軌道上 その五

 倍率を十倍に設定した光学スコープの丸い視野の中央に、宵の明星を思わせる白銀の光点が現れた。〈もちづき〉の遙か後方、予測通りの方角である。


 来たか? それともまた星か?


 息を詰め目を凝らす。ゆっくりとではあるが明らかな位置の変化が認められる。合わせて光度も増してくる。震える手で倍率を一気に二百倍へ上げ、ピントの調整を行うと、光点は卵型の輪郭を持つことが確認できた。


 原田はスコープの接眼部から目を離し、すぐ隣にある窓越しに外を見た。視界の下半分はコントラストのついた眩しいばかりの青と白の世界――地球が占めている。残りは濃淡のない黒の宇宙空間。この地球と宇宙との境界を成す薄青い大気のベールのすぐ上に、針先ほどの鋭い光があった。


 間違いない。ついに救援のシャトルがやって来たのだ。


 確信したとたん、原田は大きな手で心臓を握りしめられたような胸苦しさに襲われた。思わず右手を胸に当て、目を閉じ深く息を吸う。ゆっくりと吐く。もう一度吸って、吐く。徐々に動悸が治まってくる。

 もう大丈夫と開いた目に、さらに明るさを増した光が飛び込んできた。変化が速い。今すぐ長谷川に報告を行って、シャトルとのドッキングに向けた準備に入らなければ間に合わない。

 原田は「よし」と声に出し、両の拳を握りしめた。


 すべての準備が整った。地上から指示のあった工場生産物はすべて厳重に梱包し、リストには載っていなかった分についても、ほぼ全部を持ち帰り可能な状態としてある。実験データは耐磁・耐熱性の高い記録媒体に移し終えた。万が一のドッキング失敗に備えて二人とも宇宙服に着替え、モジュール間の隔壁も閉鎖済みである。

 あとはシャトルの到着を待つのみ。

 原田が宇宙服の気密チェックを終え、ヘルメットを装着しようとしたとき、長谷川がミネラルウォーターのパックを二つ、左右の手に持ち原田に声をかけてきた。

「原田君、五分だけつき合ってくれないか」

 澄み切った目だった。心の動揺など微塵も感じさせない、高い青空を映す湖面のような目だった。原田は自然と敬虔な気持ちになり、長谷川と向き合った。

「これを」

 長谷川が左手のミネラルウォーターを差し出した。原田が怪訝な表情で受け取ると、長谷川は四角い顎をぐにゃりと歪めて歯を見せた。

「水杯だ」

「ミズサカヅキ? ですか」

 そうだと頷き、長谷川はパックを持つ右手を顔の前に掲げた。よくわからないまま、ぎこちない動きで原田も習う。二人同時に口をつける。パックを軽く握れば程良く冷えた無味無臭のミネラルウォーターが口中に溢れ、次いで喉の奥を滑り落ちてゆく。無重量状態であっても飲み物はするすると胃に向かうのだ。ものを口にするたびに人体の不思議を思わざるを得ない。


 二百ミリリットルの水をすべて飲み干し再び顔を向き合わせると、うってかわって引き締まった表情の長谷川がじっと原田を見つめていた。

「ありがとう。これですっきりした」

 今の「ミズサカヅキ」が別れの儀式であるということは原田にもわかった。

「ドッキング作業が始まれば、もう君と落ち着いて話す時間はないだろうから、あと少しだけ話をさせてくれ」

「はい」

「〈もちづき〉の落下によって、日本は自前の宇宙ステーションを失うことになる。そして今回の事故により、宇宙ステーションの安全性や費用対効果、宇宙飛行士の人命救助への取り組みなど、様々な議論が交わされるだろう。おそらく厳しい意見が数多く出されることになると思う。そして議論の方向性によっては、今後日本は宇宙開発から撤退という事態も十分にあり得る」


 長谷川はそこでいったん口を閉ざし、黒々とした髪を乗せた大きな頭をぐるりと巡らせ、慈しむように周囲を見渡した。その視線が再び原田に戻ってくる。


「君に対しても意見聴取が行われる。もちろん君は自分の考えを述べてくれればよい。そして、もし――私のことが話題に上るようなことがあったときは、君が代わりに私の意見を伝えて欲しい。

 長谷川は〈もちづき〉の最後の搭乗員となったことを誇りに思っています。また数多くの方々から届けられた励ましのメッセージには心より感謝しています。本当に嬉しかった。今回の事故は不幸な出来事でしたが、何ごとにも困難や障害はつきものです。日本は決して宇宙開発の歩みを後退させないで欲しいと思います。それが一宇宙飛行士としての長谷川の希望です。

 以上だ。よろしく頼む」


 原田はこの瞬間、心の襞に深く染み込み、どうしても拭い去れずにいた、一人だけ帰還することへの後ろめたさが、すっと溶けて消えるのを感じた。


「必ず伝えます。そして二代目〈もちづき〉とともに、必ずここへ帰ってきます」

「おう、格好いいぞ。原田君」

「班長の後輩ですから」

「それと」

「はい」

 長谷川は宇宙服の腰に装着したツールバッグから、三通の封筒を取り出した。

「カミさんと娘たちにこれを」

「必ず届けます」

 二人は固い握手を交わし、その手で互いに敬礼を送り合った。


 二人が額を寄せ合うようにして覗き込む船外カメラのモニターには、鈍い灰緑色に光るシャトルの、ずんぐりとした鼻先が大写しとなっていた。表面にある何かが擦れたような跡までもが白くはっきりとわかる。そしてわずかに見える船体の側面には、HOPEの赤い文字が読みとれた。

 もうすぐだ。

 モニター画面の右上部には、シャトルと〈もちづき〉の相対距離をセンチメートル単位で示すデジタルカウンターがあり、下一桁の数字が目まぐるしく変化している。


 残り五メートルを切った。

 ドッキング誘導装置のデーターベースが、二〇二三年製の貨物運搬専用機〈伝馬3号〉であることを探り出していた。現役の宇宙船としては最長老と言ってもよい年代ものである。〈もちづき〉のドッキングポートは汎用性の高い最新型のものであり、あらゆるタイプの宇宙船に対応しているので問題はないが、システム間通信のプロトコルには相違があるらしく、シャトルは〈もちづき〉からの誘導信号に反応せず、自力でのドッキングを行おうとしているようだった。となれば、シャトルの操縦には相当の技量が要求される。全長約二十メートル、重量五〇トンの機体を、十センチメートル以内の誤差でドッキングポートに接続しなければならないのだ。


 残り三メートル。

 シャトルの動きは滑らかで、正確だった。とても手動とは思えない操縦技術に、原田だけでなく長谷川までもが瞬きを惜しむほどに魅せられていた。

 とても及ばない。

 まだ見ぬ操縦士に嫉妬を覚えるほどだった。


 残り一メートル。

 〈もちづき〉のドッキングポートから、シャトルを係留するための支柱が伸びてゆく。モニター画面はシャトル先端部のアップに埋め尽くされている。


 残り〇・一メートル未満。

 軽いショックが〈もちづき〉全体に伝わり、ドッキングは無事終了した。二人の口から同時にほうとため息が漏れる。原田の知る限り、最もスムーズで、最も美しいドッキングだった。

「最後に良いものを見せてもらった」

 長谷川の台詞に含まれた「最後」という言葉に、もう原田が動揺することはなかった。長谷川の口調もごく自然で穏やかなものだった。


 ドッキングポートに直接繋がる気密室に高圧の空気が送り込まれ、ドッキング作業の最終チェックが行われた。気圧の降下は認められず、インジケーターランプはすべて緑が並ぶ。エントランスルームで待機していた原田と長谷川は、宇宙服のヘルメットを脱ぎ、安堵の息を吐いた。

 しゅっと乾いた音がして、気密室とエントランスルームを隔てる扉が左右に開いた。正面に見えるドッキングポートから直径二メートル弱もある大型のハッチが突き出している。それはもうシャトルの一部なのだ。二人はエントランスルームの一番奥に並んで立ち、華麗なドッキング技術を見せてくれた操縦士の登場を待った。


 ほどなくリング状のハッチ開閉ハンドルがゆっくりと回り始めた。時折何かに引っかかるらしく、その都度、細く甲高い金属音が二人の耳に突き刺さる。四分の三回転でハンドルの動きが止まり、ハッチの奥でロックの外れる鈍い音がした。一呼吸置いて円形のハッチが二十センチばかり真っ直ぐ押し出され、次いで向かって右側のヒンジを軸に手前側へと開き始めた。そのまま百八十度回転しハッチが開ききると、薄暗い円筒状の空間が姿を現した。

 最初に白いヘルメットが見えた。

 おや、と見直すほどに小さい。

 続いて白い肩、白い腕、白い胸と順に出てくるが、どれも平均的な成人の体格よりも一回りほど小さいものだった。

 二人が息をのんで見守る中、小柄な操縦士は細い腕をつかって、全身をハッチの奥から引き出した。

 長谷川が大きく息を吸い込む。

 原田の喉仏がごくりと上下に動く。


「長谷川さん、原田さん、お待たせしました。帰還準備は完了していますか?」


 流暢な日本語だった。二人は硬直したまま、言葉を返せないでいる。


「猶予時間は二時間を切っています。効率よく作業を進めなければなりませんので、今から私の指示に従ってください。長谷川さんは四年前に日中交流研修で中国製シャトルの操縦訓練を受けておられますね。今すぐ帰還用シャトルの操縦席に移動していただき、操作方法の復習を行ってください。マニュアル一式は操縦席に準備しています。不明な点はシャトルの通信装置で地上へ直接問い合わせてください。次に原田さん。地球へ持ち帰る工場生産物をシャトルの貨物室へ積み込む作業をお願いします。ただし、その作業の前に、地上から持ってきた簡易型通信装置を貨物室から取り出し、〈もちづき〉の外壁へ取り付けるという作業が必要です。これは〈もちづき〉のマニピュレーターを使用して私が行いますので、申しわけありませんが船外カメラの操作補助をお願いします。以上、ご質問があればどうぞ」


 原田と長谷川は顔を見合わせ、目配せを交わした。原田が小さく頷き顔を正面に戻す。

「あ、あの――」

 原田の言葉は喉の奥に引っかかり、それきり出てこなくなった。代わって長谷川が一歩前に出る。

「作業指示了解しました。失礼ですが、あなたのお名前と所属をまだうかがっていません。差し支えなければ教えていただけませんか?」


 小柄な操縦士は姿勢を正し、透き通った緑色の光を放つアーモンド型の目を長谷川に向けた。


「こちらこそ失礼しました。私はパスカルといいます。所属は――地球です」

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