第一幕:real


 第一幕:real



 今朝もまた、枕元に置いたスマートフォンが奏でる電子的なアラーム音によって覚醒させられるような格好でもって、俺はゆっくりと眼を覚ました。

「ふあああ……ぁぁぁ……」

 俺は大口を開けて盛大なあくびを漏らしながら半身を起こし、まるで大きな芋虫の様にのそのそとベッドから這い出して板敷きの床に降り立つと、何はともあれバスルームの方角へと足を向ける。

「ふう」

 そして就寝している内に膀胱に溜まった尿を便器に向けてじょぼじょぼと排出したかと思えば、俺は洗面台で顔を洗い終え、洗いたてのフェイスタオルでもってごしごしと水滴を拭い取りながらようやく一息吐く事が出来た。また洗顔ついでに洗面台の正面に設置された鏡に映る自分の顔を確認すると、トレードマークでもある無精髭がそこそこ伸びてしまっているものの、未だ未だ剃り落とすほどの長さではないので今日のところは無視する事とする。

「今日は……水曜日か」

 やがてパジャマ姿の俺はワンルームマンションのキッチンと寝室を兼ねた居室へと取って返し、机の上に置かれた卓上カレンダーでもって今日の日付と曜日を改めて確認してから、やはり居室の片隅に設置された冷蔵庫を開けてチョコレート味のカロリーメイトと麦茶のペットボトルを取り出した。そしてもそもそと噛み砕いて粉末状になったカロリーメイトを麦茶でもって胃袋に流し込むと、如何にも都会暮らしの若い独身男性らしい簡素な朝食を、満喫するともなしに満喫する。

昨夜ゆうべはE4のカンファレンスの動画配信で、うっかり夜更かししちまったからな」

 独り言つようにそう言った俺はネット通販で買った安物のパジャマから外出着へと着替え終え、デニムジーンズの尻ポケットに財布と定期入れを仕舞ってからセルフレームの眼鏡を掛け直し、やはりネット通販で買ったショルダーバッグを背負って出勤の準備を終えた。

「行ってきます」

 誰に言うでもなくそう言った俺はワンルームマンションの自宅を後にすると、エレベーターに乗って一階へと移動してから無人のエントランスを経由し、早朝の浅草の街へと足を踏み入れる。初夏の爽やかな空気と燦々さんさんと照り付ける陽射しの程良い暖かさが、なんとも言えず心地良い。

「さて、と」

 やはり独り言つようにそう言った俺は気を取り直し、昭和初期までは日本一の歓楽街であった東京都台東区の浅草の街の一角に建つワンルームマンションから見て西の方角、つまり東京メトロ日比谷線の入谷駅の方角へと足を向けた。そして言問い通りを歩き続けること十数分後、第一の目的地である入谷駅へと辿り着いた俺はちょうどプラットフォームに滑り込んで来た車輛に乗り込み、今度は第二の目的地である東京メトロ日比谷線の秋葉原駅を目指す。

「間も無く、秋葉原です。出口は、左側です」

 そう言った車内アナウンスに促されながら秋葉原駅で降車した俺は、車内を埋め尽くす数多の乗客達に混じって自動改札を通過してからエスカレーターを駆け上がり、遂に秋葉原の街の中心部へと足を踏み入れた。そして駅前にそびえ立つヨドバシカメラマルチメディアAkibaの前を素通りし、JR山手線の高架橋の下を通過すると、やがて最終目的地である秋葉原UDXのビルディングの前へと辿り着く。

「お疲れ様です」

 俺は軽い会釈と共にそう言って、ビルディングの正面玄関前に立つ守衛の中年男性と挨拶を交わし合いながら、レストランやシアターが併設された複合施設である秋葉原UDXの敷地内へと足を踏み入れた。そしてエレベーターに乗って地上24階へと移動すると、壁面に『㈱コム・アインデジタルエンターテイメント』と言う社名とロゴが掲げられた廊下を渡り切った先のオフィスにも足を踏み入れ、俺がデザイナーとして勤務する企業の自分のデスクに腰を下ろす。

「さて、勤怠勤怠っと」

 腰を下ろした俺はそう言いながら支給品のノートパソコンを起動させ、出退勤の管理システムから出勤の打刻を終えると、昨日の退勤後に届いた社内メールの有無とその内容を確認した。

「ふうん」

 会社の公式サイトが更新されましただとかアンチウイルスソフトのウイルス定義ファイルを更新してくださいだとか言った定時連絡のメールは届いていたが、それ以外に、特にこれと言って重要な社内メールは届いていない。

「ようケンケン、今日もおはようさん」

「ああ、寛治か。おはよう」

 俺はそう言って、俺のすぐ後ろのデスクに腰を下ろす同僚の男性スタッフの一人、つまりぶくぶくに太ってニット帽を被った中年男性である小林寛治こばやしかんじと朝の挨拶を交わし合った。ちなみに彼が言うところの『ケンケン』とは、この俺、つまり犬塚賢人いぬづかけんとのニックネームの一つである。

「ところでケンケン、昨日のE4のうちのPVだけど、もう観たか?」

「ああ、配信で全部見たよ。それに他の会社の動画も片っ端から観て回ってたから、おかげで寝不足さ」

 俺はそう言って寛治の問い掛けに答えながら、はははと声を上げて笑った。そしてそんな寛治の言葉通り、昨日からアメリカ合衆国のロサンゼルスで開催され始めたE4、つまりEspecial Electronic Entertainment Expoに於いて俺らが開発している最新作のプロモーションビデオ《PV》が公開されたのである。

「だったらさ、今から向こうのコミュニケーションゾーンの大型スクリーンでそのPVを上映するらしいから、一緒に観に行かないか?」

「ああ、そうだな」

 寛治に誘われた俺はそう言って席を立つと、何故かスナック菓子の袋と甘い炭酸飲料のペットボトルを持った彼と共に、社内ではコミュニケーションゾーンと呼ばれる会議や会食が出来るオフィスの一角へと移動した。移動してみればテーブルや椅子が並べられたコミュニケーションゾーンには既に多くの開発スタッフ達が集合しており、まさに足の踏み場も無い黒山の人だかりとはこの事である。

「やあ、柴さんも小菅さんも、おはよう」

 コミュニケーションゾーンに足を踏み入れた俺はそう言って、俺と寛治に先んじて集合していた二人の女性スタッフ達に向けて朝の挨拶の言葉を口にした。

「あ、ケケケケンケンさん、お、おは、おはようございます」

「……おはようございます」

 すると少しばかりカールしたショートボブの髪の柴小春しばこはると、小柄で痩せぎすの小菅千里こすげちさともまたそう言って、彼女ら二人の職場での先輩にあたる俺と挨拶の言葉を交わし合う。

「二人はもう、うちのPVは観たのかな?」

「いえ、あ、あた、あたしは未だ観てないんですよ。ち、千里ちゃんは、ももももう観たんだっけ?」

「……あたしも未だ観てません」

 そう言った二人の女性陣の言葉から察するに、どうやらプログラマーである柴と新人デザイナーである小菅は、自分達が開発しているゲームの最新PVを未だ視聴してはいないらしい。

「よし、そろそろ皆集まったな?」

 やがて出社している開発スタッフ達のほぼ全員がコミュニケーションゾーンに集合したところで、その壁面に設置された大型スクリーンの傍らに一人の長身の女性スタッフが歩み寄り、スピーカーと繋がったマイクを手にしながらそう言った。彼女の長い髪はド派手な金色に染められており、その肌は不自然に日に焼けていて、まるで一昔前に流行った渋谷のギャルの様な風貌である。

「それではこれより、昨日からロサンゼルスで始まったE4で公開された『クラースヌイ・ピスタリェート』の最新作のPVを、改めて上映したいと思う。スタッフによっては特に目新しい映像ではないかもしれないし、もしくは初めて観るような映像があるかもしれない。しかしながらこのPVを観る事によって自分達が一体何を作っているのか、またユーザーから何を期待されているのかを再確認してくれれば幸いである」

 長身でギャル風の容姿の女性スタッフ、つまりこのチームのアートディレクターを務める鍛治屋敷静香かじやしきしずかはそう言ってマイクを置くと、大型スクリーンと繋がったノートパソコンの液晶画面上の再生ボタンをクリックした。

「お、始まった」

 小声でもって呟くようにそう言ったスタッフ達の耳目を集めながら、鍛治屋敷の言葉通り、俺らが開発する『クラースヌイ・ピスタリェート』のPVが上映され始める。

「││今ここに、新たな戦いの幕が切って落とされる││」

 すると㈱コム・アインデジタルエンターテイメントの代表作の一つとして知られる『クラースヌイ・ピスタリェート』、つまり祖国に忠誠を誓った特級秘匿部隊の隊員達の戦いを描いた戦場体験型TPSの主人公であるレオニードを演じる男性声優が、如何にもプロらしい耳障りの良い声でもってナレーションの言葉を口にした。そしてそのナレーションを皮切りに、コミュニケーションゾーンの大型スクリーンには、広く世界中のユーザーから注目されるこのゲームの見所が次々に映し出される。

「││来春発売予定 刮目して待て││」

 やがておよそ五分間ばかりのPVは、やはりそう言って、主人公であるレオニードを演じる男性声優のナレーションでもって締め括られた。

「よし、以上だ」

 すると鍛治屋敷がそう言ってノートパソコンの液晶画面を再びクリックし、ほんの数時間前に世界に向けて公開されたPVの上映を終える。

「さあ皆、今のPVをよく観ていたな? 今回このPVでもって『クラースヌイ・ピスタリェート』の最新作は来春発売だと公に宣言してしまった以上、その予定を後ろ倒しする事は出来ないものと思え。だから今ここに居る全員が一致団結し、決して手を休める事無く、スケジュール通りに開発を進めて行ってほしい。以上、解散! 各自の仕事に戻ってくれ!」

 女性でありながらはきはきとした気風きっぷの良い表情と口調でもって鍛治屋敷がそう言えば、コミュニケーションゾーンに集合していた俺ら開発スタッフ達は解散し、それぞれのデスクへと足を向けるのだった。

「一致団結して手を休めるな、だってよ」

 背の高いパーティションに囲まれた自分のデスクに改めて腰を下ろすと、すぐ後ろのデスクの寛治がぼりぼりとスナック菓子を貪り食いながらそう言ってほくそ笑んだので、俺はそんな彼に応える。

「ああ、そうだな。もう五年も開発を続けていたソフトの発売日がとうとう公表された事だし、鍛治屋敷さんも気合いが入ってるんだろうよ」

「気合いが入ってるんだろうねえ……あんまり張り切り過ぎて、却って失敗しなきゃいいけどさ」

 まるで上司である鍛治屋敷を揶揄するかのような口ぶりでもってそう言った寛治と俺は一旦会話を中断し、各自のデスクに向き直ると、ハイエンドのグラフィックボードとメモリを増設したデスクトップパソコンと液晶タブレットの電源を入れた。そしてOSに続いてAdobe PhotoshopとMayaを起動してから、今日もまたデザイナーとしての業務に邁進し始める。

「……」

 俺は暫し無言のまま、意識を集中させながらマウスとタブレットペンを操り続けた。そしてそんな俺の業務内容は、ゲーム中に登場する各種キャラクターのデザインにメカデザイン、それにプロップデザインと多岐に渡る。

「ふう」

 やがて作業が一段落した俺は溜息交じりにタブレットペンを置くと、ワーキングチェアから腰を上げ、廊下に設置された自動販売機で何か飲み物を買うべくオフィスの出入り口の方角へと足を向けた。

「おうケンケン、お前も休憩か?」

 廊下に出てみれば自動販売機の前に寛治が立っており、そのぶくぶくに太った身体を揺らしながら人工甘味料たっぷりの炭酸飲料をごくごくと飲み下していたので、俺はそんな彼の健康状態に一抹の不安を覚えざるを得ない。

「またそんな甘いもんばっかり飲んでると、今年の健康診断でも産業医から余命宣告され掛けるぞ? まったくただでさえ糖尿病と通風と慢性的な尿管結石で苦しんでるって言うのに、それでも一向に節制しようとしないお前の図太い神経が、繊細な俺には信じられないよ」

 俺がそう言えば、寛治は炭酸飲料を飲む手を止めぬままにやりとほくそ笑む。

「ふん、そんな弱者の理論なんて関係無いね、健康診断なんて糞喰らえさ。俺はこのまま好きなもんを好きなだけ飲み食いして、人生に一片の悔いも無いまま早死にしてみせるのさ」

「はいはい、それはまた、至極立派な人生設計ですこと」

 寛治の言い分に呆れ返りつつもそう言った俺は自動販売機で無糖の紅茶を購入し、全く甘くないそれをごくごくと飲み下しつつ、廊下を渡った先のオフィスの自分のデスクへと帰還した。そして液晶タブレットに向き合いながら作業を進めている内に、やがて壁掛け時計に内蔵されたチャイムが鳴って、待ちに待った昼休みの時間が到来する。

「さて、飯だ飯だ」

 やはり独り言つようにそう言った俺はおもむろに席を立ち、オフィスの出入り口から再び廊下に出ると、満員のエレベーターに乗って一階へと移動した。そして秋葉原UDXを後にしてから南の方角へと暫し歩いた後に、やがて『エチオピアカリーキッチンアトレ秋葉原1店』へと辿り着く。

「いらっしゃいませ、お好きな席にどうぞ」

 そこそこ混み合った店内でそう言ったウェイトレスに促されつつも、俺は特に迷う事無く、カウンター席の一つにどっかと腰を下ろした。実を言うと昨日の夜からずっとここのカレーが食いたくて食いたくてどうにも堪らなかったので、こうしてすんなりと入店、および着席出来た事はまさに僥倖である。そしてメニューと睨めっこしながらチキンカリーを食べるべきかポークカリーを食べるべきか悩んでいると、不意に見知った顔の、長身でギャル風の容姿の女性が店内へと姿を現した。

「おやおや、誰かと思ったらワンコくんじゃないの」

「あれ? 鍛治屋敷さんじゃないですか」

 果たして俺を『ワンコくん』と呼びながら姿を現した長身で渋谷のギャル風の容姿の女性は、アートディレクターとして俺の直属の上司を務める鍛治屋敷静香その人であり、どうやら彼女もまたこの店にカレーを食いに来たらしい。ちなみに『ワンコくん』と言うのは彼女だけが呼称する、この俺、つまり犬塚賢人のもう一つのニックネームである。

「珍しい事もあるもんだな、キミとこんな所で会うなんてさ。あ、あたしはエビカリー」

「そうですね、あ、俺はポークカリーのライス大盛りで」

 カウンター席に並んで腰を下ろした鍛治屋敷と俺がそう言って注文を終えると、やがて五分と経たない内に、出来たて熱々のエビカリーとポークカリーが俺ら二人の前に配膳された。

「いただきます」

 そう言って大好物のポークカリーをむしゃむしゃと頬張り始めた俺に、隣の席に腰を下ろした鍛治屋敷が、やはり俺と同じようにむしゃむしゃとエビカリーを頬張りながら問い掛ける。

「ところでワンコくん、ここ最近、キミの仕事の方の調子はどんな塩梅だい?」

「え? 仕事の調子ですか? そうですね……何と言いますか、スケジュールに余裕はありませんけど、それなりに順調ですよ?」

「そうか、順調か。まあ、それなら別に構わないんだが……」

 年甲斐も無く渋谷のギャル風のファッションに身を包む事を止めようとしない鍛治屋敷はそう言って、何やら裏がありそうな、意味深な表情をこちらに向けた。

「どうしたんですか? 何か、気掛かりな事でもあるんですか?」

「ああ、うん、ちょっとな。これは未だ確定事項ではないんだが、本部長の口から悪い噂を耳にしたものだから……いや、今はこの話はやめておこう。すまんワンコくん、忘れてくれ」

「はあ」

 普段からはきはきと気風きっぷが良い筈の鍛治屋敷らしくない、まるで奥歯に物が挟まったかのような口ぶりに、俺は何やら不穏な空気をひしひしと感じ取る。

「ごちそうさま」

 やがてポークカリーとエビカリーを食べ終えた俺と鍛治屋敷の二人はそう言って、レジで会計を済ませてから、多くの人で賑わう『エチオピアカリーキッチン アトレ秋葉原1店』を後にした。そして秋葉原UDXへと帰還し、エレベーターに乗って24階へと移動してからオフィスに足を踏み入れると、長い金髪と日焼けサロンで焼いた肌が眩しい鍛治屋敷と離別する。

「それじゃあワンコくん、またな」

「ええ、また今度」

 そう言った俺は鍛治屋敷と別れてオフィスを縦断すると、液晶タブレットやデスクトップパソコンと共に各種のフィギュアやプラモデルが散乱する自分のデスクにどっかと腰を下ろした。そして昼休みが終わるまでの時間を利用してプライベート用のスマートフォンを取り出し、SNSを立ち上げ、昨夜発表された『クラースヌイ・ピスタリェート』の最新作のPVの評判を改めて確認する。

「まあ、概ね好評かな」

 俺はそう言いながらSNSのTLを遡るが、PVを観たユーザーのハッシュタグには「期待してます!」だの「今から楽しみだ!」だの「絶対買います!」だのと言った肯定的な意見が並び、世間の期待値の高さに思わず居住まいを正してしまうばかりだ。しかしながらその一方で、一部のユーザーからの「もうこのゲーム飽きた」だの「どうせ今度も駄作のクソゲーだろ」だの「日本のゲームはもう時代遅れ」だのと言った手厳しい意見もちらほらと散見され、一概に安堵する事は出来ない。

「ふう」

 そうこうしている内に、やがて昼休みの終焉を告げるチャイムがフロア中に鳴り響いたので、俺はデニムジーンズのポケットにスマートフォンを仕舞ってから午後の業務を再開する事にした。そして画像編集ソフトであるAdobe Photoshopと3DCGアニメーションソフトであるMayaを駆使しながらレオニードのポリゴンモデルをブラッシュアップすると、そのモデルデータを開発チームのデータベース上に出力エクスポートして席を立ち、広範なオフィスの隣のブロックへと移動する。

「柴さん、ちょっといい?」

「は、はい! な、なな、な、何でしょう?」

「レオニードのモデルデータを少しばかり更新したんだけど、試しにコンバートしてみてくれないかな?」

 俺はそう言って、隣のブロックのデスクに腰を下ろすプログラマーである柴に、モデルデータのコンバートを依頼した。ちなみにここで言うところの『コンバート』とは、パソコンのソフト上で作った画像やポリゴンモデルのデータを、ゲームの実機で動くデータに変換する事である。

「は、はい、ちょ、ちょちょちょちょっと待っててください」

 少しばかりどもって挙動不審になりながらそう言った柴は、俺の依頼通り、俺らが開発中の『クラースヌイ・ピスタリェート』の主人公であるレオニードのモデルデータをコンバートし始めた。

「で、ででで、でき、出来ました」

 そして一通りのコンバートを終えると、柴はそう言いながら彼女のデスクの開発機に繋がったゲームパッドをこちらに向けて差し出したので、俺はそれを受け取ってから液晶画面の中のレオニードを操作し始める。

「ど、どうですか?」

「うん、なかなかいいみたいだね。このまま本番用のデータも、コンバートしておいてもらえるかな?」

「は、はい!」

 やはり若干挙動不審になりつつも、キャラクターの表示周りを担当するプログラマーである柴は、少しばかりカールしたショートボブの髪を揺らしながらそう言った。彼女は新卒社員として我が社に入社した時から対人恐怖症で人見知りが激しく、しかも赤面症と多汗症も患っていたために、こうしてそれなりに気を許す関係になるまで実に四年間もの年月を要したのである。

「それじゃあ柴さん、よろしく頼むよ」

 最後にそう言った俺はきちんと整頓された柴のデスクを後にすると、自分のデスクが在る隣のブロックへと帰還する途中で、新人デザイナーである小菅のデスクの前でふと足を止めた。

「やあ、小菅さん、調子はどう?」

「……別に」

 小柄で痩せぎすの小菅はぼそりと呟くようにそう言って、同じ職場の先輩として彼女を気遣ってやろうとする俺に対しても愛想が無く、まさに鰾膠にべも無いとはこの事である。

「そう? だけど小菅さんにも、少しくらい困っているような事があるんじゃないの?」

「……でしたら、どうしてもここのテクスチャがカメラが引いた際にぼやけてしまうんですけど、これ、どうしたらいいですか?」

「ん? どれどれ? ああ、これはMipMapテクスチャを作る際に、Photoshopの画像の『再サンプルの設定』をバイキュービック法じゃなくてニアレストネイバー法にするんだ。そうすればたとえカメラが引いても、テクスチャが過度にぼやける事も無くなるよ」

「……あ、そうなんですね。ありがとうございます」

 俺がMipMapテクスチャの作り方のコツを教えてやったにもかかわらず、やはり呟くようにそう言った小菅は、まるで俺を無視するかのようにさっさと液晶タブレットに視線を移して作業に没頭し始めてしまった。㈱コム・アインデジタルエンターテイメントに今年の春になってから入社し、我らが『クラースヌイ・ピスタリェート』開発チームに配属されたばかりのこの新人デザイナーは無口で無愛想で、どうにもこうにも一体何を考えているのかさっぱり分からない。そしてそんな彼女のデスクの上を見渡せば、きちんと整頓された柴のそれとは対照的に、妙に可愛らしくてファンシーなぬいぐるみやキャストドールの類が所狭しと並べられている。

「それじゃあ小菅さん、頑張ってね」

 俺は手を振りながらそう言って、何を考えているのか分からない新人デザイナーのデスクから退散し、やがて帰還した自分のデスクに腰を下ろし直した。

「ふう」

 自分のデスクに腰を下ろした俺がそう言って溜息を吐いていると、すぐ後ろのデスクに腰を下ろす寛治が問い掛ける。

「どうしたケンケン、そんな辛気臭い溜息なんて吐いちゃってさ。何か嫌な事でもあったのか?」

「いや、それがさ、今ちょっと小菅さんと話をして来たんだけど……彼女が一体何を考えているのか、俺にはさっぱり分からないよ。こんなんじゃ、先輩デザイナーとして失格だな」

「なんだ、そんなつまんない事で悩んでたのかよ。いいじゃないか、所詮俺らみたいな不細工な男連中には可愛い女の子が何を考えているのかなんて、たとえ死んでも分かりようもない事なんだからさ」

 ぶくぶくに太った肥満体を揺らしながらそう言って笑う寛治のデスクの上には、色とりどりのスナック菓子の空き袋や空になった炭酸飲料のペットボトルが散乱しており、彼のだらしなさと不摂生ぶりを如実に物語っていた。

「それで寛治、お前の作業の進捗はどうなってる? 順調か?」

「ああ、そこそこ順調だな。もう最終ステージまでの背景は接触判定コリジョンを含めたダミーデータが出来上がってるし、あとはマスターアップまでにブラッシュアップを重ねるだけさ。まあ、突然の仕様変更が無ければの話だがな」

 スナック菓子をぼりぼりと貪り食いながらそう言った寛治はこのチームの背景班、つまり『クラースヌイ・ピスタリェート』のキャラクター達が活躍する世界の人工的な建造物や自然環境を3D空間上に構築する仕事を担当しており、しかも彼はその班の班長を務めている。

「そうか、それならいいんだ。さあ、仕事仕事!」

 そう言った俺は自分のデスクに向き直ると、ワコム社製のタブレットペンを握り、各種のキャラクターやメカやプロップをデザインする自分の作業を再開した。図らずも俺らが開発する『クラースヌイ・ピスタリェート』の新作の発売まであと一年を切ってしまっているし、少しでも面白いゲームをユーザーの手に届けなければならないのだから、自ずとペンを握る手にも力が入らざるを得ない。そして意識を集中させながら業務に邁進し、やがて終業時刻が差し迫った頃になってから、不意に妙に甲高い女性の声がフロア内に鳴り響く。

「社員の皆さん、すいませーん! お仕事中ですが、至急、大会議室に集合してくださーい!」

 まるで流行りの女性声優のそれの様な妙に甲高い声、つまり俗に言うところのアニメ声でもってそう言ったのは、このチームの勤怠やスケジュールなどを管理するアシスタントの上別府美香うえんびゅうみかであった。彼女は背が高くて乳や尻が大きくスタイルが良いものの、顔立ちばかりは十人並みかそれ以下と言った、ちょっと残念な容姿の女性である。

「こんな時間に大会議室に集合だなんて、一体何だろうな? ケンケン、お前、何か知ってるか?」

「いや、俺は何も聞いてないぞ。とにかく大会議室まで行ってみよう」

 そう言った俺と寛治の二人は席を立ち、他の開発スタッフ達と共にぞろぞろと連れ立って廊下を渡りながら、やがてエレベータでもって移動した秋葉原UDXの地上23階の大会議室へと足を踏み入れた。広範な大会議室の中には俺らが所属するそれ以外の開発チームのスタッフ達も集合しており、まさに足の踏み場も無い程の混雑ぶりである。

「皆さん、集合しましたかー? それではこれから皆さんに、渥見本部長からご報告がありまーす!」

 やはりアシスタントである上別府がアニメ声でもってそう言えば、大会議室の正面の演壇上に、やや小柄な一人の男がマイクを握りながら登壇した。

「あーあー、皆さん、聞こえますか?」

 演壇上でマイクに向けてそう言った小柄な男は『クラースヌイ・ピスタリェート』のプロデューサーであり、また同時に㈱コム・アインデジタルエンターテイメントの制作本部長を務める渥見直也あつみなおやであって、言うなればアートディレクターである鍛治屋敷の直属の上司にあたる。

「誠に心苦しい事ではありますが、今日は皆さんに、重大な事実をお知らせしなければなりません」

 まるで勿体ぶるかのような表情と口調でもってそう言った渥見本部長は、今日もまた無駄に高価で派手な柄のワイシャツを着ており、その姿は一見すると新宿二丁目界隈に出没するゲイかオカマの類に見えなくもない。

「なあケンケン、重大な事実って、何だろうな?」

「さあな、俺が知るかよ」

 俺が小声でもってそう言って、隣に立つ寛治の疑問に返答したその直後、演壇上の渥見本部長は確かに重大な事実を口にし始める。

「単刀直入に言いますと、我が社、つまり㈱コム・アインデジタルエンターテイメントは今年度限りで倒産いたします」

「!」

 まさに青天の霹靂とでも表現すべき渥見本部長の言葉に、大会議室に集まった㈱コム・アインデジタルエンターテイメントの社員達は度肝を抜かれて困惑し、ざわざわと激しくざわめいた。

「皆さん、お静かに。これから、詳しい経緯を説明します」

 マイクを握りながらそう言った渥見本部長はごほんごほんと数回咳払いをしてから、改めて口を開く。

「皆さんも重々ご承知の通り、我が社は親会社である㈱コム・アインホールディングスの傘下の、いわゆる系列会社の一つに過ぎません。そしてここ数年、㈱コム・アインホールディングスは海外への投資の失敗によって経営不振に陥り、また同時にソシャゲ市場への移行にも失敗して業績が伸び悩んでいました。そこでこの度、業務の大幅な整理縮小を断行し、赤字部門であった家庭用ゲームソフト事業から撤退する事を余儀無くされたと言う訳であります」

 そう言った渥見本部長の言い分によれば、どうやら親会社の経営不振の煽りを受けた事が、倒産の直接の原因と言う事らしい。

「以上の理由から、我が社は最終的に倒産する方向で、経営計画を再編する事となりました。社員の皆さんにとっては寝耳に水の出来事だとは思いますが、どうか、ご理解していただきたく思います」

 渥見本部長がそう言って締め括り、マイクを置こうとすると、大会議室に集まった社員の一人が怒りを露にしながら質問する。

「渥見本部長! 会社が倒産したら、僕ら社員はどうなるんですか?」

「これから年度末の倒産までの期間を利用して、一部を除く社員は順次、解雇せざるを得ません。勿論我々としても可能な限りの再就職先の斡旋はしますが、なにぶん急な事なので、あまり過度な期待しないでいただきたい。それと、今回ここで見聞きした事は、社外秘として関係者以外には漏洩しないようによろしくお願いいたします。もし仮に漏洩した場合には、会社の利益を棄損したものとして、法的措置も辞さない構えだと言う事をお忘れなく」

 まるで社員を恫喝するかのような表情と口調でもってそう言った渥見本部長の姿に、解雇を宣告される格好になった社員達は落胆し、不信感と猜疑心に満ち満ちた眼差しを彼に向けるのだった。

「おいケンケン、なんだか大変な事になっちまったぞ?」

「ああ、これは大変な事態だ」

 俺はそう言って、ごくりと固唾を飲む。

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