、四方を頑丈な壁に囲まれたサーバルームの外郭がその姿を現す。そして当然の事ながら、サーバルームの唯一の出入り口である分厚い鉄扉は最新鋭の電子ロックでもって厳重に施錠されており、そうそう簡単に開ける事は出来ない。

「レオニード、俺が用意したアプリを使え。それなら電子ロックの暗号を逆算し、これを解除する事が出来る筈だ」

 無線機越しにそう言ったアガフォンの指示に従い、都市型迷彩服のポケットから支給品であるスマートフォンを取り出したレオニードは、サーバルームの鉄扉の脇の電子ロックのカードリーダーにそれを接続した。そしてハッキングの天才として知られるアガフォン謹製のアプリを起動させてから数分後、暗号を逆算された電子ロックは「ピッ」と小さな電子音を奏でながら緑色のランプを点灯させ、難無く解除される。

「こちらレオニード、これよりサーバルームに侵入する」

 レオニードはそう言いながら鉄扉を押し開け、やがてディ・ゾンネ重工業インダストリアル本社ビルの53階のサーバルームへと侵入した。侵入したサーバルームは窓一つ存在せず、その上照明が落とされていて真っ暗で、過熱するサーバを冷やすために空調が点けっぱなしなので外気温に比べて随分とうすら寒い。

「こちらレオニード、これからどうすればいい?」

 サーバルームの照明を点けたレオニードがそう言って問い掛ければ、無線機の向こうのミロスラーヴァ少佐が重ねて指示を下す。

「そのままサーバルームの奥へと進み、側面に『182a』と書かれたラックを探せ。そしてそのラックの中に収まっている筈のストレージにお前のスマートフォンを接続すれば、後はこちらに居るアガフォンが遠隔操作でもってデータを吸い出してくれる」

「了解」

 そう言ったレオニードはミロスラーヴァ少佐の指示に従い、照明が灯された広範なサーバルーム内を奥へ奥へと侵入し続けた。そして彼女の言葉通り側面に『182a』と書かれたラックを発見すると、そのラック内に収められていた大容量のストレージに、やはり支給品であるスマートフォンを接続する。

「よしよし、接続したな? それじゃあレオニード、そのままちょっとばかり待っててくれよ?」

 アガフォンはスナック菓子をぼりぼりと貪り食いながら無線機越しにそう言うと、外部から遮断されたディ・ゾンネ重工業インダストリアルの機密サーバのストレージからデータを奪取すべく、レオニードが手にしたスマートフォンを遠隔操作し始めた。

「未だか、アガフォン? 早くしてくれ」

「おいおい、レオニードよ、そう焦るなってば。もうちょっと、もうちょっとで目当てのデータが見つかる筈だから……よし、これだ! そのディ・ゾンネ重工業インダストリアルとか言う糞企業が『共和国』に向けて輸出しようとしている最新兵器の部品のデータは、これで間違い無いぞ!」

「でかしたぞ、アガフォン。さっそくそのデータをスマートフォンのストレージにコピーし、レオニードを急ぎ帰還させろ」

 ミロスラーヴァ少佐がそう言って命じれば、やはりスナック菓子をぼりぼりと貪り食いながら「了解!」と言ったアガフォンはデスクトップパソコンを操作し、レオニードが手にしたスマートフォンにサーバのデータをコピーし始める。

「良し、これで全データのコピー完了っと! レオニード、もうそこから退避しても構わないぞ! 早く戻って来い!」

「了解。これより帰投する」

 アガフォンが機密サーバに保存されていた最新兵器のデータをコピーし終えた事を確認したレオニードはそう言って、ストレージから外したスマートフォンを都市型迷彩服のポケットに仕舞い直すと、うすら寒いサーバルームから退避すべく鉄扉の方角へと足を向けた。

「あら? これってもしかしてもしかすると、ちょっと不味い事になっちゃったんじゃないかしら?」

 するとその時、司令部に居るガリーナが不意にそう言うと、ディ・ゾンネ重工業インダストリアル本社ビルに潜入中のレオニードに警告する。

「ねえレオニード、どうやらあなたの潜入が露見して、ビル内の警報が鳴っているみたいよ? だから一刻も早くその場から退避しないと、警備員や警察が沢山押し掛けて来ちゃうんじゃないかしら?」

 まるで他人事の様にそう言ったガリーナの言葉に、現場のレオニードも司令部のミロスラーヴァ少佐やアガフォンらも我が眼と我が耳を疑い、驚きを隠せない。

「何だと?」

「どう言う事だ、アガフォン?」

「そうか、糞! しまった! そう言う事か! その機密サーバには、セキュリティシステムの解除コード無しにデータをダウンロードすると、警報が鳴るトラップが仕掛けられていたんだ!」

「何だって?」

 遅蒔きながらもトラップの存在を看破したアガフォンの言葉にミロスラーヴァ少佐はそう言って驚くが、百戦錬磨の特殊工作員であるレオニードは瞬時に状況を理解し、努めて冷静であろうと尽力する。

「こちらレオニード、状況は理解した。それではこれより、可能な限り戦闘は回避しつつも、敵対勢力を排除しながらの退避行動へと移行する。ヴァレンチナ、イエヴァ、援護を頼むぞ」

「りょ、了解!」

「……了解」

 無線機越しにヴァレンチナとイエヴァの女二人がそう言って彼の要請を了承すると、レオニードは分厚く頑丈な鉄扉を引き開け、うすら寒いサーバルームからオフィスの廊下へと移動した。そして彼がエレベーターの前まで辿り着いたところで、そのエレベーターの籠が53階へと到着して自動ドアが開いたかと思えば、短機関銃サブマシンガンで武装した三名の警備員達が姿を現す。

「動くな! 銃を捨てろ!」

「その場にひざまずき、両手を頭の後ろで組むんだ!」

「早くしろ! 撃つぞ!」

 武装した三名の警備員達は口々にそう言って警告しながら、手にした短機関銃サブマシンガンの銃口をレオニードの急所、つまり心臓が在る胸や脳髄が在る頭部の眉間に向けた。こうなってしまっては、まさに多勢に無勢とも言える状況に立たされたレオニードが断然不利である。

「どうした! 早く銃を捨てるんだ!」

 すると先頭に立つ警備員の一人がそう言って短機関銃サブマシンガンを突き出した次の瞬間、エレベーターから程近い窓ガラスに直径7.62㎜の穴が穿たれたかと思えば、その警備員の頭部が一瞬にして弾け飛んだ。

「!」

 突然の事態にその場に居合わせた全員が呆気に取られはしたものの、所詮は素人に毛が生えた程度の練度でしかない警備員達とは違って、この千載一遇の好機を逃すレオニードではない。彼は一瞬にして状況を理解し、手にしたカシン12自動拳銃の銃口を残り二人の警備員達に向け、素早く四回連続して引き金を引き絞った。すると次の瞬間には眉間と胸に一発ずつの銃弾を喰らった二人の警備員達は真っ赤な血飛沫と共に絶命し、まるで糸が切れた操り人形の様にその場にどうと倒れ伏す。

「だ、大丈夫、レレレレオニード?」

「ああ、助かったぞ、ヴァレンチナ。見事な援護であり、見事な狙撃だ」

 三人の警備員達が絶命しているのを確認しながらそう言ったレオニードの言葉通り、先頭に立っていた警備員の頭部を狙撃でもって破壊せしめたのは、ディ・ゾンネ重工業インダストリアル本社ビルの向かいのビルで配置に就いたヴァレンチナであった。長距離射撃を得意とする彼女の手腕に掛かれば、ビルとビルがどれだけ離れていようとも、たった一発の銃弾でもって急所を捉える事など造作も無い。

「こちらレオニード、アガフォン、警報は未だ鳴っているか?」

「ああ、53階に居るお前には聞こえていないだろうが、階下のセキュリティエリアでは未だ未だ盛大に鳴り響き続けているよ。だからイエヴァが50階まで移動し、お前の援護に従事する予定だ」

「了解」

 アガフォンの報告に対してそう言ったレオニードはエレベーターに乗り込むと、50階の行き先ボタンを押した。そして順調に下降したエレベーターの籠がやがて50階へと辿り着き、眼の前の自動ドアがゆっくりと開いたかと思えば、そこにはおよそ十人ばかりの警備員達の死体がごろごろと転がっているのが眼に留まる。

「……遅かったじゃない」

 まさに死屍累々とでも言わんばかりに転がる警備員達の血まみれの死体の山の中心に立ちながら、愛銃であるヴォルク08K、つまりストックを折り畳み式にして銃身を切り詰めた口径7.62㎜の自動小銃アサルトライフルを手にしたイエヴァが事も無げにそう言った。どうやら彼女はレオニードを援護するついでに、ここディ・ゾンネ重工業インダストリアル本社ビルの50階のエレベーター前で、彼を待ち構えていた警備員達を文字通りの意味でもって鏖殺の憂き目に遭わせていたらしい。

「助かったぞイエヴァ、礼を言う。さあ、俺もお前も一刻も早くこのビルから退避し、司令部に帰投するんだ」

 新人隊員であるイエヴァの活躍ぶりに少しばかり驚きつつも、努めて冷静を装いながらそう言ったレオニードは、薄暗い廊下の先の非常階段の方角へと足を向けた。そしてヴォルク08K自動小銃アサルトライフルを手にしたイエヴァと共に非常階段を駆け下りれば、やがて彼ら二人は来た道を引き返すような格好でもって、侵入経路として利用した地下駐車場へと辿り着く。

「良し、イエヴァ、お前は今すぐにでも、駐車場から逃走用の車輛を調達して来い。俺はその間に、正面ゲート前に居る筈の警備員を無力化して来るから、五分後にゲート前で落ち合おう」

「……了解」

 そう言ったイエヴァは彼女の先輩隊員であるレオニードと離別すると同時に、命じられた通り逃走用の車輛を調達すべく、地下駐車場の暗がりの中へとその姿を消した。そしてレオニードは物陰から物陰へと姿勢を低くして足音を殺しながら移動し、やがて正面ゲートを視界に捉えると、その正面ゲート前で警備の任に就いていた警備員に背後からそっと忍び寄る。

「!」

 レオニードは素早く、そして的確に、一瞬も躊躇しないまま警備員の首をその腕でもって締め上げた。日々の鍛錬によって鍛え上げられた筋骨隆々とした腕が油断していた警備員の首に深々とめり込み、そのままぎりぎりと締め上げ続ければ、やがて白眼を剥いて口角からぶくぶくとあぶくを噴きながら警備員は意識を失う。

「ふう」

 意識を失った警備員の力無く横たわる身体を抱えてずるずると引き摺りながら、目立たないように地下駐車場の壁沿いまで移動させると、ちょうどそこにイエヴァが運転する一台のSUV車が姿を現した。

「……乗って」

 運転席でハンドルを握るイエヴァがそう言ったので、レオニードは警備員の詰所に設置された開閉ボタンを押して地下駐車場の正面ゲートを開けてから、SUV車の助手席に乗り込んでシートベルトを締める。

「……このまま真っ直ぐ空港に向かうの?」

「いや、その前にヴァレンチナを回収する。向かいのビルの裏手まで移動し、彼女の到着を待つぞ」

「……了解」

 そう言ったイエヴァはアクセルペダルを踏み込み、正面ゲートを潜って彼女とレオニードを乗せたSUV車を地下駐車場から発進させると、ディ・ゾンネ重工業インダストリアル本社ビルの敷地内から悠々と走り去った。そしておよそ100mばかりも移動して向かいのビルの裏口にあたる従業員用出入口前で待ち続ければ、やがてヴォルク08S、つまり狙撃用に銃身とストックを伸長した自動小銃アサルトライフルを手にしたヴァレンチナが姿を現す。

「ヴァレンチナ、無事か?」

「あ、あたしなら大丈夫。けけけ警備員にも発見されていないし、お、追手も居ない筈だから」

 遅れて合流したヴァレンチナがそう言いながら後部座席に乗り込むと、彼女とレオニード、それにイエヴァの三人を乗せたSUV車は改めて発進し、宵闇に包まれた深夜のチューリッヒのオフィス街を後にした。次第次第に遠ざかりつつあるディ・ゾンネ重工業インダストリアル本社ビルの方角から、今更になって到着したらしい警察車輛のサイレンの音が鳴り響き、一仕事終えたレオニードら『クラースヌイ・ピスタリェート』の特殊工作員達の耳に届く。

 そうこうしている内に、やがてチューリッヒ空港から民間の国際線に乗ってスイス連邦を発ち、彼らの祖国である『連邦』の領土内へと無事帰国したレオニードら三人は、子供向け商品の百貨店『子供の世界』の隣に建つ『クラースヌイ・ピスタリェート』の司令部へと帰還した。

「レオニード、帰還しました!」

「ヴァ、ヴァレンチナ、ききき帰還しました!」

「……イエヴァ、帰還しました」

 司令部へと帰還したレオニードにヴァレンチナ、それにイエヴァの計三人が軍隊式の敬礼と共に三種三様の口調でもってそう言えば、三人の直属の上官であるミロスラーヴァ少佐が彼らを出迎える。

「三人とも、ご苦労だった。途中、多少のアクシデントに見舞われはしたものの、概ね作戦は成功したものと言っても過言ではないだろう。これでレオニードが持ち帰ってくれたデータによって『共和国』が開発せんとする最新兵器の詳細が判明すれば、言う事もあるまい」

 女丈夫として知られるミロスラーヴァ少佐の労いの言葉に、レオニードが彼ら三人を代表しつつ、再びの敬礼と共に「ありがとうございます、少佐殿!」と言って感謝の言葉を口にした。

「やったなレオニード、お手柄じゃないか!」

 すると司令部の自分のデスクに腰を下ろしていた肥満体のアガフォンがおもむろに立ち上がり、そう言いながらレオニードの肩を馴れ馴れしく抱き寄せ、彼もまた今回の作戦の立役者を労って止まない。

「ええ、そうね? 素晴らしい活躍だったんじゃないかしら?」

 アガフォンに続いてそう言ってレオニードを労ったのは、この司令部から彼らを支援する任に就くガリーナである。

「アガフォンもガリーナも、お前達の方こそ、よく働いてくれた。お前達の様な頼りになる仲間が的確に支援してくれたからこそ、今回の作戦が完遂出来たと言っても過言ではないだろう」

 当然の事ながらレオニードもまたそう言って共に戦った同僚達を労い、決して功績を独占する事無く、彼ら『連邦』の軍部の特級秘匿部隊である『クラースヌイ・ピスタリェート』のチームとしての団結と連帯の維持に貢献するのであった。

「総員、傾注!」

 その時不意に、司令部と廊下とを繋ぐ自動扉が開いたかと思えば一人の若い隊員が入室するなりそう言ったので、レオニードも含めたその場に居合わせた全員が反射的に背筋を伸ばして姿勢を正す。

「これより、スタニスラフ大佐からの有り難い訓示が行われる! 総員、心して聞くように!」

 果たして大声でもってそう言った若い隊員は、この司令部の名目上の最高責任者を務めるスタニスラフ大佐の御付きの副官であり、彼の背後には仰々しい勲章や記章がずらりと胸に並ぶ軍服に身を包んだスタニスラフ大佐その人が立っていた。

「皆、その場で楽にしたまえ」

 スタニスラフ大佐はそう言うが、レオニードらは決して姿勢を崩さない。

「今日はキミ達に、誠に心苦しい事ではあるものの、重大な事実を伝えるために私はここまで足を運んだ」

 そう言ったスタニスラフ大佐は、一旦咳払いをして喉の調子を確かめて痰を飲み込んでから、改めて口を開く。

「東西冷戦が終結してからおよそ三十年ばかりの年月が経過し、我らが『連邦』がかつての国是でもあったマルクス・レーニン主義を捨てて市場経済を導入すると同時に、近年では『合衆国』や『連合王国』を中心とした西側諸国との融和ムードの勃興もまた顕著である。そんな国際情勢の只中で、遂に『連邦』の軍部も大胆な予算と人員の削減、つまり事実上の軍縮を余儀無くされる日がやって来た」

 軍服姿のスタニスラフ大佐がそう言えば、その場に居合わせたレオニードらはざわざわと色めき立ち、互いの顔と顔を見合さざるを得ない。

「そう言った諸々の政治的にも軍事的にも複雑な事情から鑑みた結果、早晩『クラースヌイ・ピスタリェート』は解散し、この司令部もまた閉鎖される事が上層部の意向により決定された。隊員であるキミ達の処遇は今もって確定してはいないものの、今回の軍縮が陸海空の全ての部隊に影響を及ぼす事からすると、再編後の軍部に残れる可能性は極めて低いものと覚悟していてほしい。それと言うまでも無い事だが、この件は機密事項に該当するので、同じ軍部内でも他言しないように。もし仮に情報を漏らした者は、軍法会議に掛けられる事をお忘れなく。以上だ」

 まるで隊員を恫喝するかのような表情と口調でもってそう言ったスタニスラフ大佐の姿に、解散を宣告される格好になった隊員達は落胆し、不信感と猜疑心に満ち満ちた眼差しを彼に向けるのだった。

「おいレオニード、なんだか大変な事になっちまったぞ?」

「ああ、これは大変な事態だ」

 レオニードはそう言って、ごくりと固唾を飲む。

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